15
 
 


 
 次の日になっても、八千夜は落ち着かなさげに部屋の中をウロウロしていた。そして、一時間に一度ほど、新たな情報がないか風に声をかけた。しかし、応えは返ってこない。
 宗方は朝から続くその様子を見て、いい加減声をかけた。
「少しは落ち着け。大体焦っても何かできる訳じゃないし、場所がどこかもわからないだろうが」
 それはそうだ。わかっているが、やはり落ち着かない。
 宗方がその事に関して反応したのは、最初のビール缶を握りつぶしたときだけだった。後は、冷静にいつも通りに行動していた。何かせねばと気ばかり焦る八千夜を宥めて、その日はそれぞれの部屋に就寝した。
 そして今現在も、仕事をしている。
「気が散るからウロウロするな」
 部屋ですればいいだろうに、そうしないのは八千夜一人になるからだろう。八千夜が暇をもてあますから宗方はリビングで原稿を広げていた。
 煙管から煙草に転換した宗方は、灰皿を引き寄せて灰を落とした。
「風の情報は確かなのか?」
「多少、誤報が紛れることもある。だがこれは真実だろう、風の噂は広がるばかりだ」
 ふぅん、と興味が無さそうに宗方は椅子の背もたれに凭れた。八千夜は一瞥をくれてやって、また空を見る。
「・・・魅縒(みよ)り石の気配はしないのか?」
 宗方が訊いた。八千夜は、思い出したように微かに目を開く。
 バルコニーに出て、今度は魅縒り石について風に問う。流れに乗って返ってきたのは、頼りないものばかりだった。
[きらきら光る? 煌々照らす? 鋭く輝く? 鈍く煌めく? それはどんな石?]
 妖力を持つ結晶だと教えてやる。
[・・・・・・・・妖気、妖力、あやかしの力。弱くなった、あやかし。息絶え絶え。でも在る、きっと。どこかにある。西の方にも感じるし、北の方にも感じる。貴方が探すものは、きっと近くにはない。でも妖気は感じる。いろんなところに妖怪はいる]
 耳を澄ましていた八千夜に、宗方は訊いた。
「どうだった?」
「・・・・・・魅縒り石は、近くにないようだな。だが」
 宗方も耳が良いのだが、風の音しか聞こえなかった。だから的確に風に乗って流れる言葉を理解する技術は、天狗にしか不可能なのだろう。八千夜の通訳を待った。
「あやかしは多く感じるらしい。ちょっと一番近い者を訊いてみる」
 自分と宗方と頼正を除外して、妖気を欠片でも持つ者はどこにいるのか、と。
[風は知ってる。いろんなことを。でも全部は教えない。気まぐれに乗ってくるものを、貴方が聞き取っているだけ]
 風が気まぐれなのはいつものことだ。ただ一言も漏らさないよう、熱心に耳を傾ける。
[沼にいるよ。あやかしは。人が寄らない沼にいる]
 それだけしか、聞き取れ無かった。
 

 電話の先から、紀子の素っ頓狂な声が聞こえた。
『沼ぁ? この辺で?』
「ああ。人が近づかない沼とか、無いか?」
 土地勘が全くないので、紀子に訊ねることにした。宗方が受話器を持ち、壁に凭れながら返事を待つ。
『沼・・・沼・・・・・・・。てゆーかむーちゃん、何するのよ沼って。今度の妖怪は沼から出てくるの?』
「そういうことにしておけ。心当たりは?」
『明神池なら、隣町の公園内にあるけど』
「池じゃなくて沼」
『人があまり来なくて、近場であるのは明神池だけよ。あとは観光名所が並んでるもの』
 受話器からもれる音を聞き取っていた八千夜は、横から訊ねた。
「どうして人が来ない?」
『・・・あら八千夜くんも居るの? 確かねー、そこでおぼれかけた子―――っていうか、おぼれた子がいて、立ち入り禁止になってるのよ。野犬とかが棲んじゃって荒れ放題って聞いたわ。鳥居や狛犬もあって開拓しにくくて、放置されてるらしいの。沼じゃなくて池だけど、そっちの方がむーちゃんの資料になるんじゃないの?』
