12
 
 
 
 ちくしょう。
 宗方は激痛に耐えながら荒い息を、血とともに吐き出した。
(ちくしょ・・・・・)
 もう少しなのに。
「・・・・・・・・」
 流れる血が、遠いところで起きていることのようだ。
(・・・・・止まらない。やばいな・・・)
 昔話の一寸法師に体の中から突かれた鬼は、こんな気分だったのかもしれない。突き破るような激痛が、体の中で動き回る。
 頼正の意識は黒太郎の中で閉じこめられている。だが反抗して暴れている様子はない。
 目を閉じて、耳をふさぎ、俯いて座り込んでいる。真っ暗な空間で、孤独感に耐えているはずだ。
 何も見えず、何も聞こえない中、たった一人でうずくまっている。すべき事を探す術も持たず、寂しさに押し潰されて。
「目を開けろ頼正! 負けてんじゃねぇ!」
 黒太郎は吼えるように笑った。
『中の人間は何の反応も示さぬぞ、現状から必死に目を逸らしておるわ!』
『ググググゥ・・・・ッ!』
 地面がくぼむほどの圧力で踏みつけられた白刃は苦しげに血を吐いた。
『つい先ほどまで暴れていたが、目の前を通った兎を我が食い破ると大人しくなったぞ。叫びと血飛沫と、それを行う我の歓喜を身に感じ、恐怖に身を丸めている。軟弱な生き物らしいことだ』
 黒太郎は、さらに地面を陥没させるほど踏み込んで駆けた。白刃はくぼんだ地面に取り残されるように崩れる。
 八千夜の隣で、春日が動いた。
『軟弱な餌らしく、我に食われろ!』
「させるかよ!」
 春日が片手を広げて円を描いて舞うように廻った。花びらのように飛び散る火の粉が、粘り着くように黒太郎の進行を防いだ。
『! 耄碌(もうろく)したか九尾の狐・・・いくら貴様でも、手出しは許されぬぞ』
「ああ、わかってるさ。罰なら後で受けてやる! でもなぁ、死なせるわけにいかねぇんだよ!」
 ぐんっと春日の細い瞳孔がさらに細まった。溢れる妖気に大気がざわめく。
「・・・俺の、居候主なんでな」
 口の端を上げて笑った春日を見て、黒太郎は苛ついたように歯ぎしりした。
『愚かなり愚かなり愚かなり! 人間が何をしたか、知っているのか!? その、守ろうとしている男の血筋が、我らに何をしたか!』
 黒太郎の後ろで、苦しそうに白刃が身を起こそうとした。どこか悲痛に激昂する黒太郎の姿を見て、白刃も眼を細めた。
『我がまだ生者であるとき、生きたこの身を地中に埋め、目前に生肉を置いて何日も放置した。雨の日も風の日も、決して食えぬその肉を前に我を極限まで飢えさせて、あげく最後は首をはねた・・・! 慕っていた人間に裏切られたその時に我が何を感じたか! ・・・絶望と怒りだ! 決してこの血筋を持つ者を許しはしないという怨みを、どうして消すことが出来ようか!』
 聞いている白刃の眼は虚ろだった。悲しみが空気を伝わって八千夜に届く。
 八千夜は呟いた。
「犬神の、こしらえ方か・・・・・・・・」
 なんと残酷な。狂うほど飢えさせて拷問のように匂いだけは嗅がせ続け、最後は首を切り跳ばす。その首を祀って、その犬は犬神となる。
 宗方はこの季節には不釣り合いなほど流している汗を拭った。
「最初は黒太郎だけだった。だが、どれだけ祀られても、怨みがまさった黒太郎を牽制する役として白刃が続いた。・・・・犬上家は、二度も外法を犯している」
 荒い息をつく宗方の前では、春日が片手を広げて立ち塞がっていた。
「これ以上させない。・・・・殺させない」
『何をそんなに執着している? 大妖の九尾の狐ともあろうものが、たかが人間に絆されたのか?』
「そんなんじゃねぇよ。ただテメェが気にくわねー」
 春日の蒼い瞳と黒太郎の紅の瞳が交差した。先に目を逸らしたのは黒太郎だ。
