16
其処には誰もいなかった。人の眼に触れない場所など減った中、此処は妖力で隠された秘所だった。
住処と言っても、家や塒(ねぐら)があるのではなく、ささやかな空間があるだけだった。木々の生い茂る中生まれた広場のような空間は、普段は花が咲き乱れ、たいそう美しい場所なのだろうと予想できた。だが今や、その見る影もない。
地面は抉れ、花は踏みにじられ、辺りの木々には粘々(ねばねば)した粘着糸が多くぶら下がっていた。
そんな広場のすぐ脇にある泉から、突如ぶくぶくと泡(あぶく)がたった。そしてすぐに水しぶきを上げて顔を出す者たちがいた。
「・・・・・・・・・・・・・ぷ、はっ!」
「っは、・・・・・・くそっ・・・・さっみィ」
がたがたと震えながら、八千夜と宗方は泉から這い出た。重くなった服に手足を取られながらも何とか身体を押し上げ先に上がると、宗方は八千夜も引き上げた。止めていた呼吸を再開させたのはいいが、お世辞にも肺いっぱいまで吸い込みたいと思うような美しい空気ではなかった。
「どこだ此処は」
八千夜が震えながら呟くと、シズクも泉から顔を出した。
「妖狐属の住処なんだけど・・・・ここももう襲われた後なの。・・・・・・よいしょ」
泉から出ようとしたシズクの手を、容赦なく宗方は蹴り落とした。
「がぼっ!」
「テメェいきなり何しやがる」
濡れて重い上着を脱ぎ捨てて、宗方は苛ついたように言った。沈んだ頭を池から出して、シズクは申し訳なさそうに言った。
「ゴメンねー。すぐに連れて行けるんだけど、水の中限定なの」
「先に言えよ!」
「だからごめんってば」
今度こそ陸に上がって、シズクは長い髪を絞った。一番寒そうな格好だが、堪(こた)えている様子はない。
「・・・ヒドイ匂い。あ、そこ気をつけて、『土蜘蛛』たちの毒」
酸のように燻る煙を昇らせてしゅわしゅわと音を立てている紫色の液体を指して忠告したシズク。八千夜は足を高く上げてそれを避けて、辺りを見回した。
「誰も、居ないのか」
「そうね。今、みんな参戦しているから・・・・・」
木にかかった巨大な蜘蛛の糸をくぐって避けて、シズクは歩き出した。歩いて数歩で宗方が黙ったままシズクの細い二の腕を掴んで止めた。
「待て、なんか来るぞ」
「え?」
「・・・・・音が聞こえる」
シズクは宗方を見たが、宗方は進もうとしていた正面を睨んでいた。八千夜は素早く身構える。
徐々に大きくなってきた音は、次第に八千夜の耳にも届いた。ともに近づく異臭に、宗方は眉間にしわを寄せて目をこらした。
がさがさがさっと足音らしき音が一度止まると、その謎の生物が姿を現した。見えた瞬間、シズクが宗方の後ろで「げ」と嫌そうに漏らした。
『まぁだ残ってるのかァ、妖狐属・・・・・大将が墜ちた今、お前らは顔だけ持ってきゃいいだろぅかなァ?』
どこを見ているのかわからない複眼をぎょろぎょろと動かし、臭い息――正確には口から出ている液体――を吐きながら数えられないほど多い節ばった足を気持ち悪く動かして、明らかに『土蜘蛛』の仲間と呼べる化け物がのっそり姿を現した。
一言で言うなら、百足(むかで)だ。だが、その大きさは目測で全長二十メートルほどもある。
宗方は、第一印象を呟いた。
「気持ち悪・・・」
巨大な百足は、口らしき箇所を動かしたが、声は其処から出ているように見えなかった。
『わしらを見下す妖狐属。お前らの区別はつかねぇが、もってきゃウチの大将は大喜びだ。顔だけでいいから、置いていけや・・・』
「置いていけるか」
頭突きのように正面から、正確には頭上から、百足は突進してきた。口から出ている明らかに毒に見える液体が飛び散るのを全て避けながら、宗方は横に跳んで木の枝に飛び乗った。しかし百足は、其処にめがけて鋭い刃がある口を向ける。
「・・・ふん、黒太郎に比べたら遅いんだよお前」
巨大な分、速さで劣る百足がぶつかってきたときにタイミングを合わせ、宗方はその頭上に向けてかかと落としを喰らわせた。
普通の人間ならたいした衝撃にはならない身体の大きさの比だが、怪力を持つ宗方の蹴りは、強固な殻を持つ百足の頭上を陥没させた。血のようだが、白色の液体が飛び散る。
『ギャアァァ!!』
痛みに暴れる百足の上から飛び降りて、宗方は百足から離れた。それらを見ていたシズクは、八千夜の隣で感心したように呟いた。
「強い・・・・・」
「アレが弱いんだ」
宗方がこともなげに言った。百足は怒りに震えて突進してくる。
とどめを刺そうと宗方が手に力を込めたとき、
――――ズバン・・・ッ!!
