19
天から鉄槌が振り下ろされ、地面が焼けた。
静まりかえったその中で、焦げた地面に膝を突く音がやけに響いた。來軌は意識を失ったまま前のめりに倒れる。雷来葬槍も來軌の手を離れ、音を立てて落ちた。
雷(いかずち)をその身に落とした來軌は、全身のエネルギーを雷撃に変換させたために極度に体力を奪われた。焼けこげた服とはちまきの端は地面に倒れた來軌と同じくぴくりとも動かない。時折バチバチと、余韻のように静電気が來軌の身体の上で弾けた。
がらがらと崩れた木々の炭を押しのけて、光が漏れだした。中から、片膝を突いた春日が少々身体に煤をつけて姿を現した。最後は尾を使って辺りの塵を全てはじき飛ばし、倒れている來軌を見た。
もてる全ての力を酷使した雷獣の攻撃は、思いの外ダメージを喰った。春日は全身に残る痺れを振り払うように頭を振り、よろめく膝を押さえて立ち上がる。そしてゆっくりと來軌に近づいた。
倒れている來軌を見て、春日は口を動かした。包帯が巻かれているのでくぐもった声が出た。
「・・・・・強くなったな」
いつの間にか、こんなにも強く。
春日はそっと片膝を突いて、倒れている來軌の頭に手を伸ばした。いや、伸ばそうとした。
「―――――春日・・・ッ!!」
ばっ、と春日は身体を離す。
少し離れた木の上で、八千夜が春日を見ていた。手に持つ四尺ほどの杖を強く握り、春日の前に降り立った。
「八、千夜・・・」
「春日? 意識はあるのか? ならば話は早い、儂は・・・・・」
「―――死ネ・・・」
春日の手の内で、炎の球体が凝縮する。サッカーボールくらいの大きさとなったそれは、燃えながら八千夜に向かって飛んだ。
「! 止めろ、春日!」
風と杖を使って火の玉を防いだが衝撃を受けて後ろに飛ばされた八千夜は、翼と身体の瞬発力を使って地面に着地する。
八千夜は様子の違う春日に眉を寄せる。そして一歩足を進め、辺りの光景に目を向けた。
少し凹んだ地面と、盛り上がった土。焼けこげた大地と木々、そして來軌が倒れていた。來軌の意識は完全に途切れている。
「來軌・・・」
八千夜は、目の前の春日を見た。いつものヘラヘラした様子はない。殺伐とした空気をまとい、無感動に突っ立っている。怒りでも笑みでもない春日の顔を初めて見た。
「春日・・・いや、妖狐属の大将よ。土蜘蛛との争いの上で、おぬしが最愛の仲間と語った妖狐属を・・・裏切った――理由を儂は問いたい」
『裏切り』。本当にそうなのか。
信じられない八千夜は、その言葉を使って良いのか自問しながら問うた。だが春日は、躊躇せずに呟いた。
「話す必要はない。――しかし逆に問おう。孤高に生きる金剛天狗が、なぜ妖狐属に荷担する?」
八千夜は眉を下げた。胸に浮かんだ重さは、悲しみというのだろうか。
「・・・・・それを、おぬしが儂に訊くのか」
「暇(いとま)が惜しい。答えぬのなら、話は終いだ」
九つの尾がふわりと空気を含んで膨らむ。キラキラと輝きながら毛の波を奮わせると、尾はドリルのように八千夜を襲ってきた。
八千夜は迎え撃つよりも避けることを優先して翼を広げる。だがそれを知っていたかのように春日の炎が八千夜の翼に勢いよく叩き付けられた。
「ぐっ!!」
力の強さに翼がめきっと音を立てるのを体の中から聞いた八千夜。軋んだ翼に力を込めて火の玉をはじき返す。立て続けに向けられた炎の波を、八千夜は風を起こして吹き返した。
春日は自分に返ってきた炎を片手でかき消し、今度は両手に炎を生んだ。火とは本来、燃焼物があってこそ生まれる物だ。空気中に生まれる火の燃焼物の代わりは九尾の狐の妖力なので、春日の意志一つで生み出すのもかき消すのも容易い。
「風の者よ。“柱”の位を持つ天狗といえど、魅縒り石を失った貴様は絶対に俺には勝てない。時間の無駄だ」
大妖怪である九尾の狐と金剛天狗。お互いが臨戦態勢で睨み合っているとき、少し離れたところで來軌は瞼を揺らした。そしてゆっくり目を開ける。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・ち・・くしょォ・・・」
重い身体を、腕を使って起こそうとしている來軌のもとへ、宗方が到着した。
「カミナリ! 無事かお前」
「・・・・・・・にん、げん・・・! テメェ・・・! 天狗まで・・・」