『くだらんな、九尾の狐よ』
――――人間など、信じているのか。
「テメェだって信じてたんだろ。言われる筋合いはない」
『ならば忠告してやろう。人の醜さを感じる前に退け』
 春日は手に浮かべた炎の隙間から射るように黒太郎を見つめた。
「・・・可哀想だな。お前」
『ほざけェ!』
 泣きそうな叫びに聞こえたのは、その前の黒太郎の叫びを聞いていたからだろうか。黒太郎は力強く地を蹴り、春日に飛びかかった。迎え撃った春日は、バチィ!と弾くような音を立てて炎を散らしながら衝撃で閃光を生む。力のぶつかりを肌で感じ、春日は久しぶりのその緊張感にぞくりと体中の毛を奮わせた。
 黒太郎の方もまた、珠がなければ敵わないだろうということを一身に感じ、内心舌打ちした。
 白刃の気配は微かにしか無い。宗方が出血に息絶え絶えのように、白刃も虫の息と言えた。共有しているわけではないが、召喚型の宗方と白刃も共鳴するところがある。
『(ならば敵は目の前の狐のみ)』
 しかしその前に。
 黒太郎の瞳は少しだけ春日から逸らされた。
――――餌を食って、力を蓄えなければ。
 九尾に護られた犬神使いは後回しだ。ならば残っている人間は―――。
 逸らされた視線と意図に気づき、春日は振り向いて叫んだ。
「・・・・・・!? 離れろ八千夜!!」
『(もう遅い)』
 黒太郎は遠吠えのように吼えて同時に二カ所を攻撃した。目の前の春日ではなく、ふらついた宗方へ地面に亀裂を加えて先制するのとほぼ同時に、八千夜に向かって駆けた。予想通り春日は後ろにいた宗方を引き寄せて護った。しかし、注意はそれだけでは足らなかった。
 黒太郎は、反対側にいた八千夜のほうへ二足ほどで飛びかかっていたのだ。
「八千夜―ッ!」
(―――間に合わねぇ!)
 八千夜の瞳は、眼前に迫る真っ黒な獣を捕らえていた。だが直接ぶつけられた殺意に当てられ、動くことが出来ない。動くことさえ忘れてしまっていた。
 食べられる。
 ただ、そう感じているだけで精一杯だった。目を閉じることもせずに、どこかで春日の声を聞いた気がする程度だ。
「・・・・・・・・・・っ」
 そして、八千夜の閉じることを忘れた瞳に、一瞬誰かの背中が映った。
 春日も息を呑んだ。避けて跳んだことにより地から離れた脚が再び着地したときには事は終わっていた。もはや自分一人で立てていない宗方の腕を肩に回しながら、焦ったように眉間にしわを寄せた。
 黒太郎の口の端から流れる血は、噛みついた人間の血だ。その味を楽しみながらも黒太郎は興味深そうに目を開いていた。八千夜も目の前の光景に、驚きを隠せないまま尻餅をつき弱々しく呟いた。
 八千夜を庇った男がいた。
「・・・・・・・・・・・・・倉木・・・・」
 前に出した腕と肩を噛まれながら、八千夜を護ったのは倉木だった。吹き上げる血が倉木と八千夜の髪にも降りかかる。
 血の塊を吐いて、倉木は俯いていた顔を少しだけ上げた。その顔は痛みの汗が流れて苦渋に歪んでいたが、後悔している顔ではなかった。
 一瞬生まれた膠着を、春日が逃すはずがない。振り払うように尾が黒太郎の横から薙がれ、黒太郎は距離を取った。
「―――倉木!」
 黒太郎が離れた途端、傾いた倉木の身体を庇うように八千夜が支えて抱き留めた。そのままだらりと力を抜いて横たわる倉木の荒い息を聞きながら、八千夜は困惑していた。
「何故・・・・・どうしておぬしが・・・・・・」
 倉木は、呆然とした頭の中で応えた。
(知らないよ。俺が聞きたいくらいだ・・・・・)
 だけど、突然。黒太郎に襲われそうな子供を見て、「ああ助けなければ」と思ったのだ。その子供がもと天狗だとか、忌々しい犬神の知り合いだとか、関係なかったのだ。
