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 膝を突いたまま頼正を抱きしめる宗方の前に利盛は立った。
 利盛は足下の宗方を見下ろし、苦渋の顔をしていた。村人に何人かは誠一を抱きしめたり保護したりしていたが、三分の二ほどの村人は利盛に倣うように宗方の周りに立っていた。
「犬神憑きめ・・・・」
 誰かが呟いた。呟いた者の瞳は、濡れていた。
 皆が皆、似たような気持ちだったろう。言葉はなくとも、視線が語っていた。そして全ての視線が宗方と頼正に集まっていた。
 霞織が引き返したことで、もともと少数で繋がりが深い村人達は遅々としながらも引き返した。そして村に残った利盛と合流し、山に入ったと思われる霞織と誠一の姿を皆で探していたのだ。
 だが、行き着いたときに見えた光景は。
 老人のように真っ白な髪になった誠一が、血だまりの中で肉片を抱きしめていた。辺りに落ちた一房の髪と着物の切れ端、倒れ傷ついた犬上家の人間。
 血を流した者が誰か、一目でわかる状況だった。
 恐怖と侮蔑と、嫌悪と憎悪と・・・怒り、やるせなさ。いろんな感情が渦巻いて、宗方に注がれていた。
 利盛が代表として口開いた。
「・・・・・・・お前は、“宗方”か?」
 菫の言葉を思い出して問われた言葉。宗方は黙ったまま頷いた。利盛の視線は宗方が抱いている頼正に移り、歯を噛みしめた。
「菫と名乗る、犬上家の息女が・・・・・・・その赤子を抱いて、梔村に来た」
「!」
「突如・・・・獣と化したその赤子は・・・・・・私の父と、息女の喉を噛み裂いた」
 利盛の拳は震えていた。宗方は叫ぶように言った。
「『変身』と『共有』は違う! 頼正の意志じゃないっ」
 器として扱われ、頼正も被害者であるというのに。
 思わず叫んだ宗方に、悲しみを帯びた怒声が飛んだ。
「そうだとしても、犬神が村を襲ったことに違いはない!」
 宗方の守りたいと思う気持ちは、村人達の平穏を奪われた悲しみに押しつぶされる。
―――――殺すんだ。器となった頼正を。
 父の言葉が、さらに重なるように宗方にのし掛かる。
 ちょうど宗方が父の言葉を思い出したとき、利盛が言った。
「共有だとしても・・・・・災いの種を、生かしておくことは出来ない・・・!」
 村人の誰かが叫んだ。
「恐ろしい・・・・・っ、殺すんだ!」
 悲痛な叫びが次々と上がる。宗方は、自分自身が避けて通りたい事実を人の口から聞き、心臓が飛び跳ねた。
(ころ・・・・す・・・・・)
 殺す、頼正を。そして同時に思う。嫌だ。
(ころさ、ないと・・・・・!)
 義務だ。父の最後の命令だ。
 弟を。頼正を。
 祝福を受けるために生まれた頼正を。殺・・・・。
(いやだ・・・!)