顔を動かす來軌が起きようとするのを手伝って肩を貸してやりながら、宗方は八千夜を見た。その八千夜は、目の前にいる妖狐属の大将と睨み合っている。
(俺がどうこうできる問題じゃないようだな・・・・)
翼を広げて杖を構える天狗と、炎を両手にまとう九尾の狐。犬神を持つ自分でも、所詮は人間だ。手出しは出来ない。
そんな宗方の耳元に、風がかすめた。
『聞こえるか宗方。春日は儂が食い止める。そのうちに來軌を連れていけ、夕楊の術ならもうしばらく持つだろう』
風が運んできた八千夜の声。宗方は八千夜の方を見たが、八千夜は春日を睨んだままだった。だが宗方は頷いて、來軌を肩に担ぎ上げた。
「・・・オイ! 放せ・・・っ、オレは大将に用があんだよ・・・ッ!」
「ッ!? 暴れンじゃねぇコラ!」
宗方の肩の上で身を乗り出して、來軌は叫んだ。
「たい・・・っ・・・春日ァ―――ッ!!! オレは消えてねぇ、だからまだ終わってねぇ! 少なくともテメェに一撃入れねぇと、――オレはシズクに、謝ることも出来ねぇんだッ!!」
宗方は來軌の言葉に眉を寄せた。八千夜も肩を揺らした。
「シズク・・・!? あいつどうした」
宗方の問いに、來軌は拳を握りしめて言った。
「・・・・・・ッ、オレ庇って、あの野郎の炎に飲まれた・・・! 同じ相性の者だって九尾の狐の炎には耐えられない・・・・水の者のアイツが、形なんて残るわけねぇじゃねぇか!! 畜生!」
春日は無関心な瞳を叫び続ける來軌に向けた。チラリと逸れた視線に、八千夜が先に気付いて叫んだ。
「逃げろ二人とも! こやつは・・・ッ!」
「・・・逃がすものか」
くぐもった声が、春日の口から漏れた。
そして炎ではなく白い糸が、八卦を描くように四方八方から八千夜と宗方と來軌を捕らえて張り巡らされる。粘着性のあるその糸に、宗方が最も早く悟った。
「・・・! 蜘蛛の糸・・・・・ッ!?」
【クケケ、そのとぉーり・・・・】
春日の足下の地面が、ぼこぼこと盛り上がってきた。そして土の中から、巨大な蜘蛛が姿を現す。
【妖狐属の大将を餌に巣を張り巡らせてたのさ・・・・見事に馬鹿が引っかかったなァ・・・イヒヒ!】
妖狐属の大将が囮。その事実に愕然としながら、八千夜は翼を動かそうと力を込める。だがその途端、さらにきつく糸が八千夜にまとわりついた。
【―――、けけ。無駄さァ・・・・・金剛天狗は要注意って言われてるからナァ】
突如現れた巨大な蜘蛛――土蜘蛛――は、かさかさと音を立てて春日に近づく。表情を変えない春日の肩に足をかけ、鋏(はさみ)を持った口を春日の耳元に近づける。おぞましい光景だった。
【良くやったぜェ、大将ォ。見事なもんだ】
「・・・・・・・・」
春日は何も言わずに無表情を決め込む。土蜘蛛は楽しそうにけたけた笑うと、次の指示を出した。
【皆殺し、だからナァ。この近くにまだ群れで居るはずだから、生け捕ってこい。数匹は殺しても良いけど、みんなウズウズしてるからナァ、手柄上げた奴にくれてやる分は残しておけよ・・・・】
春日はその場に背を向け、静かに歩き始めた。來軌がその背に向けて叫ぼうとする前に、蜘蛛の糸が來軌の口元に巻き付いて声を塞ぐ。
【天狗とォ、雷獣と・・・・・ニンゲン・・・? オイオイ、あやかし以外が混ざってるじゃネェか・・・・・こりゃイイもん見つけたゼ】
ニマァと笑うと、土蜘蛛は宗方の糸を引き寄せた。引っぱられた宗方は、土蜘蛛の前に背中から倒れ込む。糸は繭のように腕の自由を奪っている。宗方の怪力でも到底破ることは出来ない。粘着力を誇る蜘蛛の糸は、そう易々とは解けない。どんどん固く絡みついてくる。
【あやかしは不味くて食えネェけど、ニンゲンなら食えるからナァ・・・・】
カシュカシュッと口の刃を動かして、土蜘蛛は不気味に宗方の周りを回る。不快感を覚えながら、宗方は相手の動きを見ていた。倒れた宗方の頭上で節ばった八本の足を止めると、土蜘蛛は自らの長く黒い爪を掲げた。
【・・・頭を潰しときゃあ、他の奴にはバレねぇからな。―――アバヨ】
真上から振り下ろされた爪を、宗方は全力で顔を逸らして避けた。しかし避けきれずに頬をかすめ、血が飛んだ。
「・・・宗方!」
「・・・・・ン――っ!?」
八千夜は思わず叫ぶ。口をふさがれた來軌は引きつった音を喉から出せずに終わった。その声に気を良くし、土蜘蛛は笑った。