 致命的な傷だろう。血と共に熱も流れていく。その熱はきっと命の灯火だ。
 気絶しそうなくらい痛い。でも倉木の口元は笑っていた。八千夜はその意味がわからずに唇を噛み、流れていく血に焦る。止めようと抑えるが、到底抑えきれるものではない。
「止まれ・・・っ、止まってくれ・・・・」
 大地に広がっていく赤い血。八千夜の中で記憶と重なる。血の赤が降り積もった雪の白に吸い込まれ、『あの時』も流れる血は止まらなかった。
 慌てている八千夜を、どこか冷静に見ながら倉木は思う。こんな時だからこそ、いろんな事を考える。
(・・・・・同じ状況に立って、初めてわかった)
 霞織の気持ちが。死に際の霞織が何故微笑んでいたのか理解できなかったが、今ならわかる気がする。
(しょうがないよね、霞織・・・・・・・・・俺もそう思う・・・)
 だって『助けなければ』と思ってしまったんだ。
 重そうに瞬きをした倉木に八千夜は言う。
「死ぬでない・・・儂を助けておいて死ぬな!」
 どうしても清秋と重なる。あの時の何も出来なかった悔しさと無力感がよみがえる。
 春日に支えられながら、宗方が微かに動いた。上がった顔を春日が見ると、やはり苦しそうだった。
「春日・・・・倉木を助けてくれ・・・・」
 再び顔を伏せ、宗方が懇願するように言った。
「頼正に人を殺させないでくれ!」
 共有型の頼正の意識は、黒太郎と共にある。頼正の意志じゃなくても、意識は殺戮の恐怖を味わってしまう。
 春日は迷った。助けたいのは山々だが、細胞活性化による疲労に、今の倉木が耐えられるかわからない。それに今、黒太郎と戦えるのは春日しかいない。
 春日は黒太郎の方を見た。
「――――!?」
『ぐぐぅ・・・・! があぁぁあッ!!』
 黒太郎の様子がおかしい。何かを拒絶して振り払うように首を振り、苦しそうに爪を地面や辺りの木に引っかける。地面が割れ、木が折れる。暴れる黒太郎の側で白刃が立ち上がろうとしていた。
 生まれたばかりの鹿の子のように、頼りない足取りで何度滑っても一歩一歩確実に重心を取っていく白刃。血や泥でいまや白い部分の方が少ないその毛皮を奮い立たせ、宗方の元に近づく。
 軽く子犬のように鼻を鳴らして宗方にすり寄った白刃に任せるまま、春日は支えていた宗方を離す。宗方は白刃に凭れながら、黒太郎を見た。
「・・・・・・・・・・・・・・・・頼正」
――――十八年前、俺はお前を殺すはずだった。
(それをしなかったのは、お前の名前の由来を俺が知っていたからだ。)
 父が一度だけ語ったそれは、まさに祝福だった。
 【・・・長い人生を持つ犬上家の嫡男として生まれた宗方は、苦難の道を行くだろう。呪われた一族を継ぐ者として、一生を悔いることもあるだろう。しかしそれは必然で、犬上家に生まれた者の宿命だ。責任と自責の枷を嵌め、なお生きなければならない宗方を支える者となれ。一人では可哀想だ。正しき道を共に歩け、頼りにされてやれ。お前がいてこそ宗方が活き、宗方の重荷を救えるように。】
 たとえ女子でなくとも、それがお前に出来ることだから。
――――想いを込めて父は『頼正』と命名した。
 その名の由来は、宗方のために。
 父に愛されている、とその時思った。宗方のことか頼正のことか二人とものことかはわからないけれど。
 宗方は頼正を殺せなかった。出来るわけがなかった。
 そしてそれは今も。
「―――白刃」
 頼む。
 最後まで言葉は出なかったが、白刃は正確にその意志を理解した。
『・・・御意』
 白刃の身体がほのかに光った。力がみなぎる。
そして目に映ったのは一瞬の事だった。
 その光から貫くような閃光と共に、白刃は黒太郎の喉に噛みついた。迸る血を全身に浴び、夜叉のように吼えた。
