10
―――――暴れる犬神を捕らえて、頼正を殺せ。
裏を支えるもう一匹の犬神、黒太郎(くろたろう)は“器”を媒介として確かに存在する。
表の白刃と対になっている裏の犬神である黒太郎を殺すことは出来ないけれど、“器”を壊せばまた長い年月、黒太郎が暴れることはない。だから“器”を壊すのが最良なのだと。
確かに以前そう父に習った。だが、“器”が人だとは聞いていない。
“器”が、弟―――頼正であるなど、思いもしない!
「・・・・嫌だ」
宗方はそう呟いた。父は微かに目を開ける。
「嫌だ。頼正を殺すのも、父さんをここで見捨てるのも・・・・・!」
突然、父は宗方の頬を殴った。何度か殴られたことがあるが、今までにないほど、弱々しかった。
「・・・馬鹿者・・・! 軟弱な台詞を、吐くな・・・っ!」
父は、なお言おうとしていた言葉を呑み込むしかなかった。犬神・白刃の伝承は死を持ってしか不可能なのだ。宗方に黒太郎の後を追わせるために、自分を殺せと宗方に命ずる直前だった。
死に対して、宗方はまだ精神的に幼い。だが、かけられる時間はもうないのだ。
頬を抑えて俯く宗方を見て、父は言う。
「聞き入れろ宗方・・・・最後の命令だ」
「・・・・・・・・」
流れる血を見て、宗方は唇を噛んだ。ここに来るまでに死んでいた人間の亡骸も見た。逃げる女子供も、恐怖に震える霞織の姿も、見た。けれども。
「・・・・・・・・・・・・・いやだ・・・」
「・・・・・・ッ!!」
頼正を、祝福をこれから受ける頼正をどうして殺せると言うんだ。
宗方が悔しさを潰すように拳を作った。だがその途端、とてつもなく重い冷気を全身で感じた。再びのしかかる恐怖に、宗方は振り返ることも出来なくなった。
ただ背後に。
「―――ッ!!?」
荒く気高い、獣の気配がする。
「宗方逃げ――――!」
まったく身動きをすることを忘れたように固まった宗方の手を、死の際に立つ父が渾身の力で引っぱった。
一足で間合いを詰めた獣―――絶対的力を持って君臨する犬神・黒太郎は、父の頭から胸をその鋭い爪で切り裂いた。宗方は目の前の光景に一瞬息を呑んでから叫んだ。
「―――父さんッ!!」
裂けた上半身は原型を留めていなく、中途半端に裂けた腹部からは一体どこに詰め込まれていたのかと疑うほど長い腸が飛び出して血の雨を降らせた。一面赤く染まったその地面の上で、獣は咆吼した。
父の体だったものは、びくびくと動きながら倒れた。宗方は、その光景に口を押さえる。悲しみも、恐怖もあったが、光景への生理的嫌悪が胸に溜まる。
「・・・・・ぅ・・・」
か細く声を出した宗方のほうを獣は見た。そして、飛びかかった。すでに人を喰らい、腹を空かせているわけではない獣は、動く物をただ追っている。獣の本性として、逃げるものは逃さない。
獣は遊ぶように、宗方の右肩をその大きな手に比例する強靱な爪でえぐるように引き裂いた。
「う゛わ゛あ゛あ゛ぁぁぁあッ!!!」
衝撃と同時に全身に伝わる激痛に宗方は叫んだ。吹き上げる自分の血液と引き裂かれた肉片。それを確認する間もなく、獣は怪力で宗方を木に叩き付けた。
その時、獣は異変に気付く。