【ケケ、死ぬときがちょっと延びただけだゼ】
どくどくと頬から血を流す宗方を見て、土蜘蛛は思ったことを口にした。避けきれなかったニンゲンの小さな努力が可愛らしく思え、優位に立った者の笑みを浮かべた。
『避けきれなかった』、と。誰もが思っただろう。
宗方は冷静に、頭上の蜘蛛に問うた。
「・・・・・なぁ、お前実は結構下っ端だろ」
【は?】
「『金剛天狗は要注意』って・・・・・誰に言われたんだ?」
【・・・・・・・生意気なニンゲンだな、オマエ】
一瞬憮然とした声を出したが、すぐに土蜘蛛はケタケタと笑い出す。
【・・・ハッ、狐の大将が忠実に仕事をこなしてくるまで生きて居られないんだ。ちょっとは怯えてみろヨ。気が変わるかもしれねぇぜ、イヒヒヒヒヒ!】
調子に乗った土蜘蛛は、勝手にべらべらしゃべり出す。
【妖狐属はオレらをバカにすっけどなぁ、ホントにバカなのは妖狐属だぜェ? 大将のクセに、下っ端のために傀儡(かいらい)になったんだからなァ】
「・・・――――なんだと?」
【クケケケケ。額(ぬか)に描かれた紋様・・・・ありゃあオレたち土蜘蛛が使う『呪(じゅ)』の一つさぁ。本当は『大将の腕』のどちらかに掛けようしてたんだけどなぁ】
『大将の腕』と呼ばれるのは、右腕の來軌か、左腕の夕楊だ。どちらも妖狐属の大将・春日の中堅として重要な役に就いている。
【・・・あのバカな大将はよォ。寿命を縮める『呪』の力が跳ね返せないことに気付いて、自分から掛かりにきたのさァ! ほんとバカな大将だゼ、自分の仲間を自分で殺すんだからな―――! しばらくの間眠りにつくことで『呪』が廻るのを防いでいたみたいだが、此処少しの間で妖力を使ったから、効きが早まったのさ!】
「・・・・・・・」
ここ数日で、春日が妖力を使ったのは。怪我をした宗方と倉木を町医者に運ぶために妖狐に戻ったことだ。その時に浮かんだ紋様を、八千夜は見ていたのに。気付けなかった自分の無知さを八千夜は悔やんだ。
(・・・・大将・・・・・)
來軌は、卑劣な土蜘蛛と愚かな自分に対する怒りと大将に守られているという微かな悔しさとで震える拳を蜘蛛の糸に絡まれたままさらに強く握る。
宗方は自分の真上で下品に笑い続ける逆光の土蜘蛛を見上げ、冷ややかに言った。
「それだけわかれば十分。―――どけ、汚らわしい」
【イヒヒ、オマエはオレに食べられるのさぁ】
「・・・・・・・やはり馬鹿はお前ら土蜘蛛だ。俺が、本当に避けられなかったと思ってるのか」
【強がりは、もういいんだよニンゲン】
宗方は、自分の目が熱を帯びていくことを感じた。この感覚の時、必ず目の色に変化が現れる。頬から出る血を地面にこすりつけ、宗方は頬を血の付いた地面に乗せた。
「下っ端に興味はねぇんだよ、どけ雑魚」
【・・・バカにしやがってェ〜ッ!】
再び土蜘蛛が爪を振りかぶったとき、宗方は小さく呟くように言った。
「―――参れ、白刃(しらは)―――!」
宗方の頬から流れた血が、白く光ったかと思う間もなく。
【・・・・・・・・ッ!!?】
宗方の血から召喚された白い犬神が、土蜘蛛の頭を噛み砕いていた。
どんなに少量でも、宗方の血の門と喚び声さえそろえば白刃は出現する。飛びかかるように現れた白刃は、そのまま土蜘蛛を地面に叩き伏せた。不意なる致命傷を喰らった土蜘蛛は、ピクピクと紫色の血を吐きながら悶え、もはや絶命していた。
白刃は身を翻すと、宗方に巻き付いた蜘蛛の糸を噛み千切る。ゆるみが出来て宗方が手で残りを引きちぎると、白刃は宗方の頬にまだ流れる血を舐め取った。こそばゆそうに片目を閉じながら、宗方はとりあえず白刃の首もとを撫でてやった。
「良くやった。――傷は癒えたか?」
深く頷く白き犬神。それと戯れる宗方を見て、來軌は目を開いた。土蜘蛛が死んで戒めの力が弱まった糸を自ら裁ち切り、來軌は呟いた。
「犬神・・・? なんつーもん隠してやがったんだアイツ・・・・・」
名の通り神の眷属である犬神は、普通人間と馴れ合ったりしない。驚愕を隠せない來軌に、宗方が振り向いた。
「それよりも、急いだ方がいい。春日を追うぞ」
翼に付いた糸も全て払い終わった八千夜と來軌は、ほとんど同時に頷いた。
* * *
夕楊は、自分の限界を知っていた。
(もう幾ばくも持つまい・・・・・・ッ!)