 宗方と八千夜は目を合わせた。八千夜は一つ頷く。
「恩に着る香川殿」
「わかった、行ってみる。仕事中に悪いな」
『はいはい。・・・これだからむーちゃんの頼み事は断れないのよねー、なんか可愛いもん』
「だまれ。とにかく助かった、ありがとう」
 実年齢は宗方の方が年上なので微妙な虚しさを覚え、宗方は電話を切った。
「―――おい八千夜。寒いから上着着ていけ」
 そのまま飛び出そうとしている八千夜に声をかけて、宗方は自分も上着を取るために部屋に向かった。八千夜は足を止めて振り向いた。
 一緒に来るらしい宗方に問う。
「おい宗方。仕事は良いのか?」
 全て投げ出したままの状態を見て、気を遣ったのだが。部屋からの返答はその気遣いをまったく無視する物だった。
「小説を書くにおいてネタが尽きないようにするには、経験を積むのが一番良いんだよ。かまわん」
 ファー付きの上着を羽織った宗方は、頼正のサイズで購入したウインドブレーカーを八千夜に投げつける。頭にかぶったそれを手に取り、八千夜は眉を顰めた。
「だいたいおぬし、これらを購入するための金をどこから調達しているのだ? その不真面目な仕事態度で」
「もともと犬上家は財産が豊富なんだよ。昔から貢ぎ物が多くてな」
 小説書いてるのはただの暇つぶしだ。そう言い切った宗方を、八千夜は希有なものを見る目で見つめた。
「生活費云々も全て梔村が負担だったからな・・・・その気になれば、このマンション丸ごと買えるんじゃねぇか?」
「そっ・・・!?」
 そんなにか!
 八千夜の驚きもまったく無視して、宗方は扉に手をかけた。
「まぁ管理してるのも村だから、そう簡単に出せないんだがな。金があると言うよりも土地や歴史的価値のある物が多いんだ。―――そんなことより、さっさと行くぞ」
 まじまじと自分が着ているウインドブレーカーを見下ろして、八千夜は言葉が出なかった。
 

     * * *
 

 明神池にやってきた二人は、とりあえず違和感を覚えた。
「・・・・なんだこの感覚は」
 ぐらぐらと揺れる、というより廻っているような。方向がわからない。
「磁場の影響か? ・・・・・・駄目だ、まったくわからねぇ」
 特に本能の方向感覚が鋭い宗方は、混乱したように眉間にしわを寄せた。次第には地面が波打つような感覚までしてくる。
 しかし、話題の明神池は美しかった。澄んだ液体の中に、鯉が泳ぐ姿も見られる。思ったより広いその池周りを歩いていた宗方と八千夜は、途方に暮れて立ち止まった。
 人が来ないと言うだけあって、ここには宗方と八千夜以外誰もいない。―――というか、立ち入り禁止のロープをくぐって中に進入した。
「良いのか? 中に入っても」
「入らなきゃわからねぇだろうが」
 そう言う宗方の後ろについて、堂々と中に入ったが。なるほど、この感覚は都会生活で鈍くなった人間にも違和感を覚えさせるだろうと、八千夜は納得した。
「大体香川の情報通りだな。狛犬と・・・・鳥居か」
「何か祀っていたようだな。ふむ、微かだがあやかしの気配がする」
「おい」
 宗方が、嫌そうに言った。
「まさかその霞みたいな妖気の事じゃねぇだろうな」
「・・・所詮風の噂だからな。あてにはならん」
 ぴちゃん。水の跳ねる音が聞こえた。都会の中心のはずだが、この池の周りだけは別世界のように静けさが広がっている。
 再び池に目を向けたとき、宗方は眼を睨むように細めた。
「・・・・・・・・・・・?」
