『外伝1 冬 〜贈り物〜』
俺はいつも一人だったから、誰かが近くにいるってどういうことかよくわからなかった。
毎日厳しい訓練を積み、勉学に励み、父に従い、家に縛られて。なんのために生きているのかわからない長い人生を持て余して、俺はよく一人で空を眺めていた。
あれは冬の日だった。冬は大嫌いだった。
嫌な思い出しかなかった。寒くつらい思いをしたことしか覚えていなくて、冬は大嫌いだった。
頼正が生まれて約半年。父が言うにはやはり、犬神の血が流れている頼正は俺と同じく成長が遅いという。今は布団をかぶり、暖かくして眠っている。母である女性に一度も抱かれていない、可哀想な弟だ。
―――母に抱かれていないのは、きっと自分も同じだろうけれど。
思わずため息をついた。そんな俺の背後から、布が掛けられる。気配に敏感な犬上一族の俺は、突然のことに別段驚くでもなく振り返る。相手も誰だかわかっていた。
「・・・どうされましたか? 宗方さん、大きなため息をつかれて」
小さく、はにかむように上品に笑って、霞織が俺の肩にかかるように布を掛けていた。菫さんがマタニティブルーでいつも以上に引きこもっているので、梺の村からわざわざ犬上家に通っている若い女性だ。俺とは二つ違いの年上だが、霞織は俺と違い、年頃の女性としての成長を遂げている。霞織は嫌いではない。だが、成長の違いだけが不満だった。いつも霞織は俺を子供扱いする。
「いらん。霞織が寒いだろ」
掛けてくれている布が霞織の肩掛けだと気づき、霞織の肩に掛け直した。確かに冬、しかも夜に縁側で剥き出しの手足を放り出していた俺の身体は芯から冷えていたが、霞織が気にする必要はなかった。
「風邪を召されては困りますから」
「いい、お前が使え」
「なら一緒に入ります?」
そっと霞織は大きな肩掛けを広げて訊いたが、俺は眉根を寄せて拒否した。大体、その気安い子供扱いも気にくわないし、その状況は俺が困る。だからいつも通りの言葉で返す。
「・・・・・・子供扱いするな」
そのまま顔を逸らすと霞織は微笑んだ。
「失礼しました。でも雪まで降ってきていますから、やはり毛布はお持ちします」
立ち上がって奥へ入っていった霞織の後ろ姿を黙ってみながら、またため息をついた。冷え込む真冬の冷たさは、すでに手足の感覚を無くしていた。それでも動こうという気にはなれなかった。しんしんと降る雪を見つめて、白い息を吐いた。息は宙に消えていく。
首に手を触れた。自分の首を、両手で輪を作りするりと撫でる。
父が居ないときがあった。この広い犬上家に菫さんと二人になった夜があった。そんなとき、俺を嫌った菫さんは、怒鳴り散らしたことがあった。
当時は意味がわからなかったけれど、今ならわかる。菫さんが泣いていたから、抵抗できなかった。可哀想でしょうがなかった。
俺に会いたくない菫さんは、俺を庭に繋いだことがあった。怪力でも子供だった俺は鎖を千切ることが出来なくて、一人座り込んでいた。冬の日で、雪が降っていて、凍っているように冷たい鎖が首を捕らえて、寒くて痛かった。部屋着のまま連れ出されたから、手足は素肌で凍傷になった。あかぎれた手を擦りながら、一人で白い息を吐きながら一夜耐えたことがあった。
それを語れば、人は不幸だというのだろうか。薄幸の少年時代だと同情するのだろうか。
―――それとも、薄幸の人生だと思うかも知れない。
今寝ている頼正も、同じ道を辿るのだろうか。
「宗方さん、どうぞ」
毛布をもって帰ってきた霞織。いつもは夜のなれば家に帰る霞織だが、今日は雪が降って帰りも遅くなるので、泊まっていくそうだ。
親は心配しないのか、と問えば。相変わらず微笑みながら、親は居ませんから、と言った。だから両親が健在の俺の方が、羨ましいと霞織は言った。
寒いのに霞織は俺の隣に腰掛けた。だから訊いてみることにした。
「なぁ、一人で居るのは寂しいか?」
