18
がさがさという足音は、掠れる木の葉のように春日の耳に届いていた。常に感じる視線の先から足音は大きくなる。そして沈黙の後、悪趣味な土蜘蛛が姿を現した。まだ舌が治っていない春日は、声に出さずに不快感だけを眉根を寄せることで表した。
【イヒヒ、妖狐属もすげぇ助っ人連れて来るじゃねェか・・・・・・あぁ?】
巨大毒蜘蛛のあやかしは、どこか怒っている様子で春日の顎を乱暴に掴み上げた。強制的に顔を上に向けさせられ、すぐ目の前に土蜘蛛の気配があった。
【・・・うざってェ、うざってェなァ。どっから呼んできたのか知らねぇが・・・・金剛天狗たぁ大物だなァ・・・クソがァッ!】
「!?」
目を丸くして、春日は土蜘蛛の複眼に満ちた怒りを読み取る。
(金剛天狗・・・!?)
夕楊が、八千夜に魅縒り石を渡してくれたんだ。
春日は心のどこかに嬉しさが浮かぶのを感じ、同時に強く願う。
(ならばもう帰れ八千夜。妖狐属の争いに巻き込まれるな! お前は孤高に立つ金剛天狗なのだから・・・!)
【・・・チッ。死にかけの妖狐属が・・・天狗から殺さねぇとな・・・・・】
ニタ、と土蜘蛛は笑う。カキンカキンと音を立てて、春日を捕らえていた壊死枷が砕けた。春日は崩れるように倒れる。その春日の髪を節ばった手で挟んで、土蜘蛛は顔を上げさせる。そして額の呪を呼び起こした。
春日の額に、青紫色の紋様が浮き出る。
【解放してやるよ、妖狐属の大将サン・・・・】
土蜘蛛の笑い声が春日の頭の中で響く。壊死枷で腐った手足が、ビキビキと血管を蠢かせ再生していく。はみ出た腸を適当にぶち込まれて、春日は小さく呻いた。
【・・・・さぁて、行ってらっしゃい。大将ォサン・・・・・イヒ、イヒヒヒ・・・!】
春日の額の紋様が、青白く光り始めた。
* * *
ネロは顔を上げた。梟クリニックの屋根の上で、昼寝をしていたネロはびりびりと揺れる大気を髭で感じて目を細めた。
音も立てずに庭に降り立つと、素早く家の中に入った。そして身を翻して台所へ駆け込む。都合の良いことにフクロウは研究室に篭もっている。ネロは一直線に、嫌いな者のところへ向かった。
「・・・わっ、ネロ!?」
突然目の前に現れたネロに、皿を洗っていた頼正は泡の付いたそれを落としそうになった。
ネロは不機嫌そうに頼正を一瞥し、尻尾を振った。当然それだけのジェスチャーで頼正に伝わるはずもない。
「? 珍しいね、僕の前に来るなんて」
勿論高いところから見下ろしていることには変わらないが。猫に話しかけるなんて自分でもおかしいと思いながら、頼正は皿もそのままに手の付いた泡を洗い流した。
しかしそれ以上の行動を取らないネロ。しばらく黙って首を傾げていた頼正が、もっともネロを理解するフクロウを呼びにいこうかと思ったとき、ネロの口が開いた。
「・・・お前、何も感じないのか」
頼正は――見ていたのに――少し高いその声の発信源がどこかわからずに固まった。ネロは苛立たしげに舌打ちし、再び尾を振った。するとその尾は二つに分かれた。
「玉藻様が力をお使いになっている。感じないのか?」
「ね、ねねね猫がぁ!」
「・・・・もういい、お前みたいな粗忽者(そこつもの)に問うた吾(われ)が間違ってた」
そのまま、ふいと顔を逸らして去ろうとするネロを慌てて頼正は捕まえた。ネロは仔猫なりに、爪と牙を剥いた。
「待って待って! なに、どういう事!?」
「気安く触るなっ」
毛を逆立てて、頼正の手にひっかき傷を作ったネロは、机の上に降りたって手を押さえている頼正を睨む。一方傷をこさえられた頼正は、涙目で手を引っ込めた。
「吾に触れても良いのは、フクロウと玉藻様だけだ。―――犬狼の血をもつ者なら気付いているかと思っただけで、知らないのなら、いい」