 その長く澄んだ遠吠えは、音というよりもまるで『歌』のように。その場にいた者たちの耳に入り、静けさを生んだ。
 血を零した黒太郎は、うずくまった。びくびくと揺れる身体で、白刃の方を向いた。
『・・・・・・こざかしい・・・ッ、こんな・・・・・・・・・!』
 
――――――ドクンッ
 
 黒太郎は、断末魔の叫びのように醜く吼えた。浴びた自らの血で黒太郎の身体も染まっていた。その血が鎖のように、黒太郎の動きを制限した。
『珠・・・! 珠さえあればァァァ・・・・ッ』
 黒太郎の身体が縮んでいく。引き金となった白刃の光に当てられて、黒太郎の力は一瞬かき消された。
 その隙をついて、黒太郎の内側から指揮権を頼正が制した。
 その場にいる人間はその様を見ていた。巨大な黒犬から、人間の姿に変わっていく。おぞましいと言えるその過程を誰もが凝視していた。
 しばらくして。
「うぅ・・・・っ、ぅえっ・・・・・・・・!」
 残ったのは、小さい―――とても小さい姿だった。しばらくして、くぼんだ穴にうずくまるように嗚咽を零すのは、もう犬神ではなかった。
「頼正・・・・」
 八千夜が呟いた。その途端、宗方は意識を失った。そして、力を使い果たした白刃も、誰の血かわからないほど濡れたその身体の血液の結界に、沈むように姿を消していった。かろうじて寄りかかっていた宗方は地面に倒れた。
「宗方!」
 春日が駆け寄って、呼吸を確かめる。微かだが肺が膨らんで胸が動いたので、春日は詰めていた息を吐いた。
 しかし安心出来る状況じゃない。瀕死の重傷者が、二人いるのだ。
「春日! 細胞の活性化の方法を! 教えろ!」
 頭からも血を流している倉木の側で、八千夜が怒鳴った。春日は宗方の傷を診ながら聞き返す。
「どうも何も・・・・・・やる気かよ!? 無理だ、得手不得手がある」
「死なせるわけにいかんのだ! 早くしろ!」
 春日は、八千夜の瞳を見つめた。八千夜の金の眼は揺らぐことなく春日を見つめ返した。
 冷や汗を流しながらも春日は口の端を上げた。
「言いだしたら聞かねぇなァ、テメェは」
 そう言うと、宗方を連れて近くに来た春日は手を伸ばしてがしっと八千夜の頭を掴んだ。
「だが、一朝一夕で出来るもんだと思うなよガキ。俺が二人ともやってやる」
 不安そうな顔をした八千夜に、「ただし」と春日は続けた。
「お前から力を貰う。例えるならお前から二の力をとっても移したときには一しかない。それくらい効率は悪いが、そうでもしなきゃ倉木は確実に死ぬ」
「わかった。宗方は?」
「・・・・・・・・こっちは」
「僕もやる」
 春日が振り返ると、頼正が俯いたまま宗方の前に立っていた。ぼろぼろと涙を零して、涙声で春日に言った。
「僕の力を兄ちゃんに移して」
 ぺたん、と地面に座って泣きながら頼正は宗方の手を握った。
 それを見て、春日が八千夜の頭を掴んでいない方の手で頼正の頭を撫でた。
「――――力を抜いていろ。ギリギリまで力を吸い取るぞ」
 春日がそう言った途端、八千夜と頼正は引っぱられるような錯覚を覚えた。頭の端から力一杯引っぱられるように、体中の力が抜けていく。力が入らなくなっていく。
「ぅぐ・・・・・!」
 顔を上げる力も入らないので、どんどん俯いていく二人。しかし間で力の橋渡しをする春日は目を閉じたまま難しそうな顔をしていた。
 加減を間違えないように、見極めて春日は手を離した。同時に八千夜と頼正は倒れ込む。全身を支えるだけの力も入らないのだ。しかし、頑張って顔を動かして負傷者の顔を見る。
 甲斐あって、多少顔色が良くなったようだ。そのことに、安堵の息を吐く。
 だが。