 宗方の怪訝な顔を見て、八千夜も振り向く。
 其処にあったのは。
「―――ぷっはぁ、あー気持ちいいなぁ」
 ざぱっと雫を飛ばしながら、すいすいと池を泳いでいる者がいるではないか。
「あれ? だぁれ、ですかー?」
 此方に気付いたらしい人物は、唖然としている二人の方へ泳いでくる。珍しい色の髪の毛が水に濡れて光る。近づいてきてだんだんわかってきたその容姿に、二人はどうするべきか悩んだ。
 白いというよりもむしろ青白くみえる肌と、ほっそりした手足。水の中を広がる長い髪は水草のように緑色だった。垂れ目気味の濃緑色の瞳が迷うことなく二人を見つめているが、二人はとりあえず背を向けた。
「こんにちは、どうしたの? 急に後ろ向いて」
 わかってなさそうなその声に、宗方が後ろを向いたまま憮然として答えた。
「・・・・・服を着ろ」
 水から出ている細い肩を見てそう言ったのだが、その人物は首を傾げた。
「着てるんだけど。一応」
 ほら、と声が聞こえ、やはりどうするべきかしばらく迷った後、ゆっくり顔を向ける。
 膝くらいの水深まで泳いできたその人物は軽く足を開いて立ち、着ている服を軽く引っぱっていた。白いタンクトップのような薄く短い生地で腹は露出してへそが見え、下は短パンを履いて細い足が太股から真っ直ぐ伸びていた。真夏でも滅多に見ないような露出っぷりに、宗方は頭を抑えた。
「下着と一緒だろソレ。寒くないのか」
 季節は秋から冬に向かっていくというのに。可愛らしい外見で、その人物はにっこり笑う。
「気持ちいいわよ。それにしても、ここ立ち入り禁止なんだけどな」
「おぬしはここで何をしているのだ?」
 八千夜が問えば、そちらに軽く目を向けた。
「あたしはシズクね。呼びにくいでしょう、貴方達は?」
「八千夜」
「犬上宗方」
 短く応えた二人に気を悪くした風もなく、シズクは水の中で座ってまるで風呂に浸かるように肩まで水に浸かった。
「八千夜くんと宗方くんね。で、あたしがここで何してるのか、だったかな?」
 八千夜が頷くと、シズクは手を広げて水を飛ばした。
「そぉねー、あたしはここで泳いでる。人がいなくてちょうど良かったんだけど、もしかして貴方が『来訪者』かな?」
「なに?」
「ごめん、あたし占いに凝ってるの。一人の場所に来訪者が来るって出てたからね、問題を抱えて」
 すっ、と楽しげに少し細まったシズクの瞳。宗方はふと気になる匂いをかぎ取った。八千夜も感じたのだろう、シズクに問い返した。多少の確信をもって。
「おぬし人ではないのか?」
「大正解―!」
 きゃー、と嬉しそうにシズクは手を叩いた。向こうも八千夜と宗方から微かに感じる妖気を察知したのだろう。自己紹介を始めた。
「この明神池に棲んでいます。水神、シズクちゃんでーす」
 水神。ここに祀られたものはそれか、と八千夜は改めて辺りを見回した。逆に宗方は、持ってきた煙草に火をつけて大きく吸い込み、紫煙を吐き出しながら真っ直ぐにシズクを見つめる眼を半眼にした。
「水神ねぇ・・・・・・・ようするに河童じゃねぇか」
「河童言うな―――ッ」
 シズクの怒声が、辺りの静寂を破った。
 

「だいたいね! 河童ってなんかイメージ悪いのよ、クチバシとお皿―とか思ってンでしょ? あたしみたいな可愛い子もいるのに、不愉快だわ」
 岸に上がって、タオルで髪を拭きながらシズクは憤慨していた。腕を組んでそれを見ていた八千夜は、構わずに訊いた。
「河童は自分の皿を持っていたはずだが。おぬしは違うのか?」
「もってるわよ。これ」
 ひょいっとシズクはどこからともなく平皿を取り出した。手の平ほどの大きさで、周りに赤、青、緑の三角形と逆三角形が交互に並んでいる模様が描かれた白い皿は、ぴかぴかと輝いている。