宗方の血と父の血が混ざり、混ざった血はそれを踏んでいた獣の足を焼いた。強い酸のように、獣の足を溶かす。獣は吼えて飛び退いた。名残惜しそうに宗方を見つめたが、動かないのでそのまま踵を返し、山を下っていった。再び梔村の方向へ。
動かなかったが、宗方は薄れかけた意識で全て見ていた。そして、獣が退いたわけを悟った。
亡き者になった父の骸。五体満足でないその部位が、血だまりの中でしっかりと自らの血を握っていたのだ。体が吹き飛ばされても、彼は宗方を生かすために犬神を呼び出そうとしていた。結果的に犬神召喚まで至らなかったが、それでも反発する力は喚びだした。
宗方は動かない体を無理に動かし、痛む体を押さえ木に縋るようにもたれ掛かって立ち上がる。右肩から先の感覚が全くない。激痛と衝撃で体が傾ぐ。頭から流れる血が目に入ったが、拭っている余裕などない。
父の血が飛び散っていない所まで何とか歩き、意を決して左手を右肩の傷に突っ込み、血を地面の上に落とした。
「がっ・・・・・・は・・・!」
意識が飛びそうになるが、唇を噛み千切って堪えた。そして出来た血だまりに左手を付き、教えを思い出す。
―――犬神は、血を媒介に現世とは別の所から喚び出せる。獣とは己より強いものにしか服従しないから、命に関わるような出血のときに無茶だけはするな。
宗方は思う。わかっている、でも今やらなかったら全てが終わる、と。
奉る犬神・白刃を父は喚び出さなかった。喚び出す前に、事切れた。だから宗方は知っていた。犬神はすでに、自らの内に在る。
震える体を保たせながら、声を出そうとすると血で声が掠れた。努めて口の中の血を吐き捨て、言霊を紡いだ。
「・・・・・・・・参れ―――」
―――宗方。犬神は気持ちで喚び出すのだ。多くの言葉は要らない。ただ・・・。
父の言葉が、脳裏によぎる。厳しく、そして優しかった父の言葉は。
―――ただ、名を呼べばいい。我が家に伝わる、白き犬神の名を。
宗方は、持てる力全てを使って叫んだ。
「・・・・・参れ!『白刃(しらは)』!」
言葉が響き、此処でないどこかで巨大な犬の眼が開かれた。
眩く輝いている血だまりの中から、大きな犬が姿を現す。地面から出てくるように、あり得ない物質量が出てくるのを見て、血だまりが異界と繋がっているのだと宗方はぼんやり考えた。
初めて喚び出す犬神に、宗方は威圧される。だが。
その美しい毛並みの輝きとのぞき込んでくる深紅の瞳。黒太郎に劣らないその風格に値する牙は、きっと黒い犬神と対等だ。
邪を持つ黒犬と対になる白刃(はくじん)。その名にふさわしい神の眷属だ。
宗方は痛覚すら失いかけていた。ただあまりにも重い荷物に潰される子供のように、ふらふらと立つ。
右肩に突っ込んでいた手を前方に向けて指さし、血を滴らせながら叫んだ。
「俺を連れて、対なる者を追え!」
白刃は白い毛並みが血に汚れることも構わずに頭を垂れた。
『御意』
犬上家最後の当主として、宗方は成さねばならない。被害が広まる前に。
* * *
崩れた自宅の天井から何とか這い出た利盛は、辺りから聞こえる悲鳴と轟音、獣と血の匂いに目を開いた。
菫に傷つけられた手を押さえる。それ以外、外傷はなかった。心の傷を入れるとすれば、満身創痍だったに違いないが。
(あの赤子が・・・・・やったのか・・・・!?)