目の前で、百足の身体は鋭利な刃物で裂かれたように縦四つに裂けた。悲鳴を上げる間もなく百足は絶命して、裂かれた身体はそれぞれ左右に倒れた。
「なんだ?」
八千夜が思わず呟くと、裂かれた百足の中心で人影が見えた。砂埃が舞っていたが、しばらくすると絶命した百足の上に立つ人物の顔が判別できた。
シズクほどではないが、垂れ目がちの眼で睨みをきかせて前方を見据え、眉間にしわを寄せながら怪しげに八千夜達を見ている。姿は限りなく人に近いが、春日より濃い色の金の髪を逆立たせて、白いはちまきが額で結ばれ先が後ろで長く揺れている。詰め襟の学生服のような黒服に身をまとい、手には槍と鎌が一体化したような武器を持っていた。
「足手まといだ、さっさと帰れ!」
突如現れ、そう言い放ったその男に八千夜が聞き返した。
「妖狐属の者か?」
男は頷く代わりに眼を細めて睨み、怒鳴った。
「オレは妖狐属の斬り込み隊長、名を來軌(らいき)! てめぇら状況わかってんのか!? 今ここはもう土蜘蛛の手に落ちた、敵地だぞ!」
妖怪には違わないだろうが、若い姿の來軌はそれこそ反抗期の子供のように怒鳴って言った。不良少年のようだ、というのが宗方の感想だ。
「後援はもうこれ以上いらねぇ! さっさと帰れ!」
「待て。來軌と言ったな!? ならば春日―――おぬしらの大将がどうなったのか、説明してくれ!」
『大将』という単語を聞き、明らかに來軌の顔が嶮しくなった。
「あんな馬鹿野郎知るか! あの野郎の知り合いかよ!」
身軽に百足の死骸の上を通って、來軌は八千夜達の前にやって来た。
近くで見ると、眼が薄い灰色であることがわかった。
「とっくにオレはあんな野郎見限ってんだよ。会いに来たんなら諦めろ、良い噂は入ってこねぇ」
「おぬしは夕楊(せきよう)殿と同じく、大将の『腕』だろう?」
「・・・夕楊さんを知ってんのか」
來軌はそこで初めて構えていた武器を下ろした。
「ふん、大将の右腕と呼ばれていたのは昔の話だ。それよりお前ら誰だ。妖狐属の支援じゃないのか?」
宗方が答えた。
「支援と言えば支援だな。その悪い噂の絶えない大将を捜しにきたんだよ」
「・・・・大将の知り合いか。なら余計帰れ、あの野郎は敵の手に落ちた」
苛々とした來軌の様子に、八千夜は躊躇った。だが、問う。
「大将が墜ちたのに、戦は続いているのか」
「あの土蜘蛛たちが、大将だけで満足するわけ無いだろ。こうしてる今も仲間が狩られてる」
「どうして春日は捕まったんだ?」
「弱ぇからだろ」
だんだん素っ気ない返事になってきた來軌。夕楊は大将である春日に恭しく接していたが、どうやら來軌は違うらしい。
來軌はこれ以上質問される前に、背を向けた。
「帰る気がねぇなら、ついてこい。残った妖狐属の元までなら案内してやる。そこなら安全だからな」
言うや否やすぐに走り始めた來軌の後を、三人は少し遅れて追い始めた。
* * *
「よし、洗濯終了」
次は夕食の用意でもしよう。洗濯カゴを持ち上げて、頼正は庭から室内に戻る。
(・・・ドクター僕が来るまでどうやって生きてたんだろう)
料理も出来ないらしく、初日に頼正が簡単な食事作るとたいそう喜んだ。空っぽだった冷蔵庫にそこそこな物を詰め、頼正は家事全般を担当している。
相も変わらずごろごろとノート(頼正観察日記)を見ていたフクロウの元へ、ネロが姿を現した。