「・・・・・まだ駄目だ。早く医者に診せたほうがいい」
 倒れ込んで肩で息をする八千夜と頼正ほどではないが、春日も疲れたように浅い息をしながら言った。
「倉木の方は大丈夫だ。後は医者に診せて安静にしておけば命に別状は無い。だが、こっちは・・・・・・・!」
 舌打ちして、春日は宗方の微かな呼吸を助けるように気道を確保する。例え気休めだとしても。
「うまいこと力が流れない・・・・恐らく犬神の珠のせいだ」
 苦しそうに眉根をよせて、頼正が顔を上げた。宗方の服に滲む血が広がっていくのを見て、目を開いた。その開いた目からも涙が限りなく落ちている。頼正は縋るように春日を見た。春日は言いにくそうだった。
「・・・・・・・人間も進歩してるから、どうにかする医者もいるだろうけど・・・こんな村の医者じゃ、たぶん無理だ」
 医療器具がそろっているかどうかも怪しいモンだ、と毒づいて春日は服の端を裂いて止血に使う。それでも、抑えた布が滲んでくるのはすぐだった。
 再び春日が舌打ちした。その横から八千夜は引きずるように腕を伸ばして春日の服を引っぱった。
「知ってる・・・・名医か知らんが、医者を一人知っている・・・!」
「本当か?」
 息が切れて喋るのも苦労するのか、八千夜は大きく頷いた。ごそごそと服の内ポケットを漁り、紙切れを差し出す。
 春日が奪うようにそれを取った。
「街に行ったときに、偶然会った男だ・・・・」
「『フクロウ』・・・・信用できるのか?」
「わからん! だが其処しか宛がないだろう・・・・!」
 嫌な男ではなかった、と八千夜が言うのを聞き、春日は頷いた。
 住所を見てわかるはずもない。瞬時に化け狐へと変化した春日は、器用に背に全員乗せた。負傷している宗方と倉木は勿論、八千夜と頼正も。
「夜目が利くだろ? 案内しろ八千夜」
 身体を弛緩させて素早く風の声を聞き、八千夜は早口に言った。
「ここから南西、山脈を越えて山二つ向こうの街だ。大きな建造物の外れに公園がある。あっちだ」
 暗い空に輝く九尾の毛並み。光の尾を九つ残して、空に舞い上がった。空を駆ける九尾に驚いた頼正は黙ったまま宗方と倉木を引き寄せる。
「見られたら面倒だから急ぐぞ」
 そう呟いた春日の声は風の音でかき消された。あまりの早さに、風を切る音に紛れ何も聞こえなかった。唯一八千夜だけは、人里が現れだした上空で、子供が「流れ星だよ!」とはしゃぐ声を聞いた。
 人間の足では五時間かかった行程も、春日にかかればほんの数分だった。揺らさぬようにふわりと公園に着地した春日は、目立たぬようにすぐに人型になった。
 多少夜目が利くとは言え、慣れぬ土地だ。焦る八千夜がきょろきょろと記憶を掘り返してフクロウが戻っていった方向を思い出そうとする。見覚えのあるベンチを見つけて、大体の方角を見当づける。
「・・・・・・おそらくこっち・・・」
 足下をふらつかせて八千夜が指さした方向から、タイミング良く声が聞こえた。
「何処行くんだよネロ〜・・・・・・・・お」
 聞き覚えのあるのんびりした声に、八千夜が振り返った。八千夜の目の前で、黒い仔猫が「みゃあ」と鳴いた。その後ろに見える人影も。
「フクロウ!」
「ん〜? ・・・おぅ、お前さんか。覚えてるぞ」
 相変わらずしわだらけの白衣を着て「やぁ」と片手を上げた男に挨拶を返す事もせずに、八千夜は切り出した。
「怪我人がいる。診てくれ!」
「・・・・ってオイオイ。お前さん、確かにオレは名刺渡したけども〜いきなりだねェ」
「急いでるんだ!」
「へいへい」
 ふらつく八千夜を見て「お前が大丈夫か?」と声をかけるのを頷いて応え、八千夜は宗方と倉木の方を指す。
