17
異変に気付いたのは、空を見ていたシズクだった。
「來軌(らいき)、くん・・・」
「あ?」
アレ、と言ってシズクは空を指さした。顔を向けた來軌は、即座に突き立てられた槍を手に取った。
バリバリと音を立てて、卵の殻を破るように空が割れていく。
『みィつけたぁ・・・・』
にたぁと笑った巨大な複眼が、來軌とシズクの姿を捉えた。
少し時間は遡って、穴蔵内。
八千夜は首を振って、身長のせいで多少変わった視界に違和感を持ちながらも夕楊(せきよう)に訊ねた。
「ところで、春日(かすが)が捕らわれた理由を聞いていないな。來軌に問うても、いまいち要領をえん」
「・・・自分にも、わからないのですが」
夕楊は、淡々とその時を思い出して語る。
「春日様がお戻りになり、妖狐属の志気は上がりました。『大将が戻られた』と。・・・・しかし、突然・・・敵陣に乗り込む際、本当に突然仰ったのです」
―――お前らは戻れ、命令だ。
「皆、大将と共に戦う準備は出来ていたので、理解するのに時間を要しました。そして突然、春日様は妖狐の姿へと変化され、炎の壁を作って自分らを退け、単身土蜘蛛の中に向かわれたのです・・・・・・・が」
夕楊の顔が、微かに歪められた。
「・・・・皆、呆然と立ちすくみました。大将が敵陣に入って即、炎の攻撃が自分らを襲ったのですから」
「!?」
「春日の攻撃だってのか?」
言葉を選びながら、夕楊は俯いていく。額の汗を拭って手で擦った。
「・・・・土蜘蛛には、火の者はいないはずなので」
困惑を隠せないまま、怪我人を連れて自分たちはこの隠れ家に逃げ延びたのだと。
「來軌は怒り、他の仲間達は嘆きました。でも自分は、春日様がそんなことをするなど信じられないのです・・・」
がくっと夕楊の身体が傾いた。急いで宗方が手を伸ばして支えた。
「・・・・・いけない、術が・・・・・・っ」
夕楊の叫びの後すぐに、爆音が響いた。
風圧が最奥の間にいる八千夜の顔を撫でる。負傷者達の戸惑う声が聞こえた。
「くっ、見付かったか・・・・・!」
夕楊が悔しそうに歯を噛む。宗方は夕楊を支えていた手を離し、夕楊を壁に凭れかける。そのままずるずると夕楊は壁に背を擦って座り込んだ。
八千夜は、外の方向を見ながら呟く。
「おぬしは休んでおれ」
「しかし・・・・」
ぐっと膝に力を込める夕楊の前を宗方と八千夜は歩み始めた。
「俺は借りを返してぇしなぁ」
「儂は自らの責任を全うする」
八千夜と宗方は座り込んでいる夕楊を振り返った。夕楊の目は大きく開かれ、二人を交互に見つめた。
「・・・・何故・・・」
大将・春日の知り合いとは言え、どうしてあやかしが他の者の戦いに手を貸すというのか。
夕楊の困惑を二人ははね除けた。宗方は煙草を一本取り出してくわえ、湿気ていることに気付いて握りつぶした。
「理屈なんて関係ねぇんだよ。むかつくもんはむかつくしな」
八千夜は翼を羽ばたかせ、杖を握った。『彼』が集めてくれた魅縒り石は八千夜に力を取り戻させた。
「春日には助けて貰ったからな。今度は儂が助ける」
天狗としての外見と力を得た今も、八千夜は人間の気持ちも持っていた。八千夜の金の瞳は力強く光る。その眼光に夕楊は自分の大将と同じものを確かに見た。