この際、猫の口から人語が軽やかに流れてくるのは置いておこう、と頼正は唾を飲みこんだ。
「何か、起きているの?」
「平和呆けをしている貴様に興味はない。野生に活きてこその王だ。廃れた血なんて知るか」
顔を逸らすネロを再び頼正は掴んだ。ネロは牙を剥く。
「懲りないらしいな、そんなに噛まれたいのか?」
ネロは、本気で噛みついた。頼正の手からは血が流れる。それでもネロを掴んだ頼正の手はゆるまなかった。真摯な目でネロを見つめる頼正の姿があった。
「何か起きているなら、教えて。誰かが泣いているのは、それが原因なの? 玉藻って誰?」
「・・・」
一瞬考えたネロは、最後に痛いように思いっきり噛みついて、口を離した。そのまま話すのは何となく、腹立たしかった。
口に付いた血を舐めながら、ネロは。
「それがわからないようなら、お前はそれまでということだ。―――さあ手を放せ」
「嫌だ」
「噛むぞ」
「いいよ別に。でも教えて欲しいんだ。お願い」
「これがものを請う態度か」
二又の尻尾を揺らして、ネロは頼正を見る。微笑みかけたり、真摯に頼んだり、本当にコロコロと表情が変わる生き物だと思った。
「もう蚊帳の外は嫌なんだ。僕だけ知らずに、何かが起きるのは。だからお願いします、僕にも関係があることなの?」
「・・・・関係、というか、玉藻様と仲が良かったではないか・・・」
憮然とした様子のまま、ネロはぶつぶつと呟くように言った。
「だから玉藻様って誰?」
「妖狐属の大将であらせられる。以前、ここにも来られただろう? 貴様の兄を持って」
「・・・・・春日さんのことかな?」
「御名をコロコロ変えられるからな、今や玉藻様の名も変わっているかも知れぬ。そうか春日様と名を変えられたのか」
髭を揺らしてそう言うネロに、頼正は続けて問う。
「春日さんが、何? 力を使ってるって」
「・・・本当に気付いていなかったのか。此処でないところで、今あやかしたちの争いが繰り広げられている。春日様は妖狐属の大将だ。春日様が力を奮うというなら、よほど熱戦のハズだ。しかし何故知らない? 天狗の力を持つ者も貴様の兄も、妖狐属に荷担しているのではないのか」
「え?」
頼正は、そこで行動に出た。取っておいたメモを持ってきて、診療所につけられた電話の受話器を取って素早くボタンを押す。新居という宗方たちが住むマンションの号室の電話番号を、訊いておいたのだ。
何度もコールがかかるが、電話に出ない。ねばって二十回ほど聞いていたが、ついに頼正は受話器を置いた。その後ろからネロが現れる。
「何も言わずか。勘の鈍る貴様など足手まといと思うたのだろう。良い判断だ」
「・・・・・・・・どこに、行ったの?」
「―――決まっている。戦地にだ」
俯いて、ぎりっと頼正は唇を噛んだ。そして、轟音が響く。ヒューズを飛ばして、受話器が頼正の手の中で粉々に砕けた。
「ばっ馬鹿者! 力みすぎだ!」
「・・・連れて行って。ください」
「なに?」
頼正は顔を上げた。その瞳は鋭かった。
「ちゃんと制御できるようになります。足手まといにもなりません。だから僕も連れて行って下さい」
「駄目だ」
「なぜ? 八千夜くんと兄ちゃんは行ってるんでしょう?」
「図に乗るなよ小僧。足手まといだと言うておる。犬神どころか体術もまともに使えぬ貴様など行ったところで何も出来ない。いいか、これは戦争なのだ。あやかし同士のな」
「だからこそ。僕だけここで、居るわけにはいかないよ」
真っ直ぐな頼正の瞳を、ネロもまた真っ直ぐ受け止める。決して動かぬ強固な意志を読み取り、ネロは呆れを含んだため息をついた。
「・・・怪力だけで、乗り越えられるほど甘い戦いではない。先走った吾が悪かった。―――詫びだけはいれておこう」