「みゃあ」
「ん? どうしたネロ」
フクロウが顔を上げると、表の診療所のドアにつけられたベルが鳴る音が聞こえた。
「おや珍しい。客が来た」
「・・・自分で珍しいって言わないでくださいよ」
頼正が情けなく呟くが、フクロウはよれよれの白衣を羽織ると奥に向かった。自宅兼診療所となっている梟クリニックは、診療所に比べ研究室のある自宅に多く土地が割かれている。フクロウが仕事をしていても、頼正は自宅の方で家事をしていればいいのだ。
ネロは、用事は済んだとばかりにまた外に向かって歩いていく。やはり不思議な猫だなぁと頼正は声をかけてみた。
「ネロ。煮干し食べる?」
動きを止めて一度振り返ったが、ネロはふいっと顔を背けて駆け出て行った。
「・・・・・やっぱり嫌われてるなぁ」
餌如きで釣れるような猫でないことは、重々承知の上だけれども。
頼正が軽くため息をついて料理を始めようとエプロンを掛けたとき、フクロウが戻ってきた。
「頼正ぁ、ちょっと来いよ」
ドアを半分開けて、ちょいちょいと手招きするフクロウに理由を尋ねてみたが、答える前にフクロウは診療所に姿を消した。しょうがないので、頼正もエプロンを外して診療所に行く。
受付に向かうと、客と思しき人物が立っていた。
「こんにちは」
人当たりの良い笑顔で、客は頼正に挨拶をした。普段ならすぐに挨拶を返す頼正だが、このときは思わず固まった。
髪は流れるように黒く、眼はエメラルドのように鋭く光る深い緑色で、猫のような眼でにっこり笑う若い男。見る限り十七、八歳くらいだろうか。初めて会ったのに、頼正が思ったことは。
(・・・・八千夜くんかと思った)
何故かわからないが、一番にそう思った。よくよく見れば共通点など無いというのに。
(あえて言うなら・・・・目の形、とかは似てるかなぁ)
にっこり笑う客の左頬は、怪我をしているのか大きな湿布が貼ってあった。
「オレも今気付いたけどよぉ。なんか八千夜に似てるだろ? だから呼んだんだ―――ほい、薬ね」
がさがさと紙袋に棚の薬を詰めると、フクロウはそれを受付から客に投げた。客もそれを受け取り、礼を言う。
「ありがとう」
客は、まだ言葉を失ったままだった頼正の方へ目を向ける。見つめていた頼正は目が合ってやっと動き出した。
「あ、すみません」
「構わないよ。ボクも興味深い物が見られて満足しているからね」
エメラルド色の眼を楽しそうに細めて笑ったその男に、頼正は背筋が冷えるのを感じた。
(この人、笑ってるのに・・・・・)
――――何故だろう、怖い・・・。
見ていたらエメラルドの瞳に引き込まれそうな錯覚を覚えて、思わず頼正は目を逸らした。しかし、客は受付まで歩いてきて、頼正の前に立った。
「・・・・・・折角良いものを持っているのに、勿体ないなぁ」
「え?」
頼正が何のことか問おうとすると、客はにっこり笑った。
「ボクは君が気に入ったから教えてあげよう。耳を貸してごらん」
客は頼正の耳元に口を寄せると、楽しげに言った。
「・・・・・過去に一人、君と同じものを持っていた人は、それを自分の意志で操っていたよ?」
頼正が、持つもの。過去に一人だけが持っていたもの。
「―――え・・・?」
「じゃあ、頑張ってね」
意味深な言葉を残して、客は出て行った。
「な、に・・・・・・?」
「どうしたァ?」