「人間は頭についてると思ってるのよ。そんな気持ち悪い話ってある?」
 頬を膨らませてそう言うと、シズクはその皿で池の水を掬って口に運んだ。
 少し離れた場所で木にもたれて、ポケットに手を突っ込みながら煙草を燻らせていた宗方はため息をついた。
 途端、宗方の煙草の先端が素早く斬られた。その斬ったものは、ぱたたっと地面を濡らす。火を絶たれた煙草を口から放し、宗方はシズクを見た。シズクは軽く手を宗方に向けて、口を尖らせた。
「宗方くん、煙草吸わないでくれる? あたし、どうも苦手なのよね」
「・・・へいへい」
 シズクが水を飛ばし、その水圧で煙草の先端を斬ったらしい。頭を掻きながら近寄ってきた宗方は、明らかにやる気が窺えなかった。というよりも相手に怒る気も失せているのだろう。やりにくそうだった。
 妖怪なので女ではない。体型は女に近いが胸は真っ平らであったし、容姿も可愛い部類に入るが中性的なものだった。しかし、言葉遣いや仕草は女のそれなので、宗方は扱いに困っていたのだ。多少ある人見知りも、関係するだろう。
 しかし八千夜は、まったく気にせずにシズクの斜め前に立っていた。
「あやかし同士が相見えることは芳しくないが、無礼の無いよう最高の礼儀をもって接すことを心がけよう」
 八千夜の堅苦しい言葉に、シズクは笑って手を振った。
「そりゃあ昔はさー、種族違いが気にくわないってよくあったけど今となっちゃ自分の仲間も少ないもの。気にしないで仲良くしてくれると嬉しいんだけど。私ももうずっと一人だったから、今はとっても嬉しいのよ。稀少となったあやかしと会えて」
 シズクは首を傾げて笑う。
「お友達になってください。八千夜くん」
 八千夜も微笑んだ。
「こちらこそ」
 本来あやかしは仲間内でも仲良く過ごすことはない。とくに孤高のあやかし・天狗はなおさらその気が強かったが、人間らしさが出てきた八千夜には喜ばしい言葉だった。
「で? あやかしの感じがするけど、二人とも人間の匂いがするわ。何なの? いったい」
 シズクは軽く訊ねた。素朴な疑問のつもりだった。
 その応えを聞くまでは。
「うむ。今は人間だが、元は天狗だ。かつての名を、金剛坊・天靜八千夜と申す」
「こっ・・・!?」
 シズクの眼が驚きと畏れに揺れる。そして即刻行動に出た。ずざざざっと池の中に飛び込んで距離を取るシズク。早業だった。
「金剛天狗ぅ!? 嘘ォーっ!」
 池の中からその叫びを聞き、八千夜は眉を寄せた。近寄ってきた宗方がシズクを見ながら八千夜の後ろに立った。
「・・・・なんだ、いったい」
「・・・・・・」
 八千夜は一歩前に出た。シズクは後じさりするように池の中で少し下がった。
「シズク? どうしたんだ」
「だってだってだってだって! 天狗? 金剛天狗!? 金剛天狗といったら天狗の頂点に立つ“柱”じゃない! うわぁ、畏れ多い・・・! すみません、無礼な真似しましたァ!!」
「おい、気にするな。儂は今、ただの人間の子供と同様だ」
 逆に八千夜の方が慌ててしまう。そう宥めてもまだ焦っているらしいシズクの様子に、宗方がフォローにまわった。がしっと八千夜の頭に手を乗せてのし掛かり、シズクを見る。
「おーい。昔こいつが何者なのか知ったこっちゃねぇが、今はただのガキだ。気にすんな」
「気にするわよー! あー吃驚した・・・・。金剛天狗の噂は、つい百年前まで有名だったもの。“柱”を離れて、姿を消したって」
 心臓の辺りを抑えながらゆっくり戻ってきたシズク。八千夜は眼を細めて控えめに言った。