そのままくるりと背を向けたネロに向かって頼正は呟いた。
「・・・嫌なんだ、もう。誰かが泣いているのは」
ネロは振り返った。
「ずっと、泣き声が聞こえるんだ。そしてそれは僕にも伝わってくるから・・・・」
ネロは目を細めた。聞き流せない言葉だった。
「おい小僧」
仔猫のネロの高い声に振り向いて、頼正は首を傾げた。ネロは強い眼差しで頼正を見上げる。
「泣き声が、聞こえるとはどういう事だ? 他に何か、なかったか?」
「え・・・あ、ドクターに変な薬を飲まされたときに、確か」
声が聞こえていた。聞き間違いかと思っていたから、誰にも言わなかったけれど。
「『助けて』って・・・女の人の声で」
ネロは、確信した。思わず不敵にニヤリと笑ってしまう。
「・・・ナイスだ小僧! どんな屑にも秀でたところは何かしらあるものだな」
「く、クズって・・・。なに? それは秀でたことなの?」
「勿論だ。貴様は神託を受ける器を持つと言うことを意味している、稀な逸材だ」
「神託? えっと・・・よくわからないんだけど」
ネロは頼正と視線を合わせるために頼正の肩に登った。ネロから初めての接触だった。
頼正の肩の上で、ネロは正面を見つめて呟くように語り始めた。
「この世には全てを統べる神が居る。神は全てを見つめ、全てを知っている。その意志と良心と想いで判断して下界に手を下す。おもに危ういバランスの上で成り立つ世界を、修正するために」
「そのカミサマは、その女の人の声と関係があるって事? てゆうかカミサマって女の人?」
「神は神だ。だが、あやかしでもその声を聴けるものはほとんどいない。誇りに思え」
「へー」
(・・・同時に神、つまり“サ”の恩眷を受けた者は、代わりに胸が裂かれるほどの“別れ”が待つのだがな)
ネロは、何も言わずに頼正を見つめていた。あえて言う必要はないと思ったからだ。
「小僧、蚊帳の外は嫌だと言ったな?」
「――――え?」
「吾に任せておけ、気にくわなくとも神の寵愛を受ける身だ。その程度の力量で満足されては困る」
ネロの金の瞳は、八千夜の瞳のように一閃を放って鋭く輝いた。
「忙しくなるな」
呟いて肩から飛び降りると、歩き出したネロの後を頼正は首を傾げながら追いかけた。
* * *
夕楊は、再び幻術をかけた。酷使し続けるその身体には無理だと來軌が言っても首を横に振り続けた。
「自分の仕事だ。彼らを守りたい」
そう言って夕楊は、自ら守りの体制に入った。攻撃に転じるのは、來軌の役目だ。
シズクに包帯を巻かれながら、來軌は雷来葬槍を握る。
「力入れないでよ。巻きにくいわね」
べしっとあばら付近を叩かれて、來軌は小さく呻いた。
「いっ・・・! てめぇ、何しやがる・・・!」
「治療くらいしときなさいよ。折れてるのにほっとくなんて馬鹿じゃないの?」
丁寧に胸から腹にかけて包帯を巻いていくシズクは、呆れたように言った。派手に暴れていた來軌だったが、いざ診てみると折れたあばら付近が腫れて悪化していた。
夕楊が、申し訳なさそうに苦笑した。疲れている表情だった。
「そう言わないでやってください。來軌は良くやってくれています。・・・・・・恐らく治療する間も無かったのでしょう。・・・自分もそれに気付けず、すまないな」
「いえっ、夕楊さんの方が大変だし・・・・それにオレは平気ですから」
「どこが平気だって? まったくもー。・・・・夕楊さん、ごめんなさい。あたしが居るから余計に体力が・・・」
「いや、こちらとしても申し訳ない。巻き込んでしまって・・・」
來軌は雷の者だが、夕楊は火の者だ。水の者であるシズクとは相性が悪い。シズクも、人で言うなら常に水に浸かっているような体力の消耗を感じているが、すでに体力の限界である夕楊ほどではなかった。