赤い瞳になった赤ん坊は、瞬く間に巨大な獣と化し、利盛の目の前で菫と良盛の首をかき切った。そして家を半壊して外に飛び出した。
それから意識は途絶えていたが、数時間前まで平和な村だった故郷、梔村を見て、利盛は叫んだ。
「・・・・・・・ぅ、わあぁぁぁぁぁぁあッ!!!」
驚愕の叫びと言うよりは、悲しみを吐き出す叫びだった。
自宅と同じように半壊した村。壊れた井戸、潰れた家畜小屋、崩れた小川、折れた木々。地面に飛び散った赤い血やはみ出した内臓、原型を留めていない人間の死体。
人間を食い殺して吼えた獣は、崇拝すべき神の在り方ではない。
「化け物だ・・・・っ!」
悪鬼とも言える、恐怖の代行者だ。
辺りに――死体は、除いて――村人の影はない。避難したんだろうと利盛は山の方を見た。遠くからでもわかる木々の折れ方で黒い犬神も追っていったこともわかった。
突然利盛は冷や汗を流した。
(もし)
村人全員が殺されていたら・・・・。
利盛の不安を払拭するには素晴らしいタイミングで、避難のために山に入っていた女子供と、合流した生き残りの男達が、合計十数人ほどだが、梔村に戻ってきた。
「利盛さん!」
「如月霞織か。犬神は・・・・!」
先頭で足の弱い老婆の手を持ち、杖代わりになっていた霞織は駆けて寄ってきた利盛に焦ったように言う。焦っていると言っても、他の村人達よりは余程落ち着いていた。
「途中で宗方さんに出会いました・・・・。獣の鳴き声の方へと向かいましたので、きっと・・・」
「そうか・・・・・犬上家の者が相応の責任を取るべく・・・」
(犬上家の長女は・・・・・死んだと伝えた方がよいのだろうか・・・)
おずおずと、後ろに見える崩れた家を見てどこか予測はついていたのだろう、霞織は訊きにくそうに訊ねた。
「利盛さん・・・・・・・村長は・・・」
「・・・・・・殺されたよ」
―――犬神に、食い殺された。
利盛は居たたまれない思いになったが、すぐに顔を上げた。
「父の代わりに、私が指示を出す!」
妻と子供の姿が見えない。その不安があるだろうに、利盛は微塵もそんな姿は見せずに、脅えている残り少ない村人達に言った。
「無事な者は怪我人と老人、子供を連れて避難、私は犬神の所在を確かめるためにここに残る。一日経っても私が追いつかなければ諦めてくれて構わない」
「そんな! 利盛さん」
霞織が悲痛な声を出したので、利盛は少しだけ泣きそうに笑うという変な顔をした。
「私の義務だ。だが頼む・・・・・・私の妻子を連れて行ってくれないか」
最も冷静に引率できそうな霞織にそう頼む利盛。霞織は、少し間を空けてから頷いた。だが、実際。利盛の妻子はすでにこの世にいない。姿形を残していない村人達の死骸のどこかに、混ざっているはずだ。
霞織は服の端を掴んだ。利盛の顔を見て、きっと利盛もそのことに気付いているのだと悟って涙が出そうになった。
「はい・・・・・・必ず・・・!」
嘘だ。でも建前が必要だった。
霞織は村長代理の指示通りに、村人達を導き始めた。最初と同じように、お隣だった老女の手を握り、歩を進めていく。
一同は霞織の引率で首尾良く避難していた。村を離れ、再び山道になろうかという行程で老女が気付いたように霞織に言った。
「霞織ちゃん・・・・・倉木さんとこの末っ子・・・・・・あの子がいないよ・・・・・!」
ばっと霞織は顔を上げた。共に連れ立って村を逃げたときには一緒だった。だが、犬上家の人たちに状況を伝えようと若い霞織が単独で離れるときに、村人達に預けたのだ。
だがその村人達も混乱状態だった上、人数の確認も出来なかったので、自分たちが逃げるのに精一杯になったのだろう。
少ないその集団の中に、倉木誠一の姿は無かった。
「誠(せい)ちゃん・・・・・・!」
『カオリは俺が守ってあげるね!』
誠一の言葉を思い出して、霞織は血の気を引かせた。
(犬神の山に・・・・残ったまま・・・・・・・ッ!)