「すまんな。だが気にしなくて構わぬ、普通に接してくれ」
「あたしも・・・・その、ごめんなさい。驚きすぎマシタ・・・」
 ぎくしゃくした空気を、無理矢理シズクが取り払った。
「何にせよ! 会えて光栄なことに変わりないわ。あたし自身の存在も薄れかかってたの」
 河童の宝とも言える皿で水を掬い、シズクはそれを八千夜に差し出した。
「ありがとう八千夜くん。貴方のおかげで、あたしはまだここに在る」
 八千夜は差し出された皿を受け取る。八千夜は紀子の『子供が溺れたことがある』という言葉を思い出した。
「・・・子供を溺れさせたのも、存在を固執するためか」
 八千夜の呟きに、シズクは少し俯いた。
「悪いと思ってるわ。でも恐れさせないと、あたしたちは消えてしまう」
 あやかしの存在は、人がいて、ヒトが信じてこそ成り立つ。ヒトが忘れれば、この世にあやかしというものはいなくなる。
 ここでシズクの目尻が下がった眼が、初めて潤んだ。水のせいではない。表情が泣きそうだった。
「子供は好きなのに。あたしはここに近づけさせないようにしなきゃならないのよ。わざと子供を溺れさせないといけない。苦しめなきゃいけないのよ」
「・・・・・・・・」
「・・・・・・ちっ」
 宗方は思わず舌打ちした。煙草に手を伸ばそうとして、思いとどまる。
 恐れさせ、その存在を意識させ、それにより存在を成り立たせるもの。
 それがあやかしだ。だが、八千夜も宗方もその一言は言わなかった。
 代わりに八千夜は、澄んで透明な水の入った受け皿を口元に運び、目を閉じた。
「・・・有り難く頂こう」
 盃のように、中の水を飲んだ。都会にある池の水ではない。河童というあやかしが汲んだ清らかな水だ。
 シズクは、ざばっと顔を水で洗った。次に上がってきた顔は、笑顔だ。
「こんな感情を持つなんて、あやかしとしては駄目駄目だけど。あたしはそれでいい」
「そうだな。儂もそう思う」
 にっこり笑うシズク。返された皿を受け取って仕舞いながら、呟くように言った。
「でも本当に、あやかし減ってるのよ。あたしの友だちも五年前に姿を消したし・・・。あやかし同士で、消し合うやつらもいるしさぁ。仲悪いったって、そろそろねぇ。イマサラ」
「・・・・・・・・・・・何?」
 喧嘩なら余所でやってよねー、というシズクの言葉を。八千夜と宗方が聞き流すはずがなかった。
 

     * * *
 

 再び陸に上がったシズクは、短パンのまま細い足を組んであぐらを掻き、タオルを首に掛けたまま前に座る八千夜に頷いた。
「そーそー。土蜘蛛が最近力つけててさぁ、――ホントに最近、急に強くなったんだけど――なんでも妖狐属を根絶やしにするって躍起になってんのよ。あたしは今更だと思うんだけどなー」
「それで? 他に何か知っているか?」
「え? うーん。永く在った妖狐属の大将が、負けたって聞いたけど」
 八千夜は一瞬、言葉を失った。顔色が変わった八千夜に気付いてシズクは宗方を見た。
「・・・・・・知り合いが居るの?」
「ああ。その妖狐属の大将と、八千夜は友人だ。――おい、もう飛び込むなよ」
 再び驚いて挙動不審な動きをしたシズクに釘を刺して、宗方は八千夜の方を向く。八千夜も宗方を見た。シズクは慌てて否定する。
「いや、でも噂だから! あたしも噂で聞いただけだからね、八千夜くん」
「・・・・・」
 八千夜の心は晴れなかった。そんな八千夜を見て、シズクは申し訳なさそうだった。
「心配なのね・・・あ、そうだ。なら見に行ったらいいじゃない」
「え?」
 手を叩いて、シズクが提案した。さも名案と言わんばかりに目が輝いている。