妖狐属に無事な者はいなかった。怪我人の中、動けるのが夕楊と來軌を含めてぎりぎり四人いただけだ。後の二人は、妖狐属の中で言う子供達で、怪我人の治療のために動いている。動くと言っても、戦えるほどではなかった。折れた手を包帯で吊って足を引きずる化け猫の男の子と、顔半分を火傷でただれさせていて全身見えるところに包帯を巻いている化け狐の女の子だ。來軌もあばらを折っているし、夕楊は幻術の酷使で体力の低下が目立っていた。いつ倒れてもおかしくない。
「・・・・戦える状態じゃないな」
八千夜はそう判断を下した。離れたところで全体を見ていた八千夜と宗方は、周りの警戒をしている。宗方も乾いた煙草を吸いながら妖狐属の方を見た。
「野戦病院みたいになってんじゃねぇか。これでよく今まで無事だったもんだ」
離れたところにいた來軌は、シズクに支えられながら歩いてきた。シズクは夕楊から無茶をしすぎる來軌のお目付役を頼まれている。そのお目付役の言葉を來軌が聴くかどうかは別として。
「妖狐属がこれだけ追い込まれたのは初めてだ。夕楊さんがいなかったら、とっくに崩れてただろうな」
來軌は疲れたように一度顔を伏せた。だがすぐにしゃんと顔を上げる。シズクの支えも要らないとばかりに自分で立った。そして、肩に掛けていた学ランに似た服の袖を通した。
ボタンを留めている來軌に、八千夜が言った。
「それほどまでに、春日の存在は大きかったのか」
來軌の目が、八千夜を睨んだ。そして八千夜の服の前襟を掴み上げる。服と言っても、上半身裸の八千夜のために夕楊が仮に出した、一枚の布を肩に掛けているだけだ。
「あんな野郎の話なんざ出すんじゃねぇよ」
怒ったように來軌はそう言った。八千夜は表情を変えずに続ける。
「癒しの力は、他に誰も持たないのか」
「持ってたら、みんなが苦しんでるわけねぇだろ?!」
険悪な雰囲気になってきたその空気を、シズクが控えめに宥める。
「ちょっと! ・・・アンタ怪我してるんだから、叫ばないの」
黙って煙草を吸っていた宗方も八千夜を窘めた。
「いねぇ奴の話をしても、しょうがないだろう。・・・怪我人に無理させるな」
双方からそう言われ、來軌は舌打ちして手を離した。八千夜は広がった襟元を黙ったまま直して、去っていく來軌の後ろ姿を見ていた。シズクはおろおろと振り返りながら、とりあえず來軌に付いていく。
残った八千夜は、静かにため息をついた。宗方は黙って頭を掻いてみる。
「らしくねぇな。どうかしたか」
宗方こそ、らしくもなくそう問うので八千夜は思わず苦笑した。しかしすぐに顔を引き締める。
「・・・・・・納得出来ぬのだよ」
ばさっと一つ羽ばたいて、八千夜は翼に空気を送った。八千夜の記憶の中にある過去でも、同じように翼に空気を送っていた。
眼下を見下ろして、陽を見つめている八千夜の横には、春日が居た。無愛想だったろうに、なにかと気に掛けてはたびたび八千夜のもとを訪れていた春日は、聞いているのかいないのかわからない八千夜の態度に関係なく、いつも笑って話を聞かせた。
『この間、ウチに一人入った新人がいるんだけどよー。良い筋してんだよ、アイツは強くなるぜー。いつか俺の背後も任せられるかな。まだガキだけどな』
自分で持ち込んだ人間の食べ物(いなり寿司と言ったか?)を啄(ついば)みながら、そう楽しそうに語っていたはずだ。
八千夜は、風に髪を吹かれるままに呟いた。
「・・・春日が仲間を裏切るなど、信じられぬ」
八千夜の拳が、悔しそうにきつく握りしめられたのを宗方は見た。
* * *
「待ってよ、ねぇ!」
すたすたと早足で進む來軌を駆け足で追いかけるシズク。シズクの数歩前で來軌は、眉間にしわを寄せて苛々と歩いていた。
「八千夜くんだって、心配してくれてたんでしょ! そんなに怒らなくたって・・・」