 がたがたと宗方の心は揺らいだ。自分がしなければならないことが、とてつもなく恐ろしいことだった。
「早く誰か殺して! 化け物だ!!」
 宗方は伸びた村人の手から守るように頼正を抱いて、叫んだ。
「待ってくれ!」
 宗方が、目の前の利盛を睨んだ。しかし、懇願しているに近い弱い眼光だった。
「俺の、俺の弟だ!」
 何をやっているのか。一番そう感じていたのは、宗方自身だ。利盛が叫び返した。
「邪魔をするな!」
 村人達は、犬神が生きていることが怖いのだろう。宗方も見た。父の死も、絶対的な力を持つ犬神の黒太郎も、血の海と残骸を残さない人の躯も。怖い、そう思う村人の気持ちは十二分に理解できるつもりだ。だが。
 宗方には、頼正を失うことも同等に怖いことなのだ。
 宗方は痛む肩に耐えて地面に手を付いた。
「お願いします・・・・! 殺さないで、下さい」
 消え入るような宗方の呟きを聞いた村人の一人は一拍おいた後、絞り出すように叫んだ。
「・・・・ふざけるなァ!! 散々・・・殺しておいて・・・・・!」
 怒りが上回り、ろくに言葉も吐けないほど興奮している男――田村伸雄――を、周りの人間が抑えた。抑える人たちも、田村が婚約したばかりの女性を殺されたと知っている。だが村長代理の、――もう次の村長だろうと皆が思っている――利盛の言葉を待っているのだ。
 しかし利盛は叫ぶ田村には目も向けず、頭を下げる宗方を黙ったまま見下ろしていた。眼は驚いたように揺れている。
「お願いします。お願い、します・・・・っ」
 今も肩から大量の血を流しながら、赤子を護るように抱いてそう言い続ける宗方を、化け物だと言い切れるだろうかと利盛は残っている平等な理性を使って考えていた。
 怪我をした子供が、大勢の大人に囲まれて、辛辣な視線を受けて・・・・弟の命を、懇願している。
 それを見て、利盛の中では化け物とは何かと自問自答していた。
 人間をやすやすと食いちぎり、たくさんの人間を殺した。その所業と有様は、化け物だと思った。それでも、今ここで頼み続ける宗方が、化け物なのだろうか? 死んだように眠っている赤子――頼正が、化け物だというのだろうか。
「助けて下さい・・・・・俺の、もう・・・・唯一の家族なんだ・・・!」
 無言で、不躾な視線だけを感じる宗方は、そう言い続けた。父も死に、菫も死んだと聞いた今、残されたのは頼正だけだった。
 利盛は、考えていた。
 気持ちで言うなら、怒りは薄れて目の前の子供が哀れでならなかった。悲しみが薄れることはないが、加害者とは――裁かれる者とは本当にこの者たちなのだろうか。
 利盛は目を閉じた。そんなはずがない。
「・・・・・・その長い一生を、悔いて過ごせ。結界から出ることは許さない。一生籠に捕らわれたまま、貴様ら二人だけで・・・・・つらい生涯を全うしろ」
「邑上利盛!!」
 田村が納得できないとばかりに怒鳴った。利盛は、その非難の声に負けないように、声を大きくして宣言した。
「私たちは! お前たちを許さない・・・・憎しみや悲しさも、忘れない・・・! 再び同じ事が起きれば、必ず殺す・・・・・!!!」
 宗方は少しだけ顔を上げた。疲労した目が、利盛に据えられた。
「・・・・・・・・・すまない」
 情けをかけてくれた利盛に、宗方は静かに言った。それを聞いた田村の怒りを買い、渾身の拳が宗方の顔側面から殴り込まれた。頼正を庇って抱きしめたまま、宗方は肩から地面を滑る。それを見て利盛は田村に言った。
「手を出すな!」
 田村は怒りに震えたまま利盛を睨んだ。