「あたしが案内してあげる。妖狐属の住処の入り口までなら知ってるの」
「本当か? しかしおぬしは妖狐属ではないだろう?」
「ええ違うわ。でもホラ、あたしは姿形が人間に近い種でしょ? 妖狐属も切羽つまってんのね、妖狐属に助力を請われた。断ったけれど・・・なるべく人数を集めたかったみたいね」
 妖狐属は、獣のあやかしの集まりだ。狐やイタチ、猫や犬。獣の力を持ち、ヒトに化けることが出来るあやかしは大概『妖狐属』であった。対照的に、見目が虫に近いもの、蜘蛛やムカデ、爬虫類の姿を持つ異形のあやかしは、『土蜘蛛』が主だった。必ずどちらかに分類されるわけではないが、妖狐属と土蜘蛛が相容れないのは思想の違いでもある。妖狐属は、土蜘蛛の異形と思考に嫌悪し、土蜘蛛はそんな妖狐属を鼻持ちならないと思っているのだ。
 お互いが争えば被害が尋常ではないので睨み合ったまま。それほど硬直した力量関係だったのに、その絶妙な関係があることで崩れたのだ。
「あたしを訪れた妖狐属は・・・みんな傷だらけで、大将の帰りを待っていた」
 春日が中心にいないことで、土蜘蛛が力をつけた。
「そうか・・・」
 一通り聞いた八千夜は、それだけ呟いて思う。
(・・・噂の信憑性が高まっていくだけだな)
 八千夜が黙ったので、代わりに今まで黙っていた宗方が問うた。単刀直入に。
「春日は、・・・・・・・死んだのか?」
「かすが・・・・? ・・・ああ、妖狐属の大将ね。いえ、そんな話は聞かないわ」
 誰のことだかわかると、シズクは首と手を横に振った。八千夜は怪訝な顔をする。
「しかし今・・・・・」
「土蜘蛛は、すぐに獲物を殺さない。利用価値がある者は、利用しきってから殺す。気に入らない者は、嬲ってから殺す。負けたからと言って、死んでいるとは限らないわ」
 死んでいなくとも、負けたのが事実だとしたらもっと酷い結果かもしれない。
「永く敵対してきた妖狐属の大将なら、土蜘蛛はけっしてすぐに殺さないわ。捕らえて、残った妖狐属も全て捕らえてから、見せしめをしていくはずよ。ゲスな考えばかりするのよ」
 吐き気がするわ、と続けてシズクは嫌悪を露わにした。宗方はそれを見て、思う。疑わしげに訊いた。
「お前はどうしてそんなに詳しい?」
「え? だからあたしは妖狐属から説明されて・・・・」
「嫌悪を露わにするわりには土蜘蛛の話に詳しすぎる。それに、都合が良すぎる」
 完全に疑った眼差しは、睨みがかっていた。
「俺たちをその妖狐属の住処とやらに案内して、何をたくらんでやがる」
「・・・・・・・・・」
 ぴちゃん、と池の水の音が聞こえた。流れた沈黙に、三人の思惑が交差する。
「あたしはただ」
 シズクの声は、澄んだ池の水のように、透き通っていた。
「あたしはただ、ここに在りたい。消えていった友だちも、あたしが覚えているから存在したと言える。でも、あたしまで消えたら、もう友だちの存在を知ってたものさえいなくなる。そんなのは、嫌だ」
 ちょっとだけ、シズクが怒鳴るように言った。
「土蜘蛛も妖狐属も、お互い争って存在を保ってる。哀しいけど、羨ましい。あたしは、ただここで果てなくてはならない宿命(さだめ)なんて嫌だ!」
 八千夜は、シズクの気持ちがよく理解できた。というよりも共感できた。かつて八千夜も同じ心を持っていた。あやかしとしての宿命を、満足できなかったのだ。
 そして満足できないこと自体、八千夜には罪で。シズクがここに独りだったことも、八千夜には他人事ではなかった。
「確かにここに妖狐属が来たわ。助力を請いに来た。あたしの仕事は、仲間を増やすことなのよ。妖狐属の大将の友だちなら、なんら問題ないわ」