早々に手を打つ必要がある。夕楊は、何とか動ける二人の子供を呼んで指示を出した。
「自分が出来うる限りの力を使って、ここに幻術を残そう。お前達は声を立てずに、彼らの看病を引き続き頼む」
こっくり頷く子供達の顔が不安そうだったので、夕楊は笑いかけて両方の頭に手を載せる。
「大丈夫だ。だが声までは隠せないから、静かに居るんだぞ」
「・・・・夕楊、さまぁ」
ふらりと立ち上がった夕楊がまとう長布の端を、女の子が掴んだ。
「大将は帰ってきますよね? 夕楊さまも來軌さまも、帰ってきますよね?」
「・・・・・勿論だ。だが自分は、來軌を探しに行く。知っての通りウチの斬り込み隊長は」
「「根が真っ直ぐで向こう見ず、跳ねっ返りの直情型で、限度を知らない」」
「そして、誰より優しく傷つきやすい」
子供達が声を揃えた後、夕楊が続けた。そして三人でくすりと笑う。
「大将が、よく言ってたものね」
「うん、そのたび隊長は怒ってた」
「照れてたのよ」
「・・・・さぁさ二人とも。お前達に此処を任せる。自分は此処を離れるが、大丈夫だな?」
「「はい!」」
夕楊は体力が著しく奪われていることを隠しながら、その場を離れて駆けだした。
(血の臭いが充満していたが・・・・・)
間違えるはずがない。あれは春日の匂いだ。
夕楊は確信を持って妖狐属の集団から離れていった。何が起きても、群れを危険に晒すわけにはいかない。何を優先しても、群れだけは守らなければ。
そして哀しいことに、夕楊にはわかっていた。春日が来ると言うことが、群れの危機だと言うことを。
そして案の定、夕楊は走った先に一陣の輝きを見つける。
「春日様・・・・っ」
向けられた瞳は、何の感情も浮かべていないままかと思われたが。視線の先に夕楊を捉えた途端、春日の目元は笑うように弧を描いた。その両手には炎が立ち上る。
「お答え下さい・・・春日様は本当に、我々を見限ってしまわれたのですか?」
「・・・・・・・・」
「本当に・・・・・・・土蜘蛛に付くのですか。あれほど戦を嫌われた貴方が、戦いを貪欲に求める土蜘蛛へ・・・?」
夕楊は哀しげに呟き、一歩前に出た。一言も喋らない春日に、夕楊は語りかける。
「自分も、ほかの仲間達も。貴方を疑いたくありません・・・・お答え下さい・・・! 春日様!」
「・・・・・――――。」
声は聞こえない。だが包帯が巻かれた口元が動いた。その口の動きを見て、夕楊は自分の目を疑った。
「――――――え・・・・?」
見間違いだろうか。『やれ』と、動いた気がした。
春日の手から、炎が夕楊に向かって飛びかかる。夕楊は懐に両手を交差して差し込み、それぞれの指の間に白い短刀を挟んでもつ。両手で八本持った短刀を薙いで炎をかき消し、夕楊はそれを春日に投げつけた。
投げるとすぐに夕楊は、再び裾の中から取りだした白く簡素な作りのその短刀を広げて持つ。夕楊は幻術と暗器の使い手だ。隠し武器を体中に仕込んでいる。
春日が尾で一投目を全て地面に叩き付けたところへ、二投目が各々の急所を的確に捉えて飛んだ。二段構えの攻撃に、春日は最後の一本を腕に掠めた。
そこで夕楊は眉根を寄せた。
「夕楊さん!」
來軌の声と共に、容赦ない雷撃が春日の足下で弾けた。駆けてくる來軌と宗方を見て、夕楊は少し安堵の色を浮かべた。
「無事だったか夕楊」
春日のさらに向こうから、八千夜の声がする。春日の背後にある木の上から、八千夜が軽やかに降り立った。春日を囲むように集まった四人。春日の表情は、変わらない。
「・・・・・・・・どういう事だ?」
宗方の呟きに、夕楊が視線をよこした。春日に集められた三人の視線は、確かに腑に落ちないものだった。
「土蜘蛛は死んだのに、なぜ春日の『呪』は解けない?」
「・・・・・・・・・―――!!?」
『呪』。その単語を聞いて、夕楊は一気に焦りの顔つきとなった。今までの違和感と疑問、全てが繋がった。夕楊は、じりじりと輪を縮めていた八千夜、宗方、來軌に向かって叫んだ。