「ごめんなさい! 私、戻ります!」
「あ! 霞織ちゃん!?」
「駄目だ、戻るんだ!」
村人達の引き留める声を無視して、霞織は元来た道を戻って走り始めた。
* * *
風のように速く、大地のように力強く、白い輝きが森を駆ける。流れ星の尾のように軌跡に飛ぶのはその上に乗る人間の血だ。
「白刃、黒太郎を殺せるか?」
『わたくしの力では、相打つのが限界かと』
犬神の血を引く人間の回復力は速い。そうは言っても肩に残った深い傷は恐らく一生消えないだろうし、今も血を流している。
それでも宗方はだらりとその手をもう片方の手で支え持ちながら白刃の上にまたがり、必死に毛を掴んでいた。
「・・・・そうか。それでも俺は、そう命令しても良いのか?」
相打ちになれ、と。つまり『死ね』、と。
若い当主の言葉に、白刃は頷いた。
『貴方が望むなら』
白い毛並みを血の色に染めて駆ける犬神の応えに安堵し、宗方は白刃の首に抱きついた。
「すまねぇな・・・・・」
犬上家を終わらせよう。父は存続を願っていたが、不幸を生むだけだ。
肩が焼けるように痛い。気絶した方がマシだとも言えるその疲労。それでも、命を燃やしてでも今は起きていなければ。
宗方は、再び命じた。
「・・・・・・・・何が何でも、黒太郎を討て」
『御意』
(そして俺は)
俯いて落ちた前髪に隠れた瞳から、雫が一粒零れて風に乗って横に流れていく。
―――頼正を・・・。
目を閉じた。何を言ったとしても、自分の義務なのだと割り切らなければ。
次に目を開いたときは、もうそんな感情は残していない。
「もっと速く!」
宗方の言葉に従い、白刃はさらに足を速めた。
「・・・・・・! いた!」
孤高に岩の上に立ち、黒い獣が尾を振って白刃と宗方を見下ろしていた。白刃が足を止めて唸ると、宗方は白刃から下りた。
唸る二匹の犬神の牙が、対峙した。
* * *
異常なほど静かな山の中で一人倒れていた倉木誠一は、ふっと意識を取り戻して身体を起こした。
霞織と共に村から脱出した誠一は、共に犬神の被害が薄い隣の山へ避難する途中だった。犬神は犬上家と梔村があるこの山に光石で囚われているので、隣の山まで逃げれば安全なのだ。しかし途中で霞織は、使者として危険な中一人で集団を離脱した。犬上家の人間と接触する唯一の人間だから、霞織自身も自ら進んでその役を買って出たのだ。
共に行きたかったが、誠一は集団に残るように霞織に言われた。心配だったが、子供の誠一は避難することになった。しかし霞織が離れてすぐに、犬神が姿を現した。
後方に居た人たちを踏みつぶして、突如現れた犬神に皆パニックになった。今まで手を引いていた大人たちは慌てて押し合いになった。
手が離れ、倒れた誠一は押されて茂みの中に入り、頭を打って倒れた。薄れる意識の中で、獣の吼え声と村人の悲鳴が聞こえていた。
起きあがり、少しずきずきする頭を抑えながら誠一は全てを思い出した。
おそるおそる辺りを見て息を呑んだ。夢ではないと突きつけるような現実に、息を止める。充満して血の臭いに、気分が悪くなった。
もう犬神は居ないらしい。ゆっくり茂みから出て、誠一は辺りを確かめた。そして安堵する。
(霞織は、逃げてたよね・・・・・)
赤ん坊の頃から良く面倒を見てくれていた隣人。誠一の中では姉のようなものだ。霞織自身も、誠一を弟のように思っているだろう。
誠一の中で、一番大切な人だ。
殺された村人達の中にも、霞織の姿はない。そのことにとりあえず誠一は安心した。村人達が死んだことには衝撃と恐怖があるが、霞織だったらと思うともっとぞっとする。
飛び散った血と死体から目を背け、誠一は一歩ずつゆっくりと歩き始めた。しかし宛はない。ここがどこかもわからないのだから。