突然の俺の質問でも、霞織は素直に答えた。的確に俺の訊きたいことを読み取って。
「寂しい。というよりも、寒いですね。私は」
うちに帰っても、誰もいない。村の子供や隣の老婦人が訪れることはあっても、食事する時や就寝する時に思い起こされる。広くない家が広く見え、寂しさを漂わせる静けさとともに、自分は一人なのだと。同じ家の作りでも、家族のある家の方がずっと暖かそうなのだ。と、霞織は語る。
それでも白い息を吐き出して、霞織は笑う。俺が見るときいつも霞織は微笑んでいた。でも俺は、折り重ねて訊ねる。不可解だったからだ。
「親が居ないと、寒いか? 今も寒いのか?」
親が居ても、俺は寒いが。
霞織は肩掛けを羽織っているだけで、見るからに寒そうだ。白い息を吐いて、言葉は凛とした空気に透き通るように響く。
「・・・・・・・・いいえ、今は寒くないですよ」
「嘘つけ。手が震えてる」
「いいえ、暖かいんです。今はとても」
そう言って、霞織は嬉しそうに笑うのだ。
(・・・女はよくわからん)
それでなくても、俺は一人でいることが多かったから人の気持ちには疎いけれど。
雪を見ながら霞織が呟くように問う。
「宗方さんは、お嫌いですか?」
一瞬何のことかわからなくて返答に詰まると、霞織は続けた。
「冬が、嫌いですか?」
「嫌いだな」
イヤな思い出しかない。
「・・・・俺は一人で居て寒いと感じている訳じゃない。寒いから嫌いなんじゃなくて、ただ、イヤな思い出しかないから嫌いなんだ」
一人が寒いんじゃない。冬だから寒いだけだ。
俺がそう言うと、霞織は突然立ち上がった。縁側にではなく、地面に足を下ろして庭に。
「・・・宗方さん、付いてきて下さい」
「は?」
霞織は手を差し出した。寒さ故に、赤くなっている。呆けていると、霞織は俺の手を取った。
「案内しますよ、私の大好きな場所へ」
もう夜だぞ、とか。もっと厚着しろ、とか。霞織の笑顔に、俺が言いたいことはことごとく先回りするように潰されて。
「冬は、悪いことばかりじゃないですよ」
そうして俺たちは、内緒で家を抜け出した。
犬上家の敷地である山からは出られない、という俺の心配は不要のものだった。霞織がつれてきてくれたのは、家のすぐ近くの花畑だったからだ。
花畑と言っても、花が満開に咲くのは春になってからだ。こんな雪が降り積もっているような時期に花は咲いているはずもない。
「ほら、こっちですよ宗方さん」
霞織に招かれて、俺はそれを見た。予想外の景色があった。
その日は雪が降っていて空は雲がかかっていた。でもその雲の隙間から月が煌々と照らしたら、その花畑はキラキラと輝いた。一面、花が咲いていた。
「・・・・・凄いな、これは」
「でしょう? 私も先日見つけたんです。何の花か、ご存じですか?」
「いや」
小さくて、白い花。蕾のように丸い花弁で、少々下を向いている。その首には雪が掛かっているのに、茎はしゃんと立っている。
「待雪草と言うんです。スノードロップとも言いますね」
しゃがんで、霞織は近くにあった待雪草に積もった雪を払った。そして花に笑いかける。
「春じゃなくて、冬に咲く。雪にも負けずに。・・・・素敵でしょう?」
嬉々として話す霞織。俺はそれをじっと見ていた。
「花言葉もありますよ」
あいにく俺はそれを知らなかったので黙っていたら、霞織はあっさり答えを言った。
「『希望』という花言葉をもつ花なんです」
そう言って振り返った霞織の笑顔に、思わず俺は見入ってしまって。雪が降る中、俺たちはその花畑にいた。
「・・・霞織は本当に花が好きだな」
そう言うのが精一杯だった。自分でももっと気の利いたことを言えないのか、と思う。
「ええ、なんだか凄く励まされるんです」
それでも霞織が笑うから。
俺も確かに、笑っていた。
「・・・ここの春、来たことあるか?」
「え? いえ・・・」
「春になると、一種だけじゃなくて様々な花が見事に咲き乱れる。一面蜜の匂いに満たされ、暖かい日差しは雪を溶かしていく。蝶が舞い、鳥が鳴く。壮観だぞ」