突然振り返って、來軌はシズクの手を掴んだ。そして木に押しつける。
「知った口きくな。テメェに何がわかる!?」
來軌は怒鳴った。シズクは哀しそうな顔をした。ちょっと罪悪感を覚えたが、來軌は腕を放すと再び歩き始めた。
「ついてくるな」
言われなくても、シズクは動けなかった。來軌の言葉が衝撃的で、哀しかったからだ。
そのままシズクの前から姿を消そうとしていた來軌は、歩いて数歩で足を止めた。
目の前に、人影があった。
「――――・・・・・な」
なんで。
中国服を着ていた。チャイナ独特のスリットの入った服の端が、風に舞って大きく揺れていた。動くのに適した柔らかいズボンもカンフー靴も、見慣れたものだった。いつも自分の前を駆けていた大将の戦闘服と酷似していた。
筋の通った形良い鼻の上から顎にかけて顔の下半分と首には包帯が巻かれていた。しかし露出している青い目は真っ直ぐ來軌を捕らえていて、顔が隠れていてもその造形の美しさが伝わってきた。
陽に透ける金の髪が輝いて風に舞って、その隙間から三角の耳がピンと立っている。
深い海と空の狭間の色をした獣の瞳が、來軌を見下ろした。來軌は奥歯を噛み締めた。
「―――どうして・・・っ」
それに応えるように、美しい九つの尾がふわりと膨らんだ。そして、長く鋭い爪を携えた手が、來軌の方へとゆっくり挙げられた。
來軌は、自分のすぐ後ろにシズクが居ることに気付いた。しかし関係なく向けられた掌から炎の玉が生まれて力を凝縮させていく様を見て、思わず叫んだ。
「止めろ大将―!」
來軌はシズクに向かって駆けた。同時に、火の玉は來軌以上の速さで放たれた。
火の玉の勢いはぶつかった木をなぎ倒し、その風圧は地面すら焼いた。來軌はシズクのもとまで駆けるのに間に合わないと悟ると、雷来葬槍を掲げて凌ごうとした。
「ぅぐ・・・っ!!」
力のぶつかりが目に映った。バチバチと強大な円を描いてぶつかり合った力は、どう見ても大将、春日の力が勝っていた。軋みながらも雷来葬槍は何とか持ちこたえたが、その持ち手部は焼けこげ、來軌自身軽い火傷を負った。これだけでも、來軌は確信していた。力の差は明らかだと。春日は本気どころか、掌を向ける程度の動きしかしていないのだ。
攻撃の仕方は、本気のようだが。
「・・・ッ」
片膝を付いて春日を見上げた來軌。春日の目は、まったく心情の変化を見せずにただ來軌を見ていた。さすがの來軌も、悪寒のような気持ち悪い感覚を覚えた。
そして突然。來軌は目の前にいたはずの春日を、見失った。
「――がッ!!?」
顎の下から突然に衝撃を受け、思考回路が廻らなかった。ただ血の味を感じながら朦朧とする頭で視線を下げると、目の前に春日がいて長い足で下から突き上げるような蹴りを繰り出していた。
思考が停止していても、戦いに慣れた身体は自然と雷来葬槍を強く握った。しかし戦い慣れているのは、來軌よりも春日の方だった。
來軌が体制を整える間もなく、灼熱の炎が來軌の胸に叩き付けられた。
「――――――ッッ!!!」
ただの炎ならば、あやかしである來軌も多少耐えられる。しかし九尾の狐の狐火は、桁が違いすぎた。火傷どころか、皮膚を溶かすほどの高熱の炎だ。
このまますぐに振り払えなければ、後は死ぬしかない。しかし、炎は急に鎮火した。來軌は最初、春日が弱めたのかと思ったが、春日の視線が違うところにあるのを見て、炎が鎮火した理由を知った。
「・・・・・・・あたしは、水の者だから。空気中の水分を集めるくらい出来るわ」
かたかたと震えながら、シズクが水をまとって気丈な目を春日に向けていた。春日の視線はシズクへと移り、何の感情もない瞳が細められる。