「―――ここは死守する」
春日の、代わりに。
槍を構えた來軌はバリバリと幻術の膜を破って進入してくる敵を迎え撃とうとしたが、隣で呆けているシズクを横目に捕らえ、素早くシズクを抱え上げた。
「ほわぁ!」
「邪魔だっ。奥に入ってろ!」
そう言って來軌は、シズクを穴蔵の方へと放り投げた。受け身を取りながらも地面を縦に転がったシズクは、穴蔵の入り口で尻餅をついて止まる。文句を言っている場合ではないので、大人しく岩陰に隠れた。シズクは戦闘向きのあやかしではない。
シズクが岩陰から覗いたとき、すでに戦闘は始まっていた。
上から振ってくる節ばった足の猛速の突きを軽やかに避け、逆にその足を蹴って宙を回転して穴蔵から離れた來軌は、狙って襲ってきた敵の足を槍の先の鎌で切り裂いた。が。
「・・・・・チィ!」
金属同士のぶつかったような嫌な音を立てて、か細い傷が付いただけだった。手に残る痺れを感じ、來軌は槍を構えなおした。
外装が固いこの化け物の皮膚を傷つけるのに、横に薙いだのでは駄目だ。
「シッ」
槍を回してその切っ先を、飛び上がって化け物の頭に突き刺した。斬り、突きを兼用する來軌の武器、『雷来葬槍(らいらいそうそう)』は特殊な形の刃を五枚つけた槍で、多様に使用可能だ。斬り込み隊長を名乗る來軌の腕にかかれば、斬れぬものなど無い。自他ともに認める実力で、確かに化け物の脳天に突きは命中したと思われた。
だが。
『・・・・・・・・・・・』
化け物の口は、愉快そうに弧を描いた。來軌は思わず舌打ちする。化け物の体を覆う黒く硬い甲羅が、雷来葬槍を弾く。
びりびりと痺れてくる腕に激昂して力を込めなおし、來軌は敵を睨んだ。其処へ化け物の足が來軌の横から重くぶつかった。槍で受け止めたが、はじき飛ばされる。
「來軌くん!」
シズクは思わず叫んだ。だが來軌は宙で回転して着地する。そして蹌踉けた片足を踏み直して即座に横腹を押さえた。楽しそうな化け物の、ゆっくりした声が耳に障る。
『斬り込み隊長殿は、ケガしてるって聞いたぜぇ〜? だァいじょうぶかよォ。ケケケ』
來軌は見上げるように睨み付けた。口の端に血が流れる。
確かに以前の戦闘であばら骨を何本か痛めている來軌。だが、それでも來軌は重傷患者に含まれる域ではないのが妖狐属の現状だ。
『オレだけだと思うなよォ? 場所がわかったからには、次々やってくるぜェ』
來軌は息を整えて考える。
(夕楊さんは、疲れ果ててる。それに此処には動けない奴らしかいないんだ・・・!)
「・・・ならやってくる全員、ぶち殺してやらァ!!」
斬り込み隊長の名を、お前ら程度の奴に汚させるものか。
膜が完全に破れて、化け物の姿が見えた。先ほど見た百足(むかで)の化け物と同種のようだが、それよりも手足が長くて身体は大きい。そして百足の言葉通り、その後ろからもう一匹同等の百足が姿を現した。
(二体はキツイか・・・・一体ずつ、一撃でしとめないと・・・―――)
ふと來軌の脳裏に、來軌が認めていたあやかしの、あやかしらしからぬ言葉を思い出した。
―――お前強いなぁ。でも、一人じゃない方がもっと強くなれるぜ?