閉まった扉を見つめ続ける頼正を、不思議そうにフクロウは見ていた。
梟クリニックから出てきた姿を見つけ、外で待っていた清秋(せいしゅう)は手を挙げた。
「千影(ちかげ)〜、こっち!」
千影と呼ばれた若者は、薬袋を手に持ったままそちらに向かう。
「うるさいな、少し黙れないの?」
「お前なぁ。自分で付き合わせといてそんなこと言うか」
「ボクは頼んでないよ。―――ハイこれ」
「来て欲しそうに声かけてきたくせに! ―――なんだよこれ」
「薬に決まってる」
清秋の胸元に薬袋を押しつけて持たせ、手ぶらになった千影はすたすたと前を歩き始める。
「・・・・・なに、お前どっか悪いの?」
清秋が心配そうに言うと、千影は振り返って小馬鹿にしたように笑った。
「ボクじゃない。アンタの分だ」
「はい? おれはどこも悪くないけど・・・」
「何言ってンの、頭悪いじゃん」
千影の言葉に清秋はふるふると怒りに震えて拳を握ったが、なんとか抑える。
(相手は子供、相手は子供・・・・! 抑えろおれ・・・!)
「あ、そういえばさぁ」
千影は診療所を振り返った。
「あそこに面白いのがいたよ。『力』がすぐそばにあるのに、気付いてすらいない」
「・・・なんだ、用事は別にあったのか?」
「当たり前だよ、馬鹿に付ける薬があるわけないだろ」
「・・・・・・・・・・じゃあこの薬はなんだよ」
青筋を浮かべ怒鳴りそうな声を抑えて問うと、千影は清秋の怒りを全く気にした風もなく背を向けた。
「ただの胃薬? アンタのために買ってやったんだよ」
「はいはいはいはい、どうも有難うございますー!」
そういうと大股で千影を後ろから追い抜いて歩き出した清秋の後ろ姿を見て、千影はやれやれとため息をついた。
後ろから清秋の姿を見て、思い出すように千影は呟いた。当然その言葉が随分前を行く清秋に届くはずもない。
「・・・・・・もうちょっと後で、アンタに会わせてあげるよ」
千影は、くすりと笑う。
――――最高の、シナリオでね。
冷たい一陣の風が、公園の中の枯れ葉を空高く舞わせた。
* * *
決して速度を落とさずに走り続ける來軌を追って、八千夜と宗方もまた走っていた。早々に音を上げたシズクは、宗方に背負われてだれている。
「何処まで行く気かしら、しんどいわねぇ」
「てめぇは走ってねぇだろうが」
宗方が恨ましげにそう言うと、シズクは足を振って宗方に抱きついた。
「あたしは戦ったり走ったり苦手なの。いいじゃない宗方くん力持ちだし。ひゅーひゅー」
「・・・テメェいつか落とすからなッ!」
細いシズクを背負ってたいして負担はないが、腹立たしい。舌打ちしてそう言うと、宗方は隣を走る八千夜を見た。
八千夜はその視線に気付く。汗を流しながら八千夜は途切れ途切れに言った。
「儂は、大丈夫だ・・・・・それより」
來軌の背を見て、呟く。
「何処まで、行く気だ・・・!?」
もうだいぶ、妖狐属の住処から離れている。すると突然、來軌は足を止めた。崖の上で。
「へぇ、よくついて来られたな。早めに走ったのに」
辺りを見回して、來軌はまた足を一歩前に出した。
「―――躊躇わずについてこい」
そういうと、來軌は崖を飛び降りた。崖の下は百メートルほどあるだろうか。遠い眼下に森が見える。木々が生い茂っていると言っても、クッションには到底なり得ない。
宗方と八千夜は一度顔を見合わせたが、すぐに走り出す。