「逃がすのか!? アンタはこの機会を逃すというのか!? 犬神など、もっと早くから殺しておけば良かったんだ!」
 何人の犠牲が出たと思っている。何人死んだと思っている。
「少なくともおれは、こいつらが許せない!」
「私とてそうだ! だが今ここで、この者たちを殺せば死んだ者が帰ってくるのか!?」
 殴り飛ばされて倒れたままの宗方は、熱を持った頬とさらに開いた肩の傷口からくる鈍痛を感じ、静かに瞼を閉じた。頼正を抱きしめたまま、村人達の言い争いを聞きながら、意識は薄れていった。
(暖かい・・・・・・・)
 ああ、生きている。
 腕の中の温もりに、義務を怠った罪悪感と生き残ってくれた喜びが二重に渦巻き、宗方は身体を丸めて頼正を抱きしめた。
 
 
 

          * * * * *
 
 
 

「・・・・・・・・・・・・・・・」
 宗方の口から語られる、長い話が終わりを告げた。
 疼いたのか、宗方は傷跡が残る右肩を押さえた。八千夜は床を一点に見つめて無言だった。春日は閉じていた目を静かに開けた。
「・・・それが全てか?」
「ああ」
「本当に、真実だな?」
「・・・ああ」
 再び頷いた宗方を見て、春日も納得したように頷いた。俯いたままの宗方の傷跡がない方の肩に八千夜が手を置いた。顔を上げた宗方の顔のすぐ前に、八千夜の顔があった。
「・・・・なんだよ」
「らしくないと思うてな」
 八千夜は半眼で宗方の顔を見た。
「街で儂が迷ったときに、捜してくれたのはおぬしじゃろうが」
「・・・はあ?」
 宗方が聞き返すと、八千夜が手を宗方の頭に乗せた。そしてかき回す。
「おい! 何しやがる」
「何をしょげている。ここにいる誰が、お前を非難するというのだ? 十八年前と、今。何が違うかわからんのか?」
 髪の毛をかき乱した八千夜の手を振り払い、宗方は眉を寄せた。
「確かに犬厄は再び起こった。しかし今は、おぬし一人で抱え込む必要などないぞ」
 宗方の目が開かれて大きくなった。春日が口の端を上げて、いつものように皮肉げに笑いながら言った。
「―――ま、そういうこった。『家族』なんだろ?」
「頼正を救う術(すべ)はまだあるのだろう? ならばおぬしが一人で悔やみ、苦しむ必要もない」
 八千夜が自信げに強く笑った。春日もやれやれと笑う。
「今はもう、おぬし一人ではないじゃろうが」
(・・・・・・・儂が、一人でないように)
 宗方は驚いたように薄く口を開いたまま目を開いた。春日は、満足げに微笑んだままだったが次第にくつくつと笑い出したので、八千夜が睨む。
「・・・なんだ」
 問題あるのか、と八千夜が問えばさらに笑った。
「いや、随分マシになったじゃねぇかよ。テメェも」
「・・・・・・・・・・なに?」
「成長したじゃねぇか八千夜。あのころと比べて」
 春日いう『あのころ』とは、きっと天狗の時代のことだ。
 一人で空を見ていた八千夜のもとに、気まぐれに訪れていた春日は何度か八千夜を誘ったことがある。しかしその度八千夜からの応えは同じだった。
―――『儂は誰とも連れ合わん。とっとと去れ』
 一人で寂しげに枝に座っているのに、八千夜は『寂しい』という単語の意味すら知らなかった。春日が黙って隣に居ることは許したが、その場から離れようとはしなかった。
 春日が天竺へ行くと決めたときにも一応誘ったが、八千夜は無表情のまま『行くならば行け』と言うだけで、山から離れようとしなかった。
 それが今では怒り、笑い、宗方を励まして、あげく「一人ではない」ときた。春日にはこれが成長だと思えるのだが、如何なものか?