一人で放浪していた雷獣のはみ出し者を、受け入れたそいつは。
―――守るものがあれば、強くなれるんだって。なぁ、来いよ。
『守るもの』。來軌の守るものは、『仲間』だ。
そして來軌にそう教えた本人が、仲間を裏切ったことが許せない。
「・・・あの野郎がなんだってんだ畜生!!」
絶対的な力を認めていた。でも、居ない相手のことを言ってどうなるものでもない。
ただ、彼が居ないなら自分がしなければならないというだけだ。
シズクはハラハラとその様子を見ていた。何も出来ないが、出来ないことが歯がゆくてどうすればいいのか足踏みを繰り返す。
そんなシズクの背後から、風が吹いた。長い髪が浮かび上がり、シズクは振り返る。そして顔を輝かせた。
百足の毒液が、來軌を狙ってつぶてのように放たれる。それを素早く避けて長いはちまきの紐を舞わせ、來軌は地面を蹴って飛び上がった。
『馬鹿め、キサマの攻撃などきかん!』
あえて避けずに黒い頭上の殻を向けて構える百足を一瞥し、來軌は空中で槍を持ち直した。
「馬鹿はテメェだ。一つ覚えしか脳がねぇ」
ひゅっと音を立てて、槍の先を横に薙ぐ。軽く切っ先を薙いだだけの攻撃を百足は笑った。
『何のつもりだ、そんな攻撃が・・・・・・・・・・・ぁ?』
百足が首を傾げた途端、首筋から血飛沫が迸った。一拍間を開けて、百足の叫びが轟く。
『ギエェェェエエッ!!!』
のたうち回る百足に、侮蔑に満ちた視線を投げかけて來軌はもう一匹の百足の方を見た。
「自分の殻を過信しやがったな阿呆が。そいつが固いなら、隙間の軟らかい肉を断てばいいんだよ」
槍を回して付いた血を飛ばし、來軌は吐き捨てた。
「テメェらの最大の弱点はなぁ、頭が回らねぇことだ!」
斬られた百足は、大きな体で倒れた。舞う砂煙が來軌の視力を奪う。
『イヒヒ死んだンかよ。オレはそいつと同じ失敗はしねぇぞォ〜』
來軌は嫌悪を深くする。理由の一つとして、土蜘蛛は仲間に対する情など持たず、ただ妖狐属と敵対することに快感を求めて群れているからだ。
だから、例え仲間が死んだって泣いたりしない。さらにその死骸を踏みつけて、戦いを欲す。己の力を誇示することが何よりも好きなあやかしたち。
「・・・胸糞ワリィ! だから嫌いなんだ!」
『ほぅら、そんなアツクなったらあぶねぇぞぅ』
來軌が振り向くと、背後からしなる鞭のようなものが迫っていた。瞬時に判断し避けることを諦めて身構えたが、衝撃は來軌に届かなかった。
届く前に声が響いた。
「辻風(つじかぜ)の如く!」
ゴォォ!と風を切る音を立てて、突風が來軌に向かっていた鞭を吹き飛ばしたからだ。
「っ! お前ら・・・!」
その風圧から目を手で庇いながら言いかけた來軌の言葉を遮るように、風が発生したすぐ脇から宗方が鞭のもとに向かって身を低くして駆ける。その駆け方がどこか野生の獣じみていて、來軌は目を疑った。愚鈍な人間の動きと思えなかった。
回し蹴りの要領で高く跳躍して腰をひねり、宗方は力一杯目標物を蹴り飛ばした。百足の殻をも砕く蹴りだが、目標物は体重の軽さ故に吹き飛んだ。予想以上に軽く、衝撃を与えられた様子はない。
着地して宗方は手応えの薄さに舌打ちする。目標物はうねうねと触手のような手足を動かして、砂煙の中倒れている。植物の蔓のような触手が、先ほどの鞭のようなものだ。見る限り伸縮性があるらしい。百足の他に、いつの間にか敵が増えていたのだ。