 口にくわえた煙草を唇で器用に動かして上下にさせながら、Dr.フクロウは春日に抱えられた二人をさっと見た。そして一つ頷く。
「・・・・・・・・・うん、ヤバイな。そこの兄ちゃん、ついでに運んでくれ」
 自分が手伝う気はさらさら無いらしく、前を歩いたフクロウの後を春日が続く。八千夜の側を通りながら、フクロウは前と同じように人差し指と親指をくっつけて丸を作り、言った。
「高いよ?」
「・・・・・・・・・助けられるのか」
「あったり前よ、お前。オレに助けられないやつはいないんだよ? 『ブラックジャック』並みよ? オレ」
 その『ぶらっくじゃっく』が誰かさっぱりわからないが、助かるという確信に満ちた声にとりあえず安堵した。
 しかしそれも一瞬だった。
「黒い髪のお兄さんのほうが危険だねぇ〜。ハイハイ早くオレの研究室(ラボ)に運んで〜」
 八千夜は首を傾げたが、『研究室』という単語に頼正が頬をひきつらせた。
 
 
 
      * * *
 
 
 
 メス、鋏(はさみ)などの医療道具や各種の薬、ガーゼや包帯、絆創膏があるのは良いだろう。だが何故その隣に試験管、ビーカー、フラスコ、医薬品以外の薬品があるのだろうか。
 怪しげな雰囲気に詳しくは知らない八千夜でさえ眉を寄せた。だがフクロウは気にした様子もなく、散らかった診察台の上の荷物を落として開ける。そこに春日はそっと宗方を乗せた。
「そっちの気絶してる白髪の―――あ、年寄りじゃねぇのか。そいつはあっちのベッドにでも寝かせてやれ」
 言われた通り、春日は二台もある使われて無さそうな白いベッドの上に倉木を乗せた。
 その間にも、フクロウは宗方の傷口を見ていた。
「ふんふん・・・・何、こいつは着流しでサファリパークにでも入っちゃったの?」
 そう言って腹に深く裂かれた傷にガーゼを当てる。そしてふと、気付いて傷口を見ながら八千夜を呼んだ。
「おーい、そこの銀髪。ちょっとこい」
 手招きされて八千夜は素直に近づく。「これ」とフクロウが指した箇所を見た。
 腹の傷からはまだ血が滲んでいるが、傷の端からブクブクと泡立つように少しだけ反応していた。じっくり見ていればわかる程度だったが、確実にそれは傷を治していた。
「・・・・・・・お前も変わってるけど、こいつも変わってんな。何者だ?」
「・・・・・・・・・・・・・」
 沈黙しか返さなかった八千夜を後目に、フクロウは採血を始める。
「どれ、血が足らねぇな。何型だよ」
 助手も何もいないので、自分でさっさと血液型を調べ始めたフクロウは、結果を見て首を傾げた。そしてばたばたと資料や器具を取り出して確認して、また首を傾げた。
「・・・・・・・・おい」
 今度は部屋の端にいた春日と頼正も顔を向けた。
「・・・・犬の血が混ざってるんですけど」
「・・・・・・・」
 フクロウのその言葉に、さらに口を噤んだ。それは周りに犬の血が一緒に付いているということか宗方の血液の事か良くわからなかったが、説明するわけにもいかなかった。
「・・・・金があれば、誰でも診るんだろう?」
「んーまぁ、そりゃあそうなんだけど。・・・・・・・・金はいいわ」
 振り返ったフクロウの眼は、眼鏡の奥で確かに笑っていた。
「代わりにこいつ研究させろよ。こんなおもしれー奴、初めて見た」
 回復早いし、犬の血混じってるし。そう言うフクロウに、八千夜は噛みつくように言った。
「馬鹿を言うな!」
「オレは本気」
 テキパキと手術用の衣類を身につけ、マスクをし、自分の身体で八千夜たちから手元を隠すようにメスを取ったフクロウに頼正が叫んだ。
「先に兄ちゃんを助けてよ! 助けてくれたら僕を研究して良いから!」