(全員殺されたわけじゃないだろう、けど・・・・・・どこ、行ったんだろ・・・・)
そして霞織は無事なのか。どこにいるのか。
自分の身体が緊張しているのがわかる。
(犬神は、どうなったんだろう・・・・・)
まだそこらを徘徊しているのかもしれない。
ガサッと草を踏み分ける音を聞いて、誠一はびくついて急いで振り返った。近づいてくるその音に、誠一は腰が抜けたようにその場に座り込む。地面に付いた手が、村人の血で濡れる。確かに思い出せる犬神の恐怖に、目に涙が浮かんで身体が震え始める。
「・・・・・・ぅ・・う・・・・!」
一人という恐怖も、追い打ちをかけるように心細い。
死ぬかもしれないという恐怖に、何も考えられなくなった。
「・・・・・ッ・・・・・・〜〜〜!」
誠一は縮こまっていた頭を上げた。獣ではない、人の声に聞こえた。
そして確かに、声を聞いた。
「・・・・・・・・誠ちゃん・・・!」
声が耳に届くと同時に、その姿も目に入った。
「カオリ!」
誠一が呼ぶと、すぐに霞織は気付いて駆け寄ってきた。べそを掻きかけの誠一の身体を抱きしめ、霞織は安心して息を吐く。
「良かった・・・! ゴメンね、一人にして」
「・・・・・う〜!」
誠一は零れそうになった涙を拳で拭った。霞織を守ると誓ったのに、これでは守られている。と、少しばかり自尊心が回復して情けなくなった。
張りつめて緊張していた誠一の頭を撫でて、霞織は誠一を引っぱる。
「こっちよ、山を下りましょう」
「カオリ・・・犬神は・・・・・?」
「・・・・・・きっとまだ、この山のどこかにいるわ。でも宗方さん―――犬上家の人が、何とかしてくれる。私たちは邪魔にならないように逃げましょう」
誠一の後ろに見える赤い血に、霞織は少し眉根を下げた。黙祷する時間すら今は惜しいのだと心の中で亡骸に謝り、誠一を促す。
霞織は思う。
まだ幼い、弟のように慕ってくれるこの子を守らなければと。
ぎゅっと手をつなぐと、誠一は霞織に言った。
「・・・・・・大丈夫、カオリは俺が守ってあげるから」
語尾が少し震えていたことなど、気付かなかったことにする。誠一も霞織を励まそうとしているのだ。
霞織は微笑を誠一に向けた。
「ありがとう、・・・頼もしいわ」
手をつないで、二人は山を下り始めた。そこからそう遠くない場所で、聞こえた犬神の遠吠えに時々身を固くしながら、歩を早めていった。
* * *
宗方は荒い息を吐きながら、戦況を見ていた。召喚型の犬神である白刃は、術者の意識が途絶えればその存在を縛るものが無くなり、術者を喰らうこともあるのだと父から聞いていたので、今倒れるわけにはいかないとあえて痛みを忘れないようにしていた。
(・・・・俺なんぞいくらでも喰らって良い。でも黒太郎をしとめてからだ・・・!)
決着はつこうとしていた。白刃の牙は確実に黒太郎の腹や首に刺さって致命傷を与えていた。比例して白刃にも黒太郎の爪痕や歯形が残されている。
自らのみでなく術者の宗方をも守りながら戦った白刃の方が、傷は深かった。それでも、宗方は黒太郎が弱るのを待っていた。
肩の傷が熱い。犬神の血を引く宗方の回復力でも、致命傷に違いない。
脚にも噛みつかれた白刃は、襲いかかる黒太郎の一撃を完全に避けきれそうになかった。喉元を狙った黒太郎の牙が白刃に食い込むより先に、宗方は重い身体を前に押し出すように叫んだ。
「白刃、今だ!」
『・・・!』
黒太郎が、一瞬動きをゆるめた。それを白刃が逃すはずがなかった。狙った首はぎりぎりのところで避けられて、黒太郎は白刃の肩に噛みついた。白刃は少し避けたその首を回して、黒太郎の首を噛んだ。
『ギィイイ!』
暴れる黒太郎に振り回されながら、白刃はその強靱な顎で、首の肉を食いちぎった。