静かに、構えを解かないままの宗方を見て來軌は問う。
「どうしてお前らが・・・」
「お前ら同じようなことばっか訊くんじゃねぇよ」
宗方は再び顔面に向かって勢いよく伸びてきた触手を顔面のすぐ横で掴むと、逆にそれを強く引っぱった。その力の強さに植物系のあやかしは高く宙に浮いた。
「・・・・理由なんか関係ねぇだろ」
宙に浮いたまま、植物系のあやかしは切り刻まれるように衝撃を受けて、紙風船のように破裂した。その残骸がハラハラと地面に落ちていく。
宗方の後ろで、八千夜が手を広げていた。
「風車(ふうしゃ)の如く・・・」
八千夜の呟きに顔を向け、來軌の驚きは続く。
背に生えた漆黒の翼。風になびく銀の髪、鋭く光る金の眼。少し変わった顔つきに、一瞬別人かと思えるほどの威圧感が生まれていた。
「おいカミナリ。いつまでも呆けてねぇで中入ってろ」
手に残った蔓を地面に叩き付けるように投げ捨て、宗方は來軌を横目で見た。來軌はそのあしらわれ方にカチンときて宗方をその垂れ目の瞳で睨む。
「何のつもりだテメェら」
「怪我人は引っ込んでろっつってんだ」
「ざけんな! オレが守らないと―――!」
必死な様子の來軌に、八千夜は薄く微笑んだ。妖狐属の考え方はどこか大将の春日と同等のようであり、苦笑を禁じ得なかったのだ。
「案ずるな、儂が手を貸そう」
片手で杖を素早く回して肩慣らしをし、八千夜の周りに起きる風が半ズボンの裾をバタバタと揺らす。多少大きくなった八千夜の身体だが、もともと線が細いので特に服に問題はない。だが靴はさすがに合わなくなったのか、現在裸足だ。上半身も裸だったが、肩胛骨から生えている翼が服に捕らわれることなく伸び伸びと羽ばたいていた。
金の瞳がスッと細められた。瞳孔が細くなる。
「―――金剛天狗の演舞を、とくと御覧あれ」
感覚を忘れていないか、千年前と同様身体は動くのか。そんな不安も、翼を羽ばたかせれば消え失せた。自分が求めていたのは風だと思うくらい、当然のこととして心地よかった。
八千夜の身体は、ひとつ羽ばたいた翼の空気抵抗を受けて浮いた。
魅縒り石が足らぬので完全とは言えなかったが、それでも充分だった。
『・・・・・テング・・・!?』
下から睨(ね)め付ける八千夜の余裕に満ちた瞳は、土蜘蛛の連中を確かに脅えさせた。突如現れた小さな天狗の、瞳の色を見たからだ。
『き、聞いてねぇえぇぇえ! 金剛天狗が居るなんて、オレ達は聞いてねぇぞぉお!』
バタバタと暴れ出した百足とその他のあやかしを見て、八千夜は身体を浮かせたまま静かに身をかがめた。杖を両手で持ち頭上に構える。
「散れ、太刀風(たちかぜ)の如く」
次の瞬間、八千夜は杖を振り下ろし、一瞬で土蜘蛛たちを越えた位置まで移動していた。
八千夜が背を向けているまま、百足たちは原型を失わせて切り傷を負った。空気の弾圧に裂かれて飛び散った土蜘蛛の体液が、まばらに辺りに降りそそぎ酸のように地面を焼く。腐臭を漂わせて倒れていく土蜘蛛たちと、ブンッと杖を振った八千夜を見て、來軌は体を震わせた。無意識に身体が震えた。
なんだこの圧倒的な力は。
(これが・・・)
同じように全てを見ていたシズクは、目を限界まで広げて尻餅をつく。腰が抜けた。叫びそうになった口を手で押さえる。
(金剛天狗の力・・・!?)