「ワオ。お前弟か、お前も犬の血なのかな? ――つーか、死なせないよ。こんな面白い研究対象。まぁいいよー、お前さんでも」
 適当な衛生面でさっさと手術を始めたDr.フクロウに、低い声で春日が言った。
「巫山戯(ふざけ)た男だ・・・・・やる気がないなら他の医師を紹介しろ」
「なめんなよ色男。俺はこれでもそこらのボンクラより相当腕は良いぜ?」
 テキパキと傷口を縫い始めた男は、犬でも払うように手を振った。
「特殊な血で輸血できない。止血のために縫っとくからもうお前ら部屋の外に出てろ。いても邪魔・・・・・・・・・んん?」
 宗方の傷口から、吐き出されるように小さな水晶が出てきた。ブクブクと血と共に溢れてきたそれをピンセットで手にとって、フクロウはまじまじとそれを見た。
「おいおい、胃とか開いてるわけじゃないんだけど」
 まあいいか、と呟いて水晶を銀のトレーに入れ、流れるように治療の続きを始めた。止まることなく動かされる手を見て、春日は少し考えた。
「うおー、すっげぇ。回復早いなこのニィチャン! おもしれー」
「・・・・・・・・・・・・・・・・」
 楽しそうにそう言うフクロウに不安が無いわけではなかったが、春日はそっと扉を開いた。そして八千夜と頼正にも出るように促す。
「・・・兄ちゃんを、助けて下さい」
 お願いします。
 そう言った頼正に向けて、フクロウは後ろを向いたままひらひらと片手を振った。頼正は八千夜と春日に再度促されて、部屋を出た。
 
 
 
 それから、フクロウが部屋から出てきたのは四時間後だった。
 寝ずに緊張しながら待っていた三人は、姿を現したフクロウを見ると、立ち上がって中腰になり、マスクを取るフクロウに春日が訊ねた。
「・・・宗方は?」
「あぁ眠ぃ・・・・あ? しくじるわけねぇよ、あんな回復早いヤツ。傷と出血の割りには体力消耗してなかったのもあるだろうけど」
 春日を通して力を移したのが、どうやら功を成したようだった。
「良かった・・・」
 三人は肩を下ろして息を吐いた。
「まだ面会謝絶な」
 懐から煙草を取り出して火の付きの悪いライターを何度も擦るフクロウ。ガスが少なくなって付きが悪いそれが、一瞬大きく燃えた。
「ぅおっ」
 そのささやかな事が春日の仕業だとわかり、八千夜はそっと春日の顔を窺った。春日はフクロウを真っ直ぐ見て言った。
「ありがとう」
「? あ、ああ」
 突然燃え上がった炎を不思議に思いながらも、とりあえず煙草に火がついたのでフクロウは曖昧に頷いた。
「倉木は?」
 八千夜が問うと、付け足すように振り返った。
「あいつもすげぇな。傷は深くて新しかったのに、もうその下に新しい皮膚できてやがんの」
 煙草の煙を吐き出して、フクロウはしわくちゃの白衣から煮干しをとりだした。
「なぁ、これネロが来たら――ああ、ネロってあの黒猫な――ネロにやってくれ。お前ら見つけたごほーび」
 小さなパックになったそれを八千夜に押しつけるように渡すと、フクロウは当初「眠い」と言っていたとは思えないほど活き活きとして頼正の腕を掴んだ。
「じゃ、まず血ぃ採らせてくれよ」
 承諾を得る前から引っぱって歩き出したフクロウを、春日が呼び止めた。
 フクロウが振り返った途端、春日の手が額に向けられる。
「深く眠れ」
 呪文のようなそれに、がくっとフクロウは意識を失った。それを倒れないように支えてやり、春日は近くの壁に凭れかけて座らせる。
「わざわざ実験体になる必要など無い。もう少ししたら帰るぞ」
 苛立たしげにそう言った春日。もう辺りは深夜過ぎだ。今帰れば人目につくのも少ないだろうとそう提案したのだが。
「・・・駄目だよ、助けてくれたのに」
 頼正が、そう言って微笑んだ。