黒太郎の首から血が噴き出し、低くて聞き苦しい悲鳴が響く。白刃は食いちぎった部位を、宗方の方に吐き捨てた。
宗方は、その赤い塊の中から小さな透明の珠(たま)を取り出す。
『! ・・・貴様ァ!!』
「・・・・・黒太郎はその食った人の命を吸って力を得て、力を形として残すと書いてあった。これが、そうだろう・・・・・!」
村人を食って、具現化した命の珠だ。
「弱らせて討て。基本だろうが」
宗方の言葉通り、目に見えるように黒太郎の身体から白刃を抑える力がそがれていく。
『返せェ!!!』
完全に力がそがれる前に、黒太郎は宗方に襲いかかった。弾かれて距離の空いた白刃は、飛び跳ねるように後を追う。犬神である黒太郎の力が弱まっていたとしても、人間である宗方のほうがまだ非力なのはわかりきっていた。
宗方は身構えたが、黒太郎は宗方の上を飛び越えた。
黒太郎を攻撃しようと追っていた白刃は一度足を止め、宗方を後ろに守るように立ち塞がった。だが黒太郎が茂みに潜んだ様子はない。草をかき分ける音が遠のいていく。
「くそっ、追うんだ白刃!」
黒太郎の意図に気付いた宗方は、怒鳴るように言った。
力の珠を失った黒太郎は、取り戻すのが難しい白刃の相手をすることより、新たに命を吸い、珠を作ろうと考えたのだ。
* * *
突如聞こえた何度目かの獣の咆吼に、誠一と霞織は肩を跳ねさせた。
「カオリ・・・・・・」
「・・・・・・・急ぎましょう、もう少しで山を出るから」
励ますように笑って、霞織が誠一の手を引いたときだった。
『二人・・・・・か』
地下深くから響くような腹の奥からにじみ出るような声に、霞織と誠一の周りは影が落ちた。背後から沈み掛けの太陽の光を遮って、負傷した黒太郎がよだれを垂らしていた。
―――――ドクンドクン。
誠一の心臓は、早鐘のように鳴りはじめた。
『守らなければ』
―――――ドクンドクンドクン・・・・!
大切な人を。
―――――ドクドクドクドク・・・・・・・・!
霞織を。
守らなければ。
自分は男の子だ。
守らなければ・・・!
黒太郎の赤い瞳が誠一の目をのぞき込む。ただそれだけで誠一の身体が固くなる。
(動け・・・・・・・動け動け動け!)
震える脚を、動かしたい。自分の脚なのに、何故こんなに難しいのか。
黒太郎の牙が迫る。大きく開かれた口は、血で染まっているかのように赤く、一口で子供の誠一を食うだろう。
瞳に涙を浮かべ、額や首、脇には脂汗が滲む。大きく丸く開かれた誠一の瞳は、身体の震えと比例するように揺れた。
そしてゆっくりと。
現実を突きつけるように、誠一の中で『時』はゆるやかに流れた。
押される衝撃と、目の前に迫った犬神の口が長く美しい黒い髪で隠れていく様を見て、目の前に霞織の姿を認知すると同時に、時が元に戻った。
時が戻る一瞬前、霞織の顔が苦笑するように微笑まれた。
聴覚と視覚と嗅覚と感覚。失っていたそれらが、全て一度に戻ってきたような錯覚を得た。
バリッという、音を確かに立てて、血が逆流する滝のように、天に飛び散った。
その光景が目から入って脳に達し理解するまでにことさら時間がかかり、自分の身体ではないようだった。
誠一は叫んだ。
「カオリ―――――!!!!」
そう華美ではないが美しい着物を血に染めて、霞織の左上半身は黒太郎の歯形にそって食いちぎられた。切れた髪の一部が辺りに落ちた。
だらりと倒れかかった霞織の身体は、庇うように誠一に覆い被さっていた。
黒太郎は急く様子で霞織の脚に噛みついた。そしてこともなげに引きちぎる。
―――人が鶏肉を食べるように。
―――魚を食べたり、肉を食べるように。
誠一は山で、肉食の狐が兎を食べるところを見たことがある。兎を可哀想だと思ったこともあったが、自分だって兎の肉を食べたことがあるのだ。だから、当然の光景としていた。弱いからしょうがないと思っていた。兎の子供を生け捕って、親を取るという方法も知っていた。