無表情で敵を斬り、圧倒的力で全てを無に返した。
あやかしは、死なない。消えたのだ。たった今、土蜘蛛に属するあやかしが、その存在を消した。
―――たった一人の、あやかしの手によって。
絶句している來軌に、八千夜は振り返って苦笑した。冷徹にあやかしを消した者と、同一とは思えないような哀しげな微笑みだった。
「・・・早く此処を離れた方がいい。怪我人を運ぼう」
『何も訊いてくれるな』、と。八千夜は一言も言っていないのに。
「ああ・・・・・」
來軌は何も言えずにただ頷いた。八千夜の力に驚愕していたからというのも理由の一つだが、直感が告げていた。訊いてはならないことなのだと。
動ける彼らが穴蔵に再び戻っていくのを、遠く離れた木々の隙間から、小さな蜘蛛がじっと見つめていた。
* * *
所変わって、梟クリニックでは。突如現れた不思議な客のことなど忘れてしまうくらい、騒動が続いていた。
「うわぁあああッ! ちょっ、ドクター!」
頼正が叫び声を上げて突如上がった黒煙から口と鼻を防いでいた。
「今度は何ですか! また失敗したでしょう!?」
研究室から続く黒煙に、頼正は部屋の外から叫んだ。部屋の中で最も煙を吸っているだろう人物は、飄々と慣れた様子で呟いた。
「・・・・・おかしいなァ。オレの計算では完璧のハズ・・・」
「完璧じゃないですから。煙出てますから!」
納得いかないと唸っているフクロウに動く様子が無いので、頼正は意を決して中に踏み込み、窓を開ける。煙を追い出しながら、問う。
「何ですかそれは」
「コレ? 良いものだよーん」
煤だらけの顔で眼鏡を中指で押し上げ、フクロウは目の高さでフラスコを振っている。中に半分ほど入っている液体が、ちゃぷんと音を立てて透明淡黄色から蛍光の透明赤色に変わっていく。
「・・・・・うん、たぶん出来た」
「何作ってるんですか」
布で風を送って煙をおおかた外に出す頼正に、フクロウはその液体を頼正に渡す。
「うん、飲んでみろ」
「・・・・・・実験台?」
「いやいやお前さんのために作ったモンだから」
頼正は胡散臭げに液体を振ってみる。ほのかに光る赤色の液体は、思っていたよりとろみがあった。見るからに怪しい。フクロウが自信満々に腰に両手を当て、自信作の薬品の保証を口にする。
「大丈夫、死ぬようなもの入ってないから! くすりくすり」
「・・・・・で、何の効果がある薬なんですか?」
はて。頼正の当然の質問にフクロウは考えるように顎に手を当てた。顎にも無精髭にも鼻の頭にも煤が付いている。
「うーん・・・一番近いのは何だろう・・・・・・・んー」
マイペースに考えるフクロウの言葉を待ちながら半眼で怪しげな色を放つフラスコを持っていた頼正は、答えを聞いてそれを落としかけた。
「・・・・・媚薬みたいなものかなぁ」
頼正は呆れた顔を作った。単語の意味くらい知っている。二十一年生きているのだから。
「いかがわしい物、作らないで下さい。捨てますよコレ」
つかつかと水場に向かっていく頼正を引き留めて、フクロウは弁解した。
「違う! 違うから頼正くん! 一番近いものが何かわからなかったんだよぉ」
「ドクターの中の語彙(ごい)で、それが一番近いってんならそれだけで捨てる理由に充分です!」
引き留めてくるフクロウを振り切って洗面所に流そうとする頼正。飲まされそうになった彼は静かに怒っている。
「違うよ〜 全身の感覚が鋭くなるだけだよー!」
フクロウの必死の弁護も、火に油だ。
「そんなもん作るなー!」
穏和な頼正に珍しい怒声に、フクロウは頼正の兄・宗方をみた。やはり兄弟だ。
「待って聞いて捨てるなー! 別に感度がどうとかじゃなくて、全身の感覚器官が即効性で鋭くなるんだよ、特許取れる可能性だってある新薬だぞ!?」
男二人での荒唐無稽な会話である。情けない。
「だ・か・ら!?」
「だから! お前の鋭い感覚がより凄くなるかもしれないお薬ですー!」
「それを僕に飲ませてどうしろと!?」
「どうってお前、何言ってんの。何言っちゃってんの! なんでわからないかなぁ、とりあえず落ち着いて聞きなさいよ」
フクロウも手を離して、頼正の手から新薬を奪って手元に戻す。いつ捨てられるかわからない危機にある我が子(=薬)の保険のためだ。
「えーっと、――怒るなよ――先ずは深呼吸してみろ」