「え、ちょっ。・・・・やだっ」
宗方の後ろでシズクが叫んだ。八千夜と宗方は、黙ったまま崖下に向かう。先に八千夜が飛んで、宗方も続いた。――シズクを背負ったまま。シズクはあまりに高い景色と浮遊感に絶叫した。
「いっやぁ―――ッ!!!」
シズクの叫び声は、落下途中で見えない膜に吸い込まれた三人の姿と共に消えた。
冷たいような感覚の薄い膜をくぐると、地面はすぐ其処だった。突然現れた地面に着地すると宗方はシズクを離した。落とされたシズクは地面に尻餅をつく。
「いったぁ」
「おま・・・・っ、うるせーんだよ・・・!」
耳元で叫ばれた宗方は耳を押さえて毒づいた。宗方の耳の奥で、きーんと耳鳴りが響いていた。
「怖かったんだもん!」
「〜〜〜俺は人より耳が良いんだよ」
痛そうな顔をした宗方に、シズクは素直に謝った。
「ごめんなさい」
「・・・・」
真顔で謝られ、宗方は怒りを持続させることも出来ずに舌打ちした。ちょうど其処へ、聞き覚えのある声がかかった。
「宗方様、それに八千夜様。どうしてここへ!?」
振り返ると、慌てて駆けてくる夕楊の姿があった。以前に比べ、見慣れぬ包帯や傷が増えている。
「夕楊さん、オレが連れてきました。大将を捜していたので、あそこに置いてくるよりは此処の方がマシだろうと思って」
來軌がそう言うと、夕楊は少しだけ目元をゆるめて笑いかけた。
「ああよくやってくれた。自分が行ければ良かったのだが・・・」
「・・・・・・いえ。それより夕楊さんこそ大丈夫ですか? ずっと張りつめ続けて」
「なに、自分が出来るのはこれくらいだから。―――それよりも、話がしたい。お二人には奥へ入って頂けますか」
夕楊が片目を八千夜に向けた。促されるまま八千夜と宗方は夕楊の後について降り立った地面のすぐ前にあった穴蔵へと向かう。
当然着いていこうとしたシズクの手を、來軌が掴んだ。
「待て。お前は水の者だろ、妖狐属は火の者が多いからお前は入るな」
本人の意志に関係なく、司るものが違う者同士では体質で反発するものがある。水と火は相成れぬ者同士、共にいればお互い気分が悪くなってくるのだ。
シズクは、掴まれた腕の力の強さに、ちょっと眉を寄せた。慌てて前を見るが、宗方も八千夜も中に入っていく。
シズクは少しだけ口を尖らせた。
「・・・・・ちぇ」
残念そうな寂しそうな顔をしたシズクを見て、來軌は手を離した。そして地面に槍を突き立てて腕を組み、穴蔵の外壁に凭れる。
辺りから隔離して隠されているこの隠れ家の入り口と同化した空を見上げて、來軌は無愛想に言った。
「一人じゃ、することもねぇだろうから。オレがいてやる。話し相手くらいにはなるだろ」
意外な言葉にシズクは目を丸くした。黙ったままのシズクに、來軌は不機嫌そうに言った。
「・・・・オレは雷獣のはみ出し者だ。つまり雷の者。火の者じゃねぇから、反発も少ないだろ」
その無愛想さが、來軌の最低限の心遣いだと知り、シズクは笑って來軌の隣に体育座りで座り込んだ。細い膝の上に指を組んで乗せて、さらに顎を乗っける。
「ありがと」
「・・・・・けっ」
素直じゃなくても嫌いじゃないな、と。シズクが微笑むと、來軌は照れ隠しのように顔を逸らした。
穴蔵は、そう奥深くはなかった。入り口から十数メートル丸く曲がった道を通り、先には大きく広がった空間に明かりが灯され地面の上に草が敷き詰められていた。その上で、負傷者が並んで転がっている。