火の者である春日は、水の者であるシズクに弱い。だが同等に、水の者であるシズクが、火の者である春日に弱いことも明白だった。戦闘に向いていないシズクは、震えながら、空気中の水分を濃縮させていた。そしてそれを、自分の周りで多少なりの防御に使うのではなく來軌の周りに集めた。
來軌は、火傷を負った自分の身体が冷えていくのを感じて、舌打ちした。
「・・・・っの馬鹿・・・・!」
相性の悪い水だといえど、力の差は歴然だったのに。水は火を消すが、火は水を蒸発させる。一介の河童と、仙狐・九尾の差は大きい。
シズクは、声を出さずに叫んだ。
「―――――――――――!!!!!」
春日の尾が、炎をまとってシズクのもとへと突き刺さった。
「シズク―――ッ!!!」
來軌の叫びをかき消すほど大きな炎は、黒い影を作って燃え上がる。九つの尾を持つ狐の影を作って立つ春日。春日はもう用はないとばかりに、視線を來軌へと返した。
未だ燃え上がる大地と、姿の見えないシズク。來軌は怒りに震えて怒鳴った。
「何してるのか、わかってんのか!?」
來軌の激昂を真っ正面から受け止めて、それでも春日は何も言わないどころか表情すら変えない。静かに掌を掲げて炎を生んだ。
「誇り高い妖狐属の大将が、土蜘蛛の手先に成り下がるのか!!? オレらを裏切って、攻撃して、それでもテメェは何も感じねぇのかッ!!!」
シズクの意識が途絶えたからか、來軌の周りにまとわりついていた水の縄が重力に従って破れるように液体を振りまいた。身体を水で濡らし、來軌は雷来葬槍を構えた。
ピリピリとした感覚に、來軌の怒りが留めなく溢れているのを知る。それを感じ取ったのか春日は距離を取った。
「―――オレはてめぇを許せねェエッ!!!」
雷獣が、雄叫びを上げた。雷来葬槍が光りを集め、エネルギー体が生まれる。
ビリビリとした感覚が、バチバチと音を立て始めるのは一瞬のことだった。
* *
ハッと八千夜と宗方は振り向く。巨大な雷光と、轟音が響き渡るその前兆。
「カミナリ・・・」
宗方が呟き、八千夜は即座に駆けだした。宗方も追う。
嫌な予感がする。大気の震えを感じ、八千夜は木の枝の上に跳びあがった。そのまま枝の上を飛び移る。地面を走る宗方よりも断然早い。手で掴んでいた布の合わせを即座に振り解き、羽を動かすのに邪魔な布を脱ぎ捨てる。
「待て八千夜!」
宗方の声は聞こえていたが、八千夜は速度をゆるめなかった。
(真意を問いたださないといけない。來軌が、完全に心を離す前に・・・!)
かつて春日は言っていたのだ。きっと妖狐属の誰よりも付き合いの長い八千夜は、春日の言葉を覚えていた。
『戦いは嫌いなんだ。・・・消えていくのが嫌だから、あやかし同士は相手を消す。それほど不毛なことはない』
『・・・・・あやかしは、馴れ合うものではないだろう』
『お。珍しいな、天狗。お前が喋るとは』
『貴様の話を聞くのに疲れた。放っておけばいつまでも喋っている』
『かかか、酒も入らんのにいつまでも話せるわけねぇだろ。お前が喋るのを待ってたんだよ』
『・・・・・・もしや、そのためだけにおぬしはひと月もここに居座ったのか』
『おう、ひと月話し続けてやっとお前の声聴けたぞ』
そんな気の長い話を実行するのは、何千という時を生きたあやかし独特のものだ。
『でもまぁ、戦いは嫌いだ。うん』
『何故? 九尾の狐ともあろう者が。あやかしはその存在を固執するために、戦いが好きな者の方が多いだろう。とくにお前は属の長を務めているのに』
『だからこそ。お前は群れることが嫌いだから、わからないかもな。でも俺ら獣は、もともと群れて生きるもんだ。仲間を作って、共に生き、それぞれがそれぞれのために大切に思うことで、俺たちは存在する』
『平和主義者め。それでよく大将などと言う大役が務まるな』
『いいもんさ。誰かと一緒ってのは』