「駄目だ! 近づくなッ」
だがそれも少し遅かった。甘い匂いが辺りを立ち込め、四人全員が全身の自由を奪われた。
「なっ!?」
何故突然? その理由はすぐに明らかになった。キラ、と透明な糸が景色と同化して張り巡らされている。土蜘蛛よりも細く儚い糸だが、何故気付かなかったのかと唖然とするほどの量の糸が身体に絡まっていた。見るうちにもそれはどんどん太くなっていく。
引きちぎろうにも身体の自由が利かない。ギギギ、と藻掻きながら八千夜は力を込める。
それを笑うように、甲高く甘ったるい声が聞こえた。
【無駄よォ・・・全身の自由が利かないであろ?】
「!」
八千夜の目の前に、一匹の蜘蛛が宙に浮いていた。正確には目の前で見えない糸に乗っていた。
掌に乗るほどの大きさの蜘蛛。背に細かく美しい紋様を描いた蜘蛛が糸を吐き出して辺りを巡っていた。滑るように八千夜と來軌と宗方と夕楊の前を通って、春日の肩に乗ったその蜘蛛は、春日にも糸を絡め始めた。
頭が痛いほど辺りに漂う甘い香りに、宗方は眩暈を覚えた。そして頭の端で、白刃を異界に帰したことを後悔した。
【ご苦労だったナ・・・ウフフ、永かった。もう貴様は要らぬぞ妖狐属の大将よ】
ハッと春日は膝の力をなくしたように崩れた。だが膝が地面に付く前に糸が身体を絡める。いつの間にか春日の口の周りに在った包帯は破れて辺りに散っていた。
【騙し合いは、わらわも得意・・・存じあげ候?】
―――貴様は良い隠れ蓑だった。
春日は苦しそうに顔を上げて、その美しい蜘蛛の方を見た。
「女郎蜘蛛・・・・!」
【ご機嫌いかガ? わらわは最高じゃ・・・もうじき、わらわの子が生まれる・・・・・】
女郎蜘蛛は甘ったるくそう囁くと、嬉しそうに笑い始めた。春日は口の端に流れる血を嘗め取り、忌々しげに吐き捨てた。
【おやァ? 舌はまだ癒えておらぬか? ・・・・土蜘蛛め、相当深く傷つけおったなァ・・・ははは】
傷というより、裂いただろうが。
春日は辺りに漂う甘ったるい匂いに身体が動かないことを知ると、目の前の女郎蜘蛛を睨んだ。そして周りの気配に気付く。
「! なんだお前らも捕まってンのかよ」
周りに夕楊、來軌、八千夜、宗方が居ることに気付き、春日は呆れたように言った。その言い方が、どこか懐かしく。春日が操られていないことを知る。
「いっや〜迷惑かけたなぁ」
そう言う春日に、周りの反応は冷たかった。
「全くだ。何を考えているこの馬鹿者」
「死ねよ。十回ほど」
「心配を掛けないで頂きたい」
「後で覚えてろよテメー! ぶった切るからなァッ!」
順に八千夜、宗方、夕楊、來軌の言葉だ。甘い匂いの苛立ちもあり、安堵したことなど誰も微塵も出さない。感動の再開を求めていたわけではないがあまりの冷ややかな応えに春日はがくっと肩を落とした。
【クク・・・冷たいのォ。許してやれ、そやつの意志は無かったのだから。・・・もっとも、意識は微かにあったみたいだけれど】
くくく、と女のような声で笑う蜘蛛を見て、春日は顔を引き締める。そして細い目をさらに吊り上げた。
【良い気持ちだったわ・・・わらわが思わず微睡(まどろ)みそうなくらい・・・貴様のおかげで準備は全て整った】
「――春日様。どういう事ですか?」
「・・・こいつが俺の中に入り込んでいた女郎蜘蛛。敵対する土蜘蛛の、本当の大将だ」
「!?」
今までに襲ってきた土蜘蛛たちとは異質の、普通の蜘蛛の姿形をしているこれが、『土蜘蛛』の大将だという事実がにわかに信じられず、夕楊と來軌は美しい紋様を持った蜘蛛を見た。その腹は、丸く膨れている。
【そもそも、おぬしらはおかしいと思わぬか? 何故あやかしは姿を消し、ニンゲンが世界を牛耳っておるのだ? 何故あやかしはそれを受け入れ姿を消していく? わらわは真(まこと)にそれが解せない・・・・・】