うめき声を聞き、充満する血の臭いを嗅ぎながら、宗方と八千夜はなるべくじろじろ見ないように注意しながら夕楊の後に付いていく。一番奥の草の幕で仕切られた個室に入ると、夕楊は振り向いて座るように促した。従って二人は地面の上に座った。
「かたじけない。招待できるほど歓迎出来ぬ上、見苦しいところをお見せしました」
頭を下げる夕楊を痛々しく見てから、八千夜が首を振る。
「・・・いや、気にしなくていい。それより状況の説明を求めて良いだろうか」
「はい・・・。あなた方が来られたのも、春日様を追ってで御座いましょう。申し上げにくいのですが、我らが大将・春日様は、敵の土蜘蛛に囚われの身となり、今現在の指揮は自分がとっております」
「戦況は・・・訊くまでもないな」
宗方の言葉に、夕楊は重々しく頷いた。
「前の間に居た負傷者・・・彼らが妖狐属の全てです。今や動けるのは数人と來軌、そして自分だけですが・・・自分はここから離れることが出来ないので、來軌に仲間の救助に向かわせていました」
「動けない? 傷が酷いのか」
八千夜が眉を寄せると、夕楊は困ったように笑って俯いた。よく見ると、額に汗が浮かんでいる。
「いいえ、自分は動ける方です。この赤狐・夕楊は幻術に長けておりますがゆえ、この場を隠すために出て行くわけにはいかないのです」
二人は此処に来るまでを思い出した。見えない膜のような感覚を通り抜けて、突如地面に降り立った。來軌が言っていた「張りつめる」とは、その不可視の効果を保つため術を張り続ける夕楊への気配りだったらしいと確信づけた。
「申し訳ない・・・気を緩めればすぐにでも術が解けてしまうので・・・・・・・っ、もう丸々五日、眠らずに術を張り続けて、もはや・・・いつ解けてもおかしくないので」
ぎゅうっ、と自分の腕に爪を立てる夕楊を見て、八千夜は見ていられないとばかりに目を閉じた。
「シズクから妖狐属と土蜘蛛の争いの謂れは聞いた。土蜘蛛の力・・・何か違和感はなかったか?」
「・・・・土蜘蛛の者たちが魅縒り石を所持している可能性があると報告が何度かありました。事実倒した土蜘蛛から、数個の魅縒り石を回収しています」
八千夜は、唇を噛んだ。正座して座っている八千夜の膝の上で作られた拳が震えているのを見て、夕楊は疲れ切った顔で笑いかけた。
「土に侵されていましたが、風の力が残っておりました。きっと、貴方のものでしょう。八千夜様」
「・・・・・・・すまぬ・・・っ。儂の責任だ」
夕楊は、首を振って立ち上がった。
「お気になされるな、大将の友人。恨み言を言う気はありませぬ」
壁の近くまで寄ると、ずぼっと夕楊は手を壁に埋めた。壁にも幻術がかけてあったらしく空気の波紋が広がって奥の空間から何かを取り出した。
「お返しします。春日様もそれをお望みでしたから」
振り返った夕楊の手には、真っ赤な魅縒り石が三つほど握られていた。大きさは倉木が持っていた物より少し大きいくらいだが、色は違う。土蜘蛛たちの妖気が混ざり、血よりも濃い赤へと変色している。
「どうぞ、土蜘蛛の邪気も混ざり発熱していますが・・・」
火を司る夕楊は平気そうに持っているが、それらが八千夜の手に渡った途端、肉の焼ける音が響き微かに煙が上がった。
「ぐぅ・・・ッ!!!」