八千夜は、何も感じなかった。そっぽを向いて、陽が落ちるのを見た。赤い空が、暗くなっていく。
『・・・わからぬな。儂には』
きっと永遠にわからない。陽が落ちきって、また昇って。明日が来ても、また何も感じない。永遠という日がいつ来るのかもわからない。ただ八千夜はここに在り続ける。
不変の在り方を今更変える術など持たない。
(・・・・・・そう思っていたのにな)
八千夜は、その時春日が苦笑した意味すらわからなかったのだ。
『まぁた黙(だんま)りか。―――次いつ来るかわからねーから、俺。お前も意味がわかるようになったら、俺のトコに来いよ』
(今なら、その意味がわかる)
八千夜は翼を広げ、木々の隙間を跳躍した。
* *
夕楊もまた、脅える子供達を見て、笑いかける余裕もない自分を忌々しく思いながら空を見上げた。そう遠くないところを中心に、黒雲が立ちこめ始めている。
「來軌・・・・・・・・」
―――大将・・・。
夕楊は俯いて悔しそうに歯噛みした。こんな暗雲を、夕楊は知っていた。來軌の感情があふれ出したとき、初対面の荒れていた來軌は常にこんな空気をまとっていた。はみ出し者と蔑まれ、荒んだ心のまま放浪していた來軌をこんなに立ち直らせたのは間違いなく春日だった。
独りぼっちのあやかしを集め、怪我を癒し、妖狐属という集団は、春日を中心に自然と出来た。皆が皆、春日の側にいたいと願い、群れることを嫌う者たちでさえ、「大将となら」と言ってその笑顔のもとに集まった。
彼は我らの標(しるし)であり、太陽のような存在だったのだ。
* *
來軌の身体は閃光で包まれた。白い光が視界を覆い尽くす。
―――――天高くから、一筋の青白い雷(いかずち)が轟き落ちた。
* *
「―――?」
頼正は急に崩れ始めた天候を見て、首を傾げた。
―――ざわざわ。
「どうした小僧」
フクロウは研究室に篭もった。一度篭もると食事の時間になっても、呼べど騒げど出てこない。ネロはその隙に頼正を連れてある場所に向かっていた。
頼正が立ち止まったので前を歩くネロが振り返った。頼正は、空を見て呟く。
「・・・『しくしくしく・・・』」
「?」
頼正は、空に渦巻く雲とそれ以外の虚空を見つめていた。
「『絶対不変の不浄をもって、わたしは全てを浄めよう。それを皆が望むなら、わたしはあえて苛酷である渦中に全てを墜とそう。全てを支える“柱”を起(た)てて、苦悩の渦を巻き起こそう・・・・・・』」
「・・・小僧、それはもしや」
ネロの言葉は、頼正に届いていなかった。空、というか真上を見上げて、頼正は全身の力を抜いて口だけを動かした。
「『しくしくしく。ああ哀しい哀しい、可哀想なわたし。誰か助けて、誰かたすけて・・・』」
「・・・・・・・・・」
そう言って、頼正の言葉は終わった。顎を逸らして空を見つめ、頼正は瞬きもせずに、目の端から一筋の涙を流した。
その様を見ていたネロもまた、頼正と同じように空を見上げて吐き捨てた。
「嘆き神め・・・! そうやって呪いの言葉を吐き続けるのか・・・」
フクロウの新薬の効果で、過敏に神託をその身に受けているのだろう。頼正は微動だにせず暗雲を見ていた。
(哀しい・・・・どうしてこんなに哀しいんだ・・・・?)
神託という自覚が薄い頼正は、目が離せない空から振り墜ちる悲しみが疑問だった。
心の中でネロはこの世で最も自分が嫌悪する、神の名を呼んだ。
(・・・『星桜之雪』・・・!)
大将である春日も嫌悪している、呪われた神。
「小僧! ぼやぼやするな、行くぞ」
「―――? あ、ハイ」
頼正は、頬に伝う涙を拳で拭った。そして前を駆け始めたネロの後を追いかけて走る。
そんな頼正達の背後から――それこそ神の涙のように――雨雲が訪れていた。