「それは違うぞ女郎蜘蛛! 人間は進化を続ける生き物だ。だがあやかしは不変の象徴、変わろうとするお前らが間違っているんだよ」
【ダマレ! 「此処にありたい」と願うあやかしはわらわだけではないわ!】
「そうだとしても、妖狐属を巻き込んだことは許さねぇ! 消えたくなくて足掻くなら、迷惑掛けずにテメェらだけで勝手にやってろ!」
【・・・ほんに、意見を交えてばかりだな】
「一度でも、和解したことがあったか?」
【フフ・・・・記憶に無いな。だが貴様の中は、わらわに適していた】
女郎蜘蛛は語り始めた。甘い匂いはどんどん濃くなっていく。
【美しく、強い『殻』。誰も手が出せぬ妖狐の大将を妨げる者などそうは居ない・・・。わらわが眠り、腹の中で子を育てるためにはもっとも相応しかった。――最も安全で、最も気付かれなんだ・・・。土蜘蛛の『呪』で隠しておけば、後は忠実な傀儡かつ殻の完成というわけだ。高貴なわらわは、下賤の輩に直接手を下したりせぬからな。しかし貴様の精神を屈させるのには日がかかったぞ】
散々切り裂かれ、手足を砕き、土蜘蛛がねちねちと苛め続けた理由はすべて女郎蜘蛛とその子供のためだったらしい。今は傀儡として傷は大まかに癒されているが、春日の痛みと怒りは薄れていない。
夕楊は、自分の放った短刀の一本が当たった理由が、女郎蜘蛛が完全に春日を操れていなかったからだと知る。そして、何故その時に気付けなかったのかと苛立ちを覚えた。
「・・・フン、手の込んだことを。蜘蛛属にしては周到だな」
【そちら妖狐属の化かし合いだけは、わらわも認めておるのでな。手を抜けば、出し抜かれおるわ】
―――だがもう、わらわの勝ちだ。
【ホーホホホホホ! 愉快なり愉快なり! 特別にそちらにはわらわの子供達を最初に拝ませてやろうぞ、その後は栄養分となってもらうがな! ハハハハハ!】
粘々とした透明な糸が身体を包んでいるこの状態。土蜘蛛の糸と違い、強固さに欠けるこの糸を引きちぎるのは容易そうだが、身体は痺れていて動かない。
震えながらも広げようとしている八千夜の翼に気付いて、女郎蜘蛛はさらに糸を紡ぐ。―――今度は餌を捕らえるためではなく、子供達を産み落とすために。
【無駄よ無駄。わらわの魅惑(フェロモン)には、男の自由を奪う効果があるのだ。―――雌蜘蛛とは元より、子をつくるために伴侶となった雄を喰らうものよ。わらわは世にいる全ての男の動きを抑えることに長けている!】
宗方も力を込めるが、確かに身体は小刻みに震える程度で動かない。白刃を出すには血の結界がないし、何よりこの吐きそうなほど甘い匂いに頭痛が激しくなっていく。犬神の血を引き五感が優れることが逆に仇となった。恐らくそれは、獣である妖狐属や天狗の八千夜も同じだろうが。
「・・・・・ッ、しまった」
八千夜の声を聞き、女郎蜘蛛は高らかに笑った。
【わらわと子達の、血となり肉となれ! その後は近くに残っている妖狐属だ、それで、わらわの勝ちだ! アハハハ―――ッ!】
「――さて」
この場にいた妖狐属の三人は、甘ったるい匂いと女郎蜘蛛の言葉を聞いたときから、その顔に自信を取り戻していた。静かに口の端が上げられている。苦しそうに汗を掻いても、自信に満ちていた。春日の言葉が女郎蜘蛛に向け放たれる。
「そいつはどうかな?」
【何―――?】
バッ、と音を立てるように夕楊が組んでいた腕を広げた。指の隙間に握っていた白い短刀の束が、蜘蛛の糸を簡単に断ち切る。弾けるように解かれた糸の残骸が、舞うように降り注いだ。夕楊の残された右目は、臆することなく女郎蜘蛛を捉えた。
【馬鹿な! 何故お前にはわらわの魅惑(フェロモン)が効かない!?】
慌てる女郎蜘蛛の声に、夕楊は不敵に笑った。赤狐は、野を駆けるように身を低くして女郎蜘蛛に向かって駆ける。その瞳は獲物を狩る狐の目だった。女郎蜘蛛が張り巡らせた糸を避けて、身軽に宙を跳ぶ。