「本当ですか! 凄い・・・・・見たいなぁ」
「来ればいい。春になったら、また来よう」
霞織が目を瞬かせた。何か変なことを言っただろうか。
「・・・・連れてきてくれますか?」
「ああ、一緒に行こう」
一瞬霞織は驚いた顔をしたけれど、すぐににっこり笑って小指を出した。
「約束ですよ?」
「・・・疑り深い奴だな。二言は、ない」
そして小指同士を絡めた。
そして満足そうに霞織は微笑み、寒いので手を繋いで帰った。繋いだところが暖かくて、春がとても待ち遠しかった。
その日は帰って二人とも、無断で外出したことを父さんに怒られた。それでも、俺たちは肩をすくめて笑ったままで、全く反省していなかった。
父の目を逃れて、俺は霞織の袖を引いた。すこしかがんだ霞織りの耳元で小さく囁いた。
「ありがとう」
霞織は何のことかわからなかったらしい。微かに首を傾げたが、俺は応えずに部屋へと向かった。
このとき俺は凄く満足した気分になっていた。嫌いだったものが好きになれたような、そんなささやかな幸福を感じて、そうさせた霞織に礼が言いたくなったのだ。
―――ありがとう。
こんな言葉を言ったのは、もういつぶりだろうか。
* * * * *
犬厄から半年。家の敷地から出ることさえ制限された俺と頼正は、言われた通り静かに余生を暮らしていた。頼正はまだまだ赤子で世話は俺が全てしなくてはならなくなった。最初はとてつもなく疲労感を覚えていたが、次第に慣れていった。
だが父と霞織がいないことで、全ての負担がかかったからかも知れないし、裂かれた肩の傷がまだ癒えていなかったからかも知れない。俺は体調を崩した。
それでも頼正の世話をしなくてはならないし、誰もいない。俺が無理に体を動かして風邪をこじらせている時に、初めて梔村から使者が来た。
新たに村長となった邑上利盛と、田村伸雄、そして他に三人の健康体だった男達が、荷物を抱えて長い階段を上ってきた。
「・・・・・・・・・・なんの、用だ」
俺の問いには邑上が応えた。
「様子を見に来ただけだ。あの犬の」
「・・・・・・頼正は寝てるよ」
「貴様は調子が悪そうだな」
それに対しては無言を返した。確かに体中が熱を発していたし、頭の端は痛かったが。
「まあいい、それより食料と日常品を持ってきた」
「・・・・・は?」
「お前らが敷地からでなければ、生活物資は我らが運んで持ってくる」
「・・・・・・・・・・・・・・・つまり、『飼われる』ってことか」
「違いはないな」
にべもなく言い放つ邑上。俺はチラリと後ろの四人を見た。
「村長に感謝するんだな・・・・・! その命を、長らえたことを」
田村の言葉は、何の感情もなく俺の中に入っていった。呪詛のように、祝詞のように。
――――霞織は死んだ。父も菫さんも死んだ。他にもたくさん死んだ。
その事実を受け止めるのに、俺は子供だった上に独りだった。
「定期的に、私たちは此処に訪れる。物が足りなくなったら言えばいい。出来うる限りの要望に応える。―――だが貴様等は、絶対にここから出さない」
畏怖と軽蔑の視線にも、慣れた。とりあえず頷いた。
「・・・・・米や野菜は水場へ運ぶ。基本的には自給自足しろ。他に何か・・・」
「服が欲しい」
「服?」
「布でも良い。頼正が大きくなったときに対応できればそれで」
「・・・・・・・・犬上の赤子は、どれほどの速さで育つ?」
わからない。だが、いつまでも赤子なわけではないだろう。
邑上は大して顔色を変えずに、目を閉じた。頷く代わりに。
「・・・・・・考慮しよう。他は?」
「わからない。探しておく。・・・・・・・・・次はいつ来る?」
俺がそう問うたのは、都合を合わせるためだ。そして持て余す暇を潰すためだ。
「さあな。だが近いうちに来るだろう」
しかし次に使者が来たのは、それから半年後だった。食料はそれくらい保つ量が運ばれていたし、時折門扉に置かれていることもあったので問題なかった。