二人で、吸って吐いて吸って吐いて。奇妙な図だ。二回深呼吸をした後、フクロウが顔の煤を拭う。
「・・・・まあ、言い方が悪かった。うん」
「そーですね。凄く不快でしたから」
嫌みの篭もった頼正の台詞にちょっと脅えながら、フクロウは先を続ける。
「俺が思ったのは、とりあえず。犬神ってのは、野性動物が根源だと思ったわけだよ」
相づちを打つ代わりに、頼正は頷く。
「で、だ。お前はオレ達より鼻が良いし耳が良い。そんで感覚も鋭いだろ?」
フクロウが言っていることが、空を見上げていたときに語った自分の勘だと気づき、控えめに訂正する。
「勘、ですよ」
「勘でも何でも。可能性がある限り追いかけるのが研究者だ。それで! 感覚がもっと鋭くなれば、お前はもっといろんな事がわかるんじゃないか、と」
自信満々で握り拳を高く突き上げて熱弁するフクロウ。頼正の反応は冷ややかだ。
「わかるのはいいんですけど・・・・・副作用は?」
「飲んだらわかるよ頼正。さあ飲め」
有無を言わせずに肩を叩いてフラスコを押しつけてきたフクロウを止めることが出来る者はきっとこの世にいない。頼正は長いため息をついて意を決する。もともと治療代を払うために居候している自分に拒否権はないのだ。
「・・・・信じていいんですね?」
「おう! 天才のオレに間違いなど無い!」
その軽さが信じがたい一番の理由だが、頼正は躊躇わないよう一気にフラスコに口を当てて傾けた。
――――甘い。
「イッキイッキ! ・・・・・どぉよ?」
「甘過ぎ・・・・」
頼正は胃凭れしそうなほど甘い液体をなんとか飲みきって、拳で口を拭った。
「味じゃなくてさ、どぉ? なんか聞こえたりしない?」
「なにかって言われても・・・・・」
頼正がそう呟いたときだった。半信半疑だったその新薬の効果を、身をもって体験するのは。
「!」
ばっと頼正は耳をふさぐ。そして心拍数が上がった自分の身体をもてあましながら、ゆっくりフクロウを見た。
「・・・・・・ありえない」
「なになに?」
フクロウの目は、驚いた頼正の反応でキラキラと輝いていた。それに怒りを感じるより頼正は、驚きを隠せずに呟いた。
「川の、せせらぎが聞こえる。遠い、どこかで」
あり得ない、街の真ん中だ。近く川はない。水のせせらぎを間違えるなんてことはしない。でもこの音は確かに水の流れる音だ。
「ひゃっほー! 成功? 成功だろ!?」
フクロウの喜ぶ声はいつも同様だが、頼正は迷惑そうに耳をふさいで体を離した。
「うわっ止めて下さいよ、うるさ――――」
がくっと頼正は顔と頭を隠すようにうずくまった。隠した顔から地の這うような声が聞こえる。
「・・・・・・・・・は、鼻・・・・・いたひ・・・・」
一通り喜び終わったフクロウは、顎に手を当てた。
「ふむ、効き過ぎるのも問題だな」
実験室である此処に満ちた微量の化学薬品の匂いに反応しているらしい頼正を見て、フクロウは冷静に状況判断を下した。
「頭がガンガンする・・・・・・」
くらくらとする頭を重く感じて眉間に手を当て、頼正は立ち上がって薄く目を開いた。急に五感が鋭くなったからか、違和感を通り越して気分が悪い。
ふ、と部屋を見回した頼正は感じた熱さを隠すように素早く目を手で押さえた。さっと目に手を当てた頼正を見て、メモを取っていたフクロウは声をかける。
「どうした頼正。気分悪いか?」
「・・・・・違う」
頼正は、鋭くなった耳で自分の鼓動を聞いていた。走った後のように早く脈打つ血の流れと共に、頼正は目の奥の熱に背には冷や汗が浮かぶ。
(赤くなってるかもしれない)
目の奥が熱くなるとき。それは犬神の血が騒いだときと同じだ。
フクロウに見えないように目を細く開けて、頼正は確かめるようにもう一度部屋を見た。そして、ある方向で目は止まる。
銀のトレー。ガーゼで隠れているがメスや鋏が微かに見えているそれは、手術用のものだ。
ドクンドクンと心臓は暴れるように鳴る。それは薬のせいかもしれないがうるさいほどだった。足が勝手にそちらに向かう。
「・・・・・頼正?」
「・・・・・・・・・」
銀のトレーの上に乗ったガーゼをそっと捲る。すると其処には。
爪ほどの大きさの、透明な球体。
「・・・・ッ!?」
頼正の瞳孔は細くなる。その眼はほのかに赤かった。
――――犬神が作り出す命の結晶。黒太郎のもつ、珠(たま)。
「なんで・・・!?」
どうしてコレが此処にあるんだ!?