熱された鉄を握っているようなものだったが、八千夜は苦しそうに歯を食いしばった。しかし決して手を開かずに、魅縒り石が身体に馴染むまで堪え忍ぶ。
始終黙ってそれを見ていた宗方は、微かに目を細めた。何もする術がないことを言われずとも知っていた。
「っく・・・・・・・・はぁ、は・・・・!」
八千夜の頬から顎に伝って、汗が一粒落ちた。ぶすぶすと音を立てる拳から立つ煙は次第に薄れる。
そして八千夜の身体に変化が起きた。宗方は目の前の出来事に少々目を瞠った。
宗方ほどではないが、身長が見える速度で少し伸び、顔つきも多少変わる。子供の成長の一年分を五秒で見ているような、急成長の変化を間近で見た。
それだけで変化は止まらずに、八千夜の来ていた服の背中側が、不自然に膨れた。
「・・・・・・・・・・・・っ」
宗方は目を開いた。
ばさっと音を立てて、八千夜の背から翼が生えた。漆黒の、濡れたように艶やかな一対二枚の翼が服を突き破って八千夜の肩胛骨辺りから広がる。破れた服を引きちぎって地面に投げ捨て、八千夜は頭を振って髪を払った。その時見えた耳は、細長く尖っている。
上半身裸の少年の背は黒い漆黒の翼が有り、天井を見つめて真っ直ぐに立った周りには羽が舞う。ゆっくり地面に振り落ち、服の残骸の上に乗った。
八千夜は、自分の手を見て呟く。
「まだ・・・足りないか」
中途半端に回復した妖力に、八千夜は体を動かして慣らすと宗方と夕楊を見た。
「へえ・・・・・天狗っぽくなったじゃねぇか」
宗方が腕を組んでそう言うと、その横から夕楊は八千夜に棒を投げた。ぱしっとそれを掴み、八千夜は夕楊を見た。
「貴方に最もふさわしい武器でしょう・・・・お使いください」
「・・・・かたじけない。惜しみない協力を約束しよう」
口の端を上げて力強く笑った八千夜の顔は心強く、かつて天を制すと謳われた金剛坊・天靜八千夜のものであった。
* * *
あー、だりぃ。
目を開くと辺りは真っ暗闇だった。一点の灯りも見えず、漆黒の闇の中に居た。だが自分の身体はうっすらと見える。身体がほのかに発光しているのはそういう術をかけられたからだ。いわく、楽しむための一手間らしい。動かぬ体で、ただ残された感覚でわかるのは自分の腕が捕らわれて左右に貼り付けられていることと、全身が痛むということだけだった。
回復しても、また意識など飛ぶだけだし、怪我は増える一方だ。目に入った血が邪魔でしょうがない。目からも溢れて頬を伝い、血の涙のように下に滴っていく。だが音はしない。
(足、砕かれてるなぁコレ・・・)
完全に感覚は無く、動くどころか激痛しか残っていない両足がどこにあるのかわからず、切れた口元から滲む血と唾液が混ざって口に溜まったものを吐き捨てた。
その途端、暗闇から生き物の気配が蠢いた。
【イヒヒヒ。まだ動いてるのか妖狐属の大将、“壊死枷(えしかせ)”を六つもつけてるのに、まだ大丈夫かィ?】
怖気(おぞけ)だつような不気味な声も、もはや驚くようなものではない。もうどれだけ経ったのか全くわからないが、随分長い間拘束を受け、ねちねちと陰険な暴行を加えられ続けて残っている動く部位は顔くらいだ。
妖狐属の大将――春日――は、血塗れの顔で闇を見据えた。血に紛れてわかりづらいだろうが口の端を上げる。
「・・・余裕だぜ悪趣味ヤロー」
【イヒヒヒ! 強がりにはぷれぜんとだ。受けとりナ】
――――ズズンッ!!!