 にやにやと笑う春日の顔を見て、八千夜は気まずげに頬を赤らめた。
 ちょうどその時、邑上、田村、倉木が戻ってきた。邑上が周りを見回して訊ねた。
「終わったか?」
「ああ」
 宗方は答えながら立ち上がった。そしてゆっくり歩く。
「今から犬神を抑える。お前らもさっさと山を下りた方が良いぜ」
 邑上たちに言われた言葉。戸口に立ったままの倉木と田村の間を通り抜けて、宗方は振り返った。
「もう誰も死なせない」
 黒い瞳に浮かんだ決意を、そこにいた誰もが感じ取った。
「我々はまた理由も分からず避難するのか? 犬神を抑えられる根拠は何だ」
 邑上の問いに宗方は黙ったまま邑上達の後ろを指さした。三人の村人達は振り返る。宗方が言った。
「そいつらが居る」
 腕を組んだ八千夜と肩を回す春日を見て、倉木は感情の薄い顔を怪訝そうにした。
「先日どっかの馬鹿が結界解いたせいで、頼正が黒太郎に乗っ取られた。でも共有している頼正の意識を取り戻せば、黒太郎は再び眠る」
 『どっかの馬鹿』と言って、宗方は倉木を見て皮肉った。からかってすぐ、真面目な顔になる。
「・・・・・・・繰り返させねぇよ。もう」
 倉木の白い髪を見て、宗方は言った。倉木は無感動に宗方を見つめ、その手が彼の胸を押さえていることに気付いた。握られた拳が、離さないとばかりに服を掴んでいる。
 宗方の後を追って、八千夜と春日も戸口を出る。
 白刃を召喚してから一度気を失った宗方は、外に出て目を閉じた。途絶えた意識の間でどれだけ白刃が自分に尽くしてくれたのか、知るために呼びかける。血の境を通してしか犬神は現れないし消えない。ならばどこかに居るはずだと耳を傾けた。
 さわさわと聞こえる葉擦れの音。遠くを流れる川のせせらぎ。脅えた動物たちの足音。そして、傷ついた獣の息づかい。
「見つけた」
 宗方は迷い無く一点を向いた。しかしそこは草が多い茂るだけだ。
 しかしたとえ信じられないことでも、今ここで宗方の言葉を誰も疑うはずがなかった。
「よし、俺が手ぇ貸してやろうか」
 手を組んで上に大きく伸びをし、春日が一歩前に出た。そして真剣な顔になって一度指を弾いた。合図に応えるように狐火が灯った。
 後ろにいた邑上、田村、倉木は目を瞠る。
 春日の身体が自ら生んだ炎に包まれ、一瞬で姿が変わる。金髪碧眼の美青年が、炎にくるまれて一瞬姿を消した隙に、獣に変わった。白金の毛並みとふくよかな九つの尾、宝石のように輝く青い海と空が交わった色の眼、三角の耳を立てて、平均より余程大きく美しい狐が現れた。春日は獣の口で、確かに口の端を上げて笑った。
「乗れ」
 宗方と八千夜はその背に飛び乗った。
 宗方の前に乗った八千夜は、春日の額に浮かぶ青紫色の紋様に気付いて思わず呟いた。
「おい、春日・・・・・」
 これは。
「・・・・・・行くぞ」
 話を続ける気はないとばかりに、春日は走り始めた。その様子に、八千夜はどうすることも出来ずに俯いてその話題は終わる。
 九尾の狐の輝きは、軌跡を残して山の中へと消えた。
「な、んだアレは・・・・・・狐・・・!?」
 田村の呟く声を聞きながら、倉木は一歩前に出た。
「邑上村長、田村さん・・・・・・・・・・・すみません」
「何・・・・・・・・・・おい!」
 倉木は突然駆けだした。九尾の狐の輝く軌跡を追って、山の中へ。追いかけようとした田村だが、若い倉木に追いつけないのは目に見えていた。
「〜〜〜邑上村長!」
「しかたあるまい・・・倉木にも考えることがあるのだろう。私たちは、衆を集めて山を下りよう」
 暮れてきた夕焼けの赤さに眉を顰め、邑上は思う。
(あの日も赤い太陽だった・・・)
 不吉の前兆のようなその太陽。血のような赤さに、邑上は気分を悪くして顔を逸らした。
 
 
 
 春日の上で、宗方は重々しく口を開いた。
「お前ら、犬神の戦いに手を出すなよ?」
 確認するようなその言い方に、予想に反して春日と八千夜は素直に頷く。
 異種間の戦いに置いて、本来何者も介入することは禁じられているのだ。襲われた八千夜を守ろうとした春日は一度それを忘れて戦いかけたが、あのままだと例え犬神を抑えたとしても春日の罪となるのだ。
 あやかしのルール。それは春日と八千夜が誰よりも知っていた。