蹌踉(よろ)けて頼正は一歩足を後ろに下げた。散らかったフクロウの研究室ですぐに物とぶつかり、近くの机に手を付くと上に乗っていた試験官立てが倒れて試験管が床に落ち、割れて中の液体が飛び散った。だがフクロウはそれを咎めるよりも頼正の心配をした。
「どうした頼正!?」
がたがたと震えるように、物にぶつかりながら後退る頼正。体の奥で暴れる感覚が黒太郎のせいか薬のせいかわからなくて焦りが高まる。駆け寄ろうとしたフクロウの気配を感じ、頼正は鋭い一声で止めた。
「来るなドクター!」
フクロウは動きを止める。見つめるだけしかできなくなったフクロウは、ただ立ちつくす。
煙を逃がすために開けていた窓から、ネロが飛び込んでフクロウの前の机に降り立った。威嚇するように頼正に対して毛を逆立てるが、頼正はそんなネロを後目に、珠をもう一度見つめる。
――――過去に一人、君と同じものを持っていた人は、それを自分の意志で操っていたよ?
「・・・!」
不思議な客の言葉が、思い出される。
何故知っているのか、とか。どういう意味か、なんて。関係ない。
ただ真実だというのなら。
(『操っていた』・・・・・)
――――それも『自分の意志』で。
頼正は手を握る。手に浮かんだ汗を握るようにきつく拳を作り、震えを消そうと努める。ここで恐れていたら、自分は何一つ変われていない。あの時犬神から顔を逸らして、自らを許せないと思った気持ちに偽りはなく、出来なかった自分が情けなかった。
(出来た人がいるというなら、僕にだって出来るハズなんだ!)
重い足をゆっくり進める。何が起こっているのか、理解できていないだろうフクロウは黙ったままそれらを見ている。事が無事終わったならまた質問攻めだろうなとか、観察ノートの頁がまた埋まるなとか、そんなことを考えてどこか少し気楽になる。だが口の端を引き締めた。
もう同じ過ちはしない。
兄のように、フクロウまでも傷つけるわけにはいかない。
『いつか帰ってこい。』
そう言った宗方のもとに、八千夜と春日が居るもとに、胸を張って笑って帰れるように。
頼正は手を伸ばす。口内で溜まった唾液の塊を呑み込む。
「・・・・・・・・・!」
指先が珠に触れた途端、背筋に冷たい電気のようなものが走った。それが恐怖だと頭が理解してしまう前に、頼正は奪うように珠を手に取った。
「あ・・・それ、宗方の手術の時に・・・!」
フクロウの呟きは、頼正には届いていない。ぎゅっと両手でそれを握って、胸の前で抱きしめる。
黒太郎の暴れや、恐怖は目に見えるものじゃない。ただそれらを知っている自分が生み出しているんだと、頼正は考える。
(従え、暴れるな! 僕の中に居るのなら、『共有』だと言うのなら、僕の意志にも従え!)
黒太郎は白刃のように従順ではない。だから、兄・宗方以上に犬神を従わせなければならない。
ぴりっとした痛みを、もはや恐れる心はない。覆す力を求める頼正に、そんなものは不要なのだ。
(僕に、従え・・・!)