 河童は、子供を溺れさせる悪戯好きなあやかしだ。だがそれは、寂しさ故に子供を引き寄せているだけなのだ。ただ一緒にいたいという気持ちが強くて、『此処に居る』と自己表示が強い。忘れられることを恐れるあやかしだ。
 シズクは此処で独りだった。消えることを恐れている。
 それを知ってどうして今八千夜に、シズクを責めることが出来るだろうか。
「おぬしは、妖狐属の者として存在を固執したいのか」
「・・・・・・あたしは水の者だから、火の者の近くにいることは出来ない。だから仲間を増やすことしかできないの。それすら出来ないようなら、本当にあたしは消える」
「ならば、頼もうか」
「え?」
 八千夜は、顎を引いて地面を見つめた。
「妖狐属のもとまで、案内を頼む」
 口を出すかと思った宗方は黙ったまま八千夜を見ていた。シズクは目を丸くして、八千夜を正面から見つめる。
 八千夜は二人の視線から逃れるように地面を見つめていた。
「儂は風の者だ。問題も無かろう・・・いまは人間に近いが、微かに魅縒り石の力は残っている」
「妖狐属と、土蜘蛛が戦っているのよ? 妖狐属から向かうというなら、負け戦もいいところだわ」
 見つめたままそう言うシズクに八千夜は苦笑する。
「なんじゃ、さっきと比べると引き留めようとしておらんか?」
「・・・・・負け戦で、安全の保証はなくて。それでも、行ってくれるの?」
「春日も気がかりだからな」
 シズクは、金剛天狗のあだ名を覚えていた。数年前に友だちと語ったうわさ話では、『鬼天狗』と呼ばれて畏れられた冷酷非道のあやかしだった。孤高に立ち、全てを見下し、限りなく不動の妖怪。翼を腐らせ、天狗としての幸せをも見失った金剛天狗は、罪を犯して今は封じられているのだと。
 信じられなかった。だが、見つめる八千夜の瞳は素晴らしい黄金の瞳で、天狗が持つ朱色の模様を両頬に持つ八千夜は、翼が無くても間違いなく金剛天狗だった。
「八千夜。春日もまあ気になるが、それより急激に増大した土蜘蛛の力―――魅縒り石じゃないのか?」
 宗方の言葉に、八千夜は振り返って頷いた。可能性は高い。
「魅縒り石が使われているなら、この戦の原因は儂にある。だからどちらにせよ儂は行かねばならん」
 顔を戻して、シズクに言う。
「都から孤立された空間で生きるあやかしよ。人間があやかしを信じずに、忘れていったとしても、儂は忘れない。だから頼む、案内してくれ」
 その八千夜の姿は、冷酷非道の金剛天狗ではなかった。シズクはぺたんと座って自分の身体を抱きしめてゆっくり頭を下げた。
「ありがとうございます、金剛天狗殿・・・」
「・・・よせ、儂は」
「いいえ、・・・大妖怪である貴方のことを、あたしもけっして忘れない」
 シズクは、泣きそうな顔で笑った。
 黙ってその場にいた宗方は、そっと目を逸らして池を見る。汚れていない澄んだ池の水を見て思うことは、決して同情ではない。
(あやかしが消えていく原因は、ヒトにあるんだろうな)
 その存在を信じて貰えず、居るのに無いものとして扱われるあやかしが、ここにも一人いる。
 ふと、宗方は眼を八千夜に戻した。
「・・・・一応言っておくが、俺も行くからな八千夜」
 宗方が当然のように言うと、八千夜は密かにため息をついた。
「そう言うと思ったわ。しかし、今度はやめておけ。生きて帰れるかわからんぞ」
「テメェに指図される覚えはねぇ」
「頼正が、悲しむぞ」
 今度は、宗方がため息をついた。ぽりぽりと頭を掻いて、眉間に皺を寄せた。
「お前が居なくなってもあいつは悲しむだろボケ。ようは死ななきゃいいだろうが」
 それに、と宗方は心底嫌そうに言った。