 そして犬神を殺した者は、その状況に関係なく『神殺し』の汚名をかぶる。呪いが必ずつきまとう。
 だが、その犬神が仕る宗方は別だ。
 犬上家は、その神を生み出し、血の媒介によって契約を結んだ一族だから。
 犬神を屠(ほふ)る権利を得ている。
 春日は、凶悪な気配に感づいて歩をゆるめた。宗方と八千夜はその背から下りる。二人が下りると、春日は化け狐から人間の姿に戻った。
「・・・・よぉ、久しぶりだな」
 宗方が目の前に佇む黒い犬に、宗方は話しかけた。そして宗方の匂いを嗅ぎ付けたのか、すり寄るように草陰から白刃が現れた。その首へ手を伸ばして撫でてやりながら、宗方は白刃にも声をかける。
「大丈夫か白刃?」
 白刃は応えずにクンと鼻を鳴らした。だがそれが頷いたのだと宗方にはわかった。赤い血が付いた白刃の毛並みは所々ごわごわとしていたが、あえてその事には触れなかった。痛々しく傷ついた白刃の顔の爪痕はまだ癒えていない。
 もともと温厚な性格の白刃だが、宗方には特別そうだった。意識を失った時、同時に戒めの鎖はゆるめられているにも関わらず、負傷の身体を押して黒太郎を見張ってくれていたのだ。
 十八年前、新たな術者に受け継がれた犬神。白刃は気に入っているのだ。自分も傷付いているのに、召喚され手足としてまたは捨て駒として働くことが当然の白刃を労った宗方を。
 だから決して白刃は宗方を裏切らない。期待に添える限りの働きを尽くす。命じられずとも、彼のために考えて動く。
 それだけの価値がある人間だと、犬神の白刃は認めている。
 だからこそ、再び自分が姿を現したことに彼が傷つくのがわかっているので白刃は哀しげに呟いた。
『・・・ムナカタ』
 白刃が顔を宗方の胸にすり寄せる。宗方の様子がいつもと違うことに気がついて、白刃の言葉はそれ以上続けられなかった。
 それを見て、嘲笑うかのように低い声が響いた。
『犬神の誇りは地に堕ちたか。弱小な餌に飼われて満足か?』
 キッと白刃は黒太郎を睨んで歯を剥いた。
「よせ」
 宗方が短くそう言って、白刃は従う。宗方は悠々と岩の上で寝そべり、尻尾を揺らしながら見下ろしてくる黒太郎に話しかけた。
「腹が減ってるんだろう? 俺を食わねぇのか?」
『巫山戯(ふざけ)たことを・・・どうも解(げ)せぬな』
「何がだ?」
『貴様の、その余裕がだ!』
 黒太郎は、ぐわっと口からはみ出すほど大きな牙をむき出しにした。
『力を、珠をどうした!?』
 それを聞いてすぐに、八千夜と春日はぴんと来た。宗方の語りに出てきた力の結晶物質だ。人の命で作られたという、あの。
 宗方は、少しだけ笑って言った。
「さて、何処行ったんだろうな」
 その返答と同時に、黒太郎は岩を蹴った。高く跳躍した黒太郎の影に眼を細めながら、宗方は後ろに飛び退いた。
 着地した黒太郎の爪は、地面を砕いた。
『出せ・・・! どこかに隠しているだろう!!?』
 鼻息を荒くして黒太郎が唸る。宗方はそれを見ても肩をすくめるだけだった。
「腹が減って集中力がねぇのか? いつまでも眠ってンじゃねーよ」
 宗方は黒太郎の赤い瞳を見ながら、さらにその奥を見つめて言った。
「・・・・・さっさと目を覚ませ」
 黒太郎が駆けだした。
『笑止! 戯れ言など吐けぬようにしてくれるわ!』
 黒太郎の猛攻に、思わず八千夜は叫んだ。
「宗方!」
 今度は、宗方は避けなかった。正面からぶつかってきた黒太郎の横から宗方を守護する白刃が飛びかかったからだ。
『死に損ないが、邪魔をするな!』
 黒太郎の怒りは頂点に達していた。怪我が治りきっていない白刃に対して、異常な回復力を誇る黒太郎の傷は大体が塞がっていた。
 それでも白刃は、退かずに対峙した。口を開いて邪魔な白刃を押しのけようとしている黒太郎は、微動だにしない宗方にじりじりと白刃を引きずって近づく。
 黒太郎の牙が宗方の頭を喰らおうと、その口を開けたとき動きが止まった。ぶるぶると震えて硬直している黒太郎の様子に、八千夜と春日は眉を寄せた。
 理解しているらしい宗方だけは、落ち着いたまま黒太郎に手を伸ばした。
「聞こえるか頼正」
 今度こそ八千夜は息を呑んだ。まるで黒太郎の中に頼正が居るようにかけられた声に、思わず希望が見えた。
(頼正・・・・!)