それまで俺はやはり独りで。頼正がいなければ、きっと食事すら忘れていただろう。
「俺と共に正しき道をいき、頼られる存在、・・・・か」
それが頼正の名の意味。確かにその通りだと思ったが。笑うことすら忘れた俺は、ひたすら知識を貪るように本を読み続けた。暇を潰すために、物を書くことを覚えた。
頼正は、すくすく育っていった。
* * *
何かと手がかかる。頼正がいつまでもしゃべり出さない原因が、無言で居る自分のせいだと気付くのに時間がかかったせいか、頼正がしゃべり出すのは遅かった。見本となる人間が自分しか居ない弟の境遇に責任を感じながら、時間を掛けて、頼正を育てた。
犬厄から五年。頼正は八つになった。しかし身体は四〜五歳だ。
「にいちゃ・・・・・」
「どうした?」
「『かぞく』って、なに?」
本を見ていた頼正が、そう呟いた。その中の一行に『家族』という文字を見つけ、返答に詰まったことを何故か鮮明に覚えている。
「・・・・・・お前の家族は、俺だよ」
「? にいちゃは、にいちゃじゃないの? かぞくなの?」
「家の、族って書いて家族。両親とか、兄弟とか」
「りょーしん?」
「お父さんと、お母さん」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
頼正のぽかんとした顔を、きっと一生忘れない。
「おとぉさん、とおかぁさんは、どこにいるの?」
無邪気な質問に、心臓を掴まれたように衝撃を受けた。笑うのに失敗して、きっと変な顔だっただろう。
「・・・・・・・頼正と俺の両親は、もういないんだ」
「なんで?」
「・・・・・・ずっと前に、死んだんだ」
「しんだ? いなくなったの?」
「ああ」
「・・・・・・・・にいちゃ」
「うん?」
頼正が、頼りなさげに歩いてきて小さな手で俺の顔を触った。きっとすごく、情けない顔をしていたんだ、俺は。
「ごめんね。ごめん、ごめんね?」
泣きそうな顔で、っていうか涙目で、謝りだした頼正に罪悪感を覚えて。
「にいちゃかなしい? なく? かぞくいないから、かなしい?」
『かなしい』の意味もまだよくわかってないだろうけど。そう言う頼正がすごく素直で、子供って面白いなとか、頭の端で考えながら、とにかくしなくちゃいけないのは、頼正を泣かせて謝らせている俺自身への叱咤と、頼正への謝罪。
「・・・・・・・・・・俺こそゴメンな頼正」
俺がしっかりしてないと、お前に全て反映するのに。
「頼正が居るから、平気だぞ」
「へーき? なかない?」
「泣かない泣かない。だから頼正も泣くな」
本当に、お前が居るから、だから俺は生きている。
逆に言えば。もしお前が居なかったら、きっと俺はもうこの世にいない。
* * * * *
約束をしていたその日が駄目になったと、前の日に霞織から連絡があった。
「・・・・・どうしても、明日は抜けられそうにありません。すみません、私からお誘いしたというのに」
「いや、また日は延ばせばいいさ。此処に出入りするから村からの当たりも厳しいんだろう? 出られる時は、行事に参加しておけ」
梔村で、明日は桜祭りが開かれる。そのための準備は村人全員で行うのだ。村の重鎮である邑上家や田村家、倉木家などが主だって行われる恒例行事は、当然ながら犬上家には関係ない話だった。
女手の少なさで、霞織にも収集が掛かった。もとより梔村の桜祭りは、桜の精に扮する若い女子が必要なのだ。ところが今年に限って他の女子は怪我をしたり体調を崩したりして、霞織に白羽の矢が立った。
「・・・舞いの練習で、此処にもなかなか来られませんでしたし。祭は明日だなんて」
「明日で終わりだろう? 花はまだ咲いている、もう少し先になるが―――」
「明日じゃないと、駄目なんです」
そういう霞織が珍しく駄々をこねる子供のように見えて、俺は首を傾げた。
何か特別な日だったろうか?