これ以上ないくらい、拳を握る。力を入れすぎて白くなった拳には珠を握る感覚はない。
「・・・言うことを、聞けェ!」
――――ドクン。
頼正は、荒い息をつきながら、目線を宙に向ける。そしてゆっくり、自分の掌にむけた。広がっていく掌の中に、珠はなかった。
「はぁ、はぁ・・・っ」
珠は消えた。だが、自分の中にあるような気がして頼正は胸当たりの服を掴んだ。
聞こえていなかった音が戻ってくる。驚愕の瞳だったフクロウは、慌てて頼正に駆け寄った。
「大丈夫か!?」
安心させるように、笑いかけた。だが酷く情けない顔だっただろう。
「はい、なんとか」
「そうか・・・」
フクロウは肩をなで下ろした。
「犬神、なのか?」
「・・・・すいません。片付けます」
はぐらかすように頼正が笑いかけて立ち上がると、ネロが頼正の前にやってきた。そして睨み上げる。金色の瞳に射すくめられて、頼正の肩は跳ねた。
「まあ、言いたくねーならいいけどよォ・・・・」
がりがりと頭を掻くフクロウの歯切れの悪い言葉を聞きながら、頼正はネロを見つめた。ネロの瞳は何かを訴えるように細められた後、すっと逸らされる。そしてまた机の上を身軽に跳ねて外に出て行った。
その後ろ姿を見て頼正は、フクロウの方を向いた。そして、苦笑する。ネロに説教された気がする。そしてきっと自分が悪い、と頼正は確かに思った。
「―――ごめんなさい。一から説明します」
片付けるのは後でいいというフクロウの言葉に従い、長い話になると前置きして椅子に座った二人。窓の外で毛繕いをしながら、ネロもまた頼正の言葉を聞いていた。
長くなる頼正の話は夕方になるまで続き、ところどころ止まったり、戻ったりしながらなるべく丁寧に詳しく話していった。
犬神の歴史も、経緯も、その秘密も。頼正の知る限り全て。
それがフクロウに対する礼儀だから。
話し終わったときには、もう夜になっていた。話疲れた頼正が息を吐き、フクロウはお茶を沸かしに行く。暗くなって涼しい風が入ってくる窓に向けてフクロウが声をかけると、すぐにネロは戻ってきた。窓を閉めて、お茶を頼正に渡し、フクロウはとりあえず聞いた話の全体に対する感想を一言漏らした。
「・・・どうしてこうも、若いモンは苦労するよう出来てるのかねー」
煙草に火をつけ、フクロウは天井に向けて煙を吐いた。到底信じられないと、普通の人間なら言うだろう。普通――つまり大多数の人間はそう言うが、残念なことにフクロウは大多数意見に入ったことはない。
大人しく渇いた喉を潤すためにお茶を啜る頼正と、いつものように棚の上で自分の毛並みを整えているネロ。煙草を吹かす自分の姿が一番動作となっているあたり滑稽だ、とフクロウは思った。絵のような静かさが生まれていた。
再び自らの罪悪の念を突きつけられた頼正は、話し終わった後一言も喋ろうとしない。代わりにちびちびと茶を啜り、少し俯いている。フクロウは見慣れた天井の模様の線を数えながら、沈黙を生み出さないよう独り言を続けた。
「・・・・・運命っていうのかね。お前が、犬神としての宿命のもとに生まれたのは」
その言葉に反応して、ネロはフクロウを見た。しかしフクロウは天井を見つめていて気付くことはない。
「重てぇな、それは」
「・・・・・・・・」
頼正は、同意も否定もせずに茶を啜る。別にもう喉が渇いている訳じゃない。形になっているだけだ。
(僕よりも、きっと重い宿命をもつひとはたくさんいるよ)
黙ったまま、フクロウの言葉の続きを心の中で言う。なくなりかけたお茶の最後の方は、少し苦い。
(きっとあやかしの方が、苦い思いをしているよ・・・)
頼正は黙っていたが、実はまだ薬の効力は続いている。鋭くなった五感は、頼正の言う『勘』も鋭くしていた。そして胸騒ぎのような悲しみは、頼正の胸の内を灼いた。
(・・・・・・誰かが泣いている声がする)
そしてとてつもなく、哀しい。誰が泣いているのかわからないけれど、わからないからこそ、あやかしの慟哭だろうと思った。
何故かわからないけれど、頼正も涙が零れそうなくらいだった。