「残念だったな。自分は、雌(メス)だ」
【なっ・・・・!?】
「この姿は戦いやすいように変化(へんげ)したまでのこと。妖狐の十八番、『変化』を知らぬとは言わせん」
夕楊の短刀が真っ直ぐ軌道を描いて飛び、驚愕する女郎蜘蛛の腹に深々と突き刺さった。
【ギィアアアァァァァァア!! ア、アア――ッ!】
「狐狸(こり)の変化を侮った傲り、地獄で悔いろ!」
短刀の二本目が、女郎蜘蛛の頭に刺さり二つに裂いた。
女郎蜘蛛からその笑みが失われた途端薄くなったフェロモン。春日と來軌は自らの力で糸を焼き切り、それぞれ尾と雷来葬槍を女郎蜘蛛に向けた。お互いの位置が女郎蜘蛛を挟んでちょうど向かい側だったので、その図は一直線の極図を描く。
ほぼ同時に、炎と電撃が夕楊の短刀ごと女郎蜘蛛の身体を包んだ。
【子がっ、わらわの子達がァァア!!】
女郎蜘蛛の断末魔は、炎と雷撃の中に消える。自身も燃えながら先に産み落とされても居ない子供達を案ずる姿は、『母』共通のものだろう。裂かれ、灰燼すら残らない熱に焼かれ、女郎蜘蛛は悶えた。周囲の地面や蜘蛛の糸ごと蒸発させていくその図に、女郎蜘蛛の影は小さくなっていく。異臭を感じたのも一瞬で、匂いすら焼いていく。これがあやかしの炎かと、宗方は膨大な力の集中に息を呑んだ。
二人が尾と雷来葬槍をその場で薙いだ時、何事もなかったように炎と雷撃は煙と共に掻き消えた。
「・・・すっげ」
思わず宗方が呟いたのも仕方がないだろう。燻る其処に、もはや女郎蜘蛛の原型がなかった。ただ焼けこげた地面と溶けた蜘蛛の糸。それだけの力が一気に集中していた。燃やすなんて表現では足りない。『消滅』した。
妖狐属の実力を目の前にし、八千夜と宗方は声に出さずとも感服の意を示した。
片足で崩れた岩を踏みつけた春日の姿は、その頂点に立つ大将の姿だった。
「化かし合いで、蜘蛛が妖狐属に勝てるかよ」
にやっと笑った春日と、後ろに控える夕楊と來軌。八千夜と宗方も糸から脱出すると、夕楊を見た。赤茶の髪と褐色の瞳――片方はまだ痛々しい傷跡が残っている、そして疲労していてもどこか凛々しいその姿は、男のものでありながら美しい。その美しさは、妖狐としての特色だと思っていたが、物腰や言葉の端には女性的な物も混ざっていたのだろう。
「しかし儂らも騙されたな」
夕楊は控えめに笑って、目元をゆるめた。
「かたじけない。しかし自分はこの姿の方が多いのでお気になされるな。参戦を誓った時にすでに捨てたことです」
戦いに身を投じた者の笑みとしては、真っ直ぐで気高かった。
その斜め後ろで、來軌は小さく呟いた。
「・・・・勿体ないっすよ、折角綺麗なのに」
「ははは、口説いているのか來軌?」
「二百年早ぇよ、マセ餓鬼」
夕楊と春日にそう言われ、來軌は舌打ちしてそっぽを向いた。そしてすぐに春日を睨む。
「〜〜〜〜オレは思ったことを言っただけだ! それより――!」
來軌は凄んだ目で春日を射抜き、雷来葬槍を構えた。
「アンタがオレらを思って傀儡になったってのは聞いたよ、そのために攻撃したってのもしょうがねぇよアンタの意志じゃねぇんなら! それでもオレは、シズクを消したことは許せねぇ!!」
「!」
激昂する來軌の言葉に、八千夜、宗方、夕楊はハッと顔色を変えた。春日は、少し目を細めた。
「アンタはオレらの誇りだよ大将。でも、オレと戦え―――!」
來軌がそう吼えた時、どこからともなく呑気な声が聞こえてきた。
「・・・・・ちょっとー、勝手に殺すんじゃないわよ」
ぺたぺたと裸足で歩く音を立てながら。聞き覚えのある声が聞こえた。全員の目がそちらに向いた。
「あちち、あー駄目ね。やっぱそっち行けなーい。火の者が二人もいたら無理―」
ちょっと遠くから、緑色の髪をもった少女(の外見)が口元に手を当てて叫んでいた。
來軌は、呆然として呟いた。