「とにかく、明日のために練習してきたんだ。・・・・・・俺が見ることはかなわないが、しっかり舞ってこい」
村八分の犬上家は、祭りなどとは無縁だ。せっかく霞織が桜の精をするというのに見られないのは残念だが、仕方がない。その分頑張って貰いたい。
「・・・・・はい」
声から想像する霞織の残念そうな顔は、俺にはどうしようも出来なかった。
桜祭りは、毎年同様丸一日かかった。
要するに村ごと花見に参列するような祭りなのだが、重箱やたくさんの桜餅をもって、村人は村のクチナシの木と半々で植えられている桜並木に訪れる。村の中の広場に設置された台座の上に、薄桃色の着物を纏い、顔は軽く化粧をして目尻を紅く塗り、髪を結い上げ扇を両手に持って花びらと共に舞う桜の精。
如月霞織だ。
人気は上々、祭りは華やかに行われ、桜を愛でるこの祭りは、これから始まる田植え作業に皆で掛け声を掛けて終わる。訪れた春に平和と実りを祈願して。何代の前から続く、梔村の伝統的な祭りだった。農作業を代々続けたこの村で、欠かせない祭りなのだ。
大人たちが夜桜を眺めて酒盛りをする頃には、桜の精は解放される。霞織は控え室で化粧を落として、息をつく。
「お疲れ様、霞織ちゃん」
「キレイだったよ、カオリ!」
お隣のおばさんと、拳を握りしめる誠一に微笑みかけて、霞織は急いで髪をほどき、着物もそのままに装飾品だけ外して机に載せた。
「―――どこいくの?」
「ごめんなさい、着物は後で返すって伝えて頂戴。私は、ちょっと行きたい場所があるの」
首を傾げる誠一にそう頼んで、霞織はそっと村の中心から抜け出した。大通りを行けば村人からの賛辞で足止めを食うことはわかっていたのでひっそりと裏道を急いだ。
長い階段の前は、犬上家への往き道だ。屋敷からの外出ですら嫌がられる宗方に会うには、霞織が出向かなければならない。
日が暮れた。あまり遅くなるわけにはいかない。急がなければ。
桜の精の着物は上等で、正直動きづらい。それでも霞織は汚さぬよう気を付けて、階段を上る。
今日でなければ意味がない。
今日を一緒に過ごしたい。
桜祭りは桜の最も美しい日を選別するので日にちで決まっていない。たまたま今年、桜祭りと重なってしまったが、今日は霞織の誕生日だった。
親や兄妹はなく、自分の誕生日を特別と思ったことはない。それでも宗方と出会ってから、この日を宗方と過ごせたら幸せかも知れないと願っていたのだ。
だから今日じゃないと意味がない。今日一緒に花畑を見に行く約束をしていた。
宗方も犬上家の後継者として忙しい身だ。だから二人の用事は前もって合わせておくのだ。次に二人が一日暇な日を探すと、一週間も後になってしまう。花は待ってくれない。
いつもよりハイペースで階段を上っていると、階段全体の五分の一ほどの距離で、霞織に声が掛けられた。そこは、犬神の結界を守る境界線の近くだった。
「霞織!」
いつもと違う速度で階段を歩いたせいで少し息を乱しながら、霞織は階段の上を見上げた。
子供の姿が見えた。だけど、本当は子供じゃない。思いがけない出来事で、思わず霞織は呟いた。
「・・・宗方さん」
「やっぱりな、無茶するんじゃないかと思った」
そう言って、宗方は階段を下りてきた。霞織の三段上で足を止め、それでやっと宗方の身長は霞織を越えるくらいだった。
「もう暗くなったのに、危ないだろ」
「宗方さんこそ、お一人で・・・・・・御当主はこのことを?」
「知っているわけがない。黙って出てきた」
帰ったら烈火の如く怒られるだろうな、と宗方は肩をすくめた。そして呆然としている霞織に後ろ手で隠していた物を差し出した。
なんてことはない。ただの花だ。名も知らない花を一輪だけ。
「やるよ、好きなんだろ」
無愛想にそう言って。なんだか素直に贈り物が出来るほど宗方は器用じゃなかったから、そうなってしまったけれど。