「・・・・・・ッ!」
めきめきと音を立てて、両手両足の負荷と痛みが増した。
【手には二ずつ、足は三ずつ。合計、十。どぉだァ?】
じわじわと広がってくる痛みに、声こそあげないものの春日は歯を噛み締めた。こみ上げる嘔吐感でも戻すのはどうせ胃液と血だけだし、“壊死枷”の重圧にさらに耐えるには精神力が要った。だがその精神力といえど底なしではない。
【“壊死枷”はどんどんお前ノ身体を腐らせていくゼ。いくつまで持つかなァ?】
「へっ・・・・この悪趣味、ヤロー・・・・・!」
暗闇に、光る目が春日の目の前に現れた。しかし二つではない。複数在る目が楽しそうに春日を見て弧を描く。そしてワサワサと蠢く音も聞こえた。
【イヒヒイヒヒ、半分くらい腐ってるナァ】
相手の節ばった足が、無遠慮に春日の体中の怪我を触り、最終的には春日の横腹で止まる。巨大な蜘蛛の足は、そのまま春日の脇腹を切り裂いた。
「―――ぐあ・・・ぁあ・・・・ッ!!!」
だが血飛沫が上がるほどの血も身体に残されていない。また激痛だけが生まれる。
【まだまだ保ってくれよォ? 頑丈じゃねぇと面白くねぇよイヒヒ・・・・】
あやかしの身体であるがゆえ、簡単に麻痺することも意識を失うこともなかったが、たとえ意識を失っても、この悪趣味な相手は意識を取り戻させてまた体中を切り裂いた。
【生きたまま中身を食うからうめぇんだよ・・・・簡単に寝ないでくれよォ。九尾の狐ェ・・・】
そう言うと今度は裂いた腹から腸を引っ張り出して縦に裂き始める。簡単に死ねない身体は、果てしない激痛を与え続けた。
【びくびくして面白いなァ・・・、コレ全部裂いたらなっがい紐になるかなァ】
「・・・・・・・・・なるわけねーだろボケ・・・・! ・・・ぅぐァ、ア゛!」
微かに開いた春日の口にも、土蜘蛛の爪が伸びた。複数在る手がバラバラの動きをしている一本が口に入ったらしい。舌が裂かれる。
「ぁ、ガ・・・・・――ッ」
【・・・あー? いっけねェ、音が出なきゃ面白くねぇよォ】
ボタボタと溢れる血を吐きながら、春日は青白い顔で目の前を睨んだ。裂かれた舌が回復するまで、また暗闇の中に置いておく気だろう。気配が遠ざかって行く。
完全に相手の気配が消え、再び静寂と闇が戻ってきた。春日は静かに血を零し痛みに耐えながら目だけ動かす。
(また、回復しても刻まれるだけだろうな・・・)
悪趣味な切り裂きヤローに。
しかし今度の舌と腸の回復は時間がかかりそうだ。意識が遠のいていく。目を閉じて、春日は妖狐属の大将の腕として仕えた二人を思い浮かべた。
(怒って、るだろうな・・・特に來軌は・・・・・・・・・・・夕楊は心配してるだろうし)
敗北は、すなわち妖狐属の全滅を意味する。ならばまだ負けとは言わないのだろうが・・・。
春日は脳裏に違う顔を並べて浮かべる。
(帰れねぇかもしれない・・・・・)
あいつらの元へ。折角千年以上の付き合いがある友人の、手助けが出来ると思ったのに。彼の探し物を集めていたのに。ああ、あれを夕楊は八千夜に届けてくれただろうか。
春日は、暗闇の中一人で目を閉じた。失われ続ける体力を、例え少しでも回復するために。
(悪いな・・・・・・・・・みんな)
―――俺、戻れない。
それだけ思って、春日の意識は再び途絶えた。