「シズク・・・?」
「大丈夫―? 決着付いたー?」
來軌は、思わず駆けだした。その後を八千夜と宗方も続く。春日と夕楊は顔を見合わせてから自粛した。
「おま・・・・っ、なんで!? 大将の火に呑まれたんじゃ・・・!?」
近づくと確かめるように肩を掴んだ來軌に、シズクはにっこり笑った。
「確かに危なかったけど。ギリギリ空気中の水を集めることに成功したから、其処から移動したの。八千夜くんと宗方くんは知ってるよねー」
「なるほど、水の中限定で移動出来るという。アレか」
八千夜が感心したように言うと、シズクも頷いた。
「うん、アレ。もうちょっと遅かったらその集める水さえも蒸発しちゃって危なかったけど・・・・・なんとか平気」
だった、とシズクが続ける前に。來軌は脱力したようにシズクの肩に手を載せたまま俯いて長く大きく息を吐いた。
「ちょっ、何よォ。―――どうしたの?」
シズクが首を傾げると、來軌は小さく呟いた。
「・・・・・・・・・何でもねーよ」
「まったく。安心したのならば照れずにそう言えばいいだろうに。素直じゃないのだから」
すぐ背後からかかった夕楊の声に、來軌は顔を上げた。
「違いますよっ! ・・・・・・・ってアレ?」
來軌が顔を上げるとすぐ其処に、夕楊と春日が立っていた。近づくのにまったく気付かなかった。いったいいつの間に、・・・・・なんて問題ではない。春日と夕楊は火の者で、シズクは水の者なのだ。
「キャ――――ッ! 消えるっ、ヤバイ! 離れて―――・・・・・え?」
手が届くほど近くに火の者が現れ、シズクは飛び退いたが何の影響もないことに気付きゆっくり身体を戻す。
春日は口の端を上げて微笑んだ。
「歳喰うといろんな事を覚えてよ。いつも火の力をむき出すだけじゃねぇよ。ちょっとセーブすりゃ、こうやって近づける」
「は、はぁ。そうなんですか大将さん」
シズクがおどおどと困ったように言うと。春日は右手でシズクの細い手を取った。春日は居たたまれない顔をシズクに向け、少しかがむように視線を合わせた。左手を自分の胸に当て控えめに許しを請う。
「危険に晒しちまって、悪いことをした。許し難いだろうが・・・・」
対照の火の者と触れている現実に驚きながら、シズクは慌てて首を振った。
「いえ、だってあたしは大丈夫だったわけだし! 別に良いですよ」
シズクの手を握る春日の手を、雷来葬槍の柄で叩き払って來軌は目を細めた。
「その時意識はあったのか? ・・・・・・随分と、シズクの存在に確信があったみたいだが?」
お前の炎に呑まれたのに。お前はシズクが消えたと思っていなかったのか?
來軌の問いに、春日は叩かれた手を振りながら肩をすくめた。
「俺の意志じゃなかった。操られていた。だからその水の者がここにいるのは本人の実力のおかげだ。すまないが俺は手加減できていない」
「・・・おかしいだろ? お前は心配そうな素振りすらしてなかったじゃねぇか。・・・・・・それとも、シズクが無事ということを知ってたのか?」
それとも、悪いとすら思っていなかったのか。來軌の目が細められる。
「声が聞こえたんだ」
「声?」
不思議な出来事を語る春日の言葉に、その場の全員顔を向けた。
「あれが誰だったのか、俺にはわからねぇが・・・・・・俺が操られて出した劫火を、霞のような意識の中で悔やんでいたら、『あの子は無事だから、お前は気にしなくて良い。あの子は無事だ』って。諭すような声が聞こえたんだ。誰かもわからないし何でそう思ったのかもまったく疑問なんだが・・・・・・俺も、大丈夫だと思ったんだ」
「なんだよそれ」
「しらねぇよ」
來軌が憮然とした顔をしたので、春日も首を傾げた。不思議な現象を語る春日の言葉を聞き、八千夜は小さく呟いた。
「声・・・・・・か」
―――目を覚ませ・・・。
自らが目覚めた時にも、不思議な声が聞こえたことを。八千夜もまた思い出していた。