誠一は、自分の行動が恐ろしくなった。
なんて残酷なことをしていたのか、と。
音を立てて霞織が食われていく様を、突きつけられて初めて気がついたのだ。あの時遠くで捕らわれた兄弟姉妹を見ていた子兎の気持ちが。
『人はこの獣と変わらない。』
「うわあぁぁぁぁああっ!!!」
誠一が涙の雫を落として叫んだとき、流れる星のように速く力強く、白い光が黒太郎を脇腹からなぎ倒した。
続いて遅れた声が、とどめのように言った。
「消え失せろ!」
白刃が遠吠えのように吼えると、黒太郎は忌々しげに歯を剥いたが、力を失うように小さくなっていった。そして、徐々に媒介の姿に戻る。
身体負担の大きい黒太郎を身にまとっていた媒介――頼正は、息をしているのかわからないほど弱々しく地面に横たわった。
限界を超えた宗方は、膝をついて地面に倒れる。怪我をしている白刃が心配そうに宗方に寄ろうとしたが、宗方の元に駆けつける前に自身から流れる血が光り、その中に姿を消した。
一瞬だけ意識を失った宗方は、疲れ切った身体を這うように動かし、血だまりの中呆然と肉片を抱き留めている子供に目をやった。
真っ黒だった子供の髪は、恐怖と緊張で今や真っ白になっていた。
間に合わなかった最後の一人の犠牲者を見て宗方は悔しそうに顔を歪める。そして誠一の呟きを耳にする。
「・・・・・・・・・・・たの・・・・・・・?」
泣き出さずに淡々と語る口調だった。途切れ途切れだった声は、徐々に言葉になる。
「・・・・・・どうして・・・? いったい・・・」
その後に続けられた言葉に、宗方の目は開かれた。
「いったい・・・カオリが何をしたというの・・・・・?」
宗方は唇を噛んだ。
(霞織・・・・・・・・・・・ッ!?)
誠一の目は、宗方に向けられた。
「ねぇ・・・・・・カオリが、いったい何をしたの・・・?」
誠一に外傷はないが、血塗れだった。白い髪に赤がよく目立つ。少し落ちている長い髪と、赤くなって汚れた着物。その柄を宗方は見たことがあった。そして姿形がないこの亡骸が誰なのかもわかった。
誠一の問いに宗方は応えられるはずもなかった。外見の年頃は似た二人だが、生きてきた年数は異なる。幼い誠一に、現状を知らせる術など持っているはずがなかった。
無表情に、辺りを見回す誠一。その様子は取り乱した様子は無く、宗方の背筋の方が冷えた。
「・・・どうしてカオリはいないの?」
「・・・・・ッ」
底冷えするような、突き刺さる言葉だ。宗方の心を抉るように問われる。
「ねぇ・・・・」
無表情なのに、ほろりと一筋の涙が誠一の眼から流れた。ずきずきと痛む箇所は、肩だけではなくなった宗方。犬神を遠ざけることは出来たが、被害が多すぎるのだと思うと簡単に謝ることもできない。
宗方は誠一から目を逸らした。そして、意識して遠ざけていた頼正の方へと這っていく。鈍い動きで血の跡を残しながら宗方が這う間も、誠一は呆然と血だまりに座っていた。宗方は長い時間をかけて頼正に近づき、手を伸ばそうとした。
見える限り赤子の頼正は、体力と気力を消耗して眠っているようだった。
生きている。
(良かっ・・・・・・・・)
詰めていた息を吐こうとして、吐けなかった。
――――良いはずがない。
ぎりっと宗方が唇を噛んだ。
そこへ、数人の足音が聞こえてきた。かき分けてやってきたのは、村長代理の利盛と、避難していたはずの生き残った村人たち。
現場の状況を見た村人達の息を呑む声を聞いても、誠一は呆然としていた。
宗方は、何とか身を起こすのが精一杯だった。
――――――犬厄は去った。だがその被害は、甚大な結果となった。