「春日さんと八千夜くんは、兄ちゃんと倉木さんを連れて帰ってください。僕は此処に残るから」
 虚を突かれたように春日が目を丸くした。八千夜は頼正の肩を掴んだ。
「ただで診せたのは悪いと思うが、此処にいたらどうなるかわからんぞ。一緒に帰ろう、頼正」
 頼正は首を振る。
「村の人に説明しなきゃならないだろうから、二人は兄ちゃん達を連れて帰って代わりに説明して。僕はここで、医療費を払うから」
 ぐーすか眠りこけているDr.フクロウの隣に、頼正は座り込む。
「おい頼正・・・・・・」
「それに」
 体育座りで、頼正は顔を膝に埋めた。
「・・・・・村の人にも、兄ちゃんにも、会わせる顔が無いんです」
 ねぇ、だから。
「兄ちゃんが本調子になったら、また来て。でも今日は」
 二人で帰って下さい。僕は残ります。
 頼正は震える声で、でもはっきりとそう言った。
 八千夜と春日は、俯いたままの頼正の気持ちを察して何も言えなかった。死者は出なかったが、負傷した宗方と倉木に罪悪の念が尽きないのだろう。無理に連れて帰るのと、此処に残すのと、どちらが酷なのかわからなかった。
 ただ、本人の意志を尊重すべきだと、その時八千夜は思った。
「みゃあ」
 其処に黒猫―――ネロが現れた。獣の感で犬神の血を悟るのか、警戒するように頼正を見つめるネロ。八千夜は、手にある煮干しを頼正に渡した。
「・・・・・・数日経ったら迎えに来るから。それまでに気持ちを整理しておけ」
「うん・・・・ありがとう。兄ちゃんに、謝っといて・・・」
 最後まで顔を上げなかった頼正は、八千夜と春日を見なかった。ただ黙って、部屋から春日と八千夜が宗方と倉木を連れ出す音を聞いていた。
「・・・・・ではまたな、頼正」
「その医者が怪しげな真似をしたら逃げろよ。で、死ぬなよ」
 八千夜と春日の声にも応答せずに、頼正は最後まで顔を伏せていた。二人が暗い夜に、再び天に昇っていくまで黙っていた頼正は、静かになったその空間で、一人涙を流し始めた。
「ぅっ・・・・ひっ・・・く・・・・・・・・!」
 何度も目を擦っても、涙は止まらない。
 やってしまったことはもう元に戻らない。後で悔いるから、後悔というのだと兄が言っていた。だからなるべく後悔しないように先を見てどうすべきか考えて生きろと兄に習った。
 あんな姿を見たいわけじゃなかった。意識もなく、死の淵に立つ兄を見たくなかった。しかもそれをしたのが自分で、自分の弱さが原因で。抑えることが出来なかった自分が情けなくて、迷惑をかけたことが悔しくて恥ずかしくて。それでも迎えてくれる人がいて嬉しかったのに。
 自分に、負傷した兄を迎える権利があると思えなかった。
「えっ・・・・・・・ぇ・・・・っ・・・・・・!」
 今までずっと宗方が側にいた。
 怖い夢を見て泣いた日も、一人で寝るのが寒かった日も、初めて獲物を捕った日も、勉強しているときも、料理を習ったときも。父や母や友の代わりに、ずっと兄が一緒だった。
 何か隠していると知っていた。犬上家の闇に、触れなくても良いと宗方は守ってくれていた。
 守ってくれていたのに。
「・・・・・・・っ」
 頼正は、目を擦るのを止めた。涙は、雫になって落ちて床に染みを作った。
 
―――自分は兄を守るどころか傷つけた。
 
 頼正はそのまま、夜が明けてフクロウが起き、頼正を慰めるまでずっと泣いていた。腫れた眼を冷やせとフクロウに言われても頼正は静かに涙を零し続けた。
 泣きやまない頼正にフクロウは頭を掻き、とりあえずタオルを濡らしに行った。ただずっと起きていたネロだけは、泣く頼正を見続けていた。
 
 その暗闇に光る眼(まなこ)に映る頼正の涙は、決して頼正の内に棲む獣のものではなかっただろう。