 姿は見えずとも、確かにそこに頼正が居るらしい。戸惑った様子のない宗方の声が、何よりそれを示していた。
「・・・・・鬱ぎ込んでないで、さっさと顔を上げろ。自分で、黒太郎を抑えこんでみせろ」
『ウウウウ・・・!』
 ぶるぶると歯をむいて唸る黒太郎の額に、宗方が手を当てた。手が触れた瞬間、黒太郎はその火傷しそうな熱さに目を開いた。そして宗方の中に在る『熱』の原因に気付いた。
 宗方は徐々に力を込めるように、呼びかけ続ける。
「お前は俺より犬神の血が濃く、適応しやすいはずだ。俺に出来て、お前が出来ないはずがない。・・・・・・・・・黒太郎を抑えて、繰(く)れ。暴れ神といえど、お前の中にある犬神だ。お前が繰れ!」
『・・・・・愚かなり人間。我の餌でしかないお前達に、一体何が出来るのだ!』
 再び、弾けるように黒太郎は体を震わせた。動けるようになった黒太郎は宗方の腹に勢いよく爪を伸ばした。
「ぐ・・・っ!!」
 黒太郎の爪が宗方の腹を裂いた。血を飛び散らせて、食道を逆流した血を口からも吐く。
 見守ることしか出来ない八千夜と春日は叫びそうになった声を呑み込んだ。だが春日は、震える手を無理矢理握りしめ、宣言するように低く言った。
「おい・・・・たとえ呪われても、見ていられなくなったら俺は割って入るぞ・・・!」
 あやかしの規律を決して乱してはならない位置に属する春日の決意を込めた呟きに、八千夜は同意することも反対することもしなかった。
 そうするうちも、黒太郎は嘲笑うかのように宗方を見た。
『馬鹿な真似を。そうすることで、我が気付かぬとでも思ったのか?』
「・・・!」
 舌打ちを零す宗方。乱した息を整えようと、宗方は腹の出血を無意識に手で押さえる。その途端、腹の傷とは別の激痛が宗方の全身を駆け回った。
『・・・・・・共鳴して苦しいだろう? もともとそれは、我のものだからな』
 にたり。そう、確かに黒太郎は笑った。
『愚かなり。ああだからこそ、その肉を喰らうときの心地よさと言ったら飽きが来ぬ・・・』
「は・・・・・、クソ犬が・・・!」
 忌々しげに上げられた宗方の口角から流れる血が、ぽたりと一滴落ちた。
『場所はわかった。さあ返して貰おうか?』
 黒太郎は笑ったまま、横から飛びかかってきた白刃を難なく叩き伏せた。その姿はもう、圧倒的な力の差が出ていた。力の珠を奪われていても、弱った白刃では相手にならなかった。
 宗方の疲労が反映して、白刃の力も弱まっている。弱々しく地に倒れた白刃をさらに踏みつけ、黒太郎は舌なめずりして宗方を見た。
『相反するものだ。苦しかったろう? 奇抜な考えとはいえ、体内に隠したのは浅はかだったな・・・!』
 腹の傷より心臓が痛み始めた宗方は、脂汗を浮かべて膝を折った。
『その体内にある、珠(たま)を貸して貰おうか。望み通り、貴様ごと食い殺してな・・・』