「なんか今日にこだわってたから。でも今日は見に行く時間がないだろ。これで我慢しろ」
―――俺は今日が何の日か知らない。
「あんまり摘むのは、ちょっと気が引けたんで一輪だけだが」
それでも霞織はおずおずとその花をそっと受け取った。
「・・・わざわざ、このために?」
「・・・・・・・・・不格好で、悪いけどな」
―――俺がそう言うと、霞織は髪を振り乱して首を振った。これ以上ないくらい嬉しそうに微笑んで花を抱き留める。嬉しそうにされると余計に照れた。
「有難うございます・・・・!」
―――俯いた霞織にちらりと視線を向けると、目を潤ませているのに気付いて焦った。微笑みしか見たことが無くて、泣くとは思わなかった。
「・・・な、んでいつも笑ってるくせに、こういうときに泣きそうなんだよ・・・っ」
「どうしてでしょう? ああでも―――」
凄く嬉しい。
「・・・・・・・」
―――そう言ってくれた霞織はやっぱり綺麗だなぁ、と。
―――俺がやったたった一輪の花を、それは大切そうに愛おしそうに抱く霞織をいつまでも見ていたかった。
* * * * *
ふと、仕事で部屋に籠もっていた宗方は、自分が途中で意識を飛ばしていたことに気付いた。周りを見ると、外は暗い。時計を探して見ると、四時半を指していた。
(・・・眠ってたのか)
頭を掻いて欠伸をかみ殺す。仕事の追い込みで夜昼逆転した生活になっているので、居眠りをしてしまったことになる。
(あ、やべ。九時に香川が取りに来るとか言ってたな・・・)
貴重な時間を使ってしまった。くそっ、三十分も寝ちまった。
頭の中には出来ているのだが、ただ書くだけという作業は飽きる。眠気を誘う。もう二日徹夜をしているのでつらい。
(面倒くせー・・・・・・)
駄目だ眠い。濃い茶でも飲もう。
深夜なので頼正と八千夜は寝ているだろうし、春日は居るか居ないか知れないが、ともかく静かに台所に向かう。やかんをコンロに載せて火を付け、茶葉を急須に入れる。
ふと机の上に布が掛けられた物と手紙を見つけた。・・・頼正の字だな。
『いつ起きてるのか全くわからないので、置いておきます。お腹が空いたら食べて下さい。ちなみに中身は梅干しと昆布』
布の掛けられたそれを捲ると、おにぎりが四つ置いてあった。
そういや昨日の夜から何も食べていないと気が付き、一つを取って食べた。出来れば昆布希望。・・・・・・・・ちくしょー梅かよ。
まあいいか。歩きながら頬張って、沸いた湯を急須に入れる。二分蒸らす間におにぎりを食べ終わって、ちょうど良くできた茶を啜る。
香川が来るまで後四時間とちょっと。見てた夢のせいか、仕事する気が起きねぇ。
深夜に一人でおにぎり二つ目(今度は昆布だった)を食べて、残りは再び布を掛けた。
(・・・・・・・・・・寒っ・・・)
窓の方を見ると、白い物が落ちていた。
「雪、降ってんのかよ」
思わず声に出した。ちょうど良く夢の内容を思い出して、息を吐いた。
今あの花畑はどうなっているのだろうか。
(いまもスノードロップが咲いてんのかな・・・・・)
―――花言葉を知っていますか?
(・・・・随分昔のことを思い出したもんだ)
かれこれ、二十年も前のことだ。
花が好きだった霞織は、ちょっと満開の期を遅れた花畑でも、嬉しそうだった。桜の精に扮する霞織は見られなかったが、一輪の花をあげたときの霞織の顔は、凄く綺麗だった。
冬は嫌いだった。でも霞織が笑うから、そうでもなくなった。
―――『希望』という、花言葉なんですよ。
頼正の書いた置き手紙の隙間に、ちょっと付け足しを書いて腰を上げる。さっさと仕事を仕上げよう。
『御馳走様。花見したいからさっさと終わらせる。香川が来たら起こしてくれ』
きっと朝起き出してきた頼正には、花見とは何かわからないだろう。
「・・・ちゃん、オーイ」
うるせぇ眠い。つか寒い。半分眠ったままの頭では、覚