「お前と春日の野郎には、借りがある」
「借り?」
 八千夜には全く覚えがなかったが、宗方が呟いた。
「犬神の件では、迷惑かけちまったからな。・・・くそ」
 あまりに嫌そうな宗方の様子に、八千夜は思わず笑った。あんな、借りとすら思ってないことで、宗方は気になるらしい。もしくは頼正の弁をかりるとすれば、照れ屋なこの男はついていくことに理由がいるということだ。そんなことを考えていて可笑しくなった八千夜は、笑った事でたいそう機嫌が悪そうな顔をしている宗方が照れ隠しで手を出す前に、頷いた。
「ああ。なら、手を貸してくれ宗方」
「・・・・・・・・」
 きょとんとしているシズクに、二人は同時に振り向いた。
「おい、さっさと案内しろよ」
「遠いのか?」
 仲が良いのか悪いのかよくわからない二人だな、と思いながらシズクは立ち上がった。
「・・・遠く、ないわ。あたしが案内するからには、すぐに着く」
 シズクが池に向けて手を伸ばし、上向きに手招きすると池の水は生き物のようにシズクの周りに集まった。
「水は繋がってる。クセはあるけど、みんな一つ。だからあたしは、頼むことが出来るのよ」
 シズクがくるくる指を回すと、水もくるくるとシズクの周りを回った。
「・・・・さて」
 ちらりとシズクは前にいる八千夜と宗方を見た。何が起こるかわかっていない二人に、シズクは素早く手を合わせた。
「―――ごめんなさい! 後で乾かして!」
「は?」
 言うや否や、シズクの周りで宙に浮いていた水が、縄のように八千夜と宗方を捕らえて池に引きずり込んだ。
「うわっ!」
「てめ・・・!」
 盛大に音と水しぶきを上げて、二人は池に沈んだ。シズクのすぐに後を追って池に飛び込み、そのまましばらくして明神池の波紋は消えた。
 静寂が戻った明神池に人の姿はなく、澄んだ池はどこまでも澄んでいた。
 
 
 
     * * *
 
 
 
「ねぇドクター」
「んー?」
 相変わらずのらりくらりと時間を過ごしているフクロウに、洗濯物を干しながら頼正は声をかけた。庭で吹く風が、少し肌寒い。
「なんか空が濁ってません? 都会ってこんなものなのかなぁ」
「空ねぇ、うーんいつもよりちょっと薄暗いかもねぇ。雨来るのかな? 濁ってるって表現が一番正しいカンジだな。・・・・・・・・ちょっと頼正、お前が感じたことを言ってみ」
「えーその、なんて言うか。・・・・雨と言うよりも、なんかこうざわざわしてるものがある感じで・・・・・」
 そこまで言うと、ばっとフクロウは懐からノートを取り出した。例の頼正観察日記である。いっしょにボールペンも取り出し、さらさらと書いていく。
「・・・おかしなこと言ってますか?」
「いやいや、前から思ってたけどお前さんはちょっと勘が鋭い。犬神の血のせいかもしれないが、常人よりは自然に敏感だ。気にせず続けてくれ。なんか気付いたんだろ?」
「ちょっと思っただけですけど。なんか哀しい感じがする」
 頼正は空を見て、眉を下げた。
「・・・・誰かが泣いてる。誰かを想って」
「・・・・・・」
 笑うでもからからかうでもなく、フクロウは黙ったままペンの先で顎を掻いた。ふと空を見上げて、訊いてみる。
「それは勘か? それとも何か、根拠があって?」
 一瞬迷ってから、頼正は短く答えた。
「・・・勘です」
「そっか」
 それきりフクロウは何も訊かずにノートを取っていた。でも頼正は、心の中では否定した。
(僕のなかで、黒太郎が喜んでいる・・・・・・)
 だからきっと、頼正にとって哀しいことがこの世界のどこかで起きている。
 ざわざわと揺れるその感覚に、もうしばらく頼正は空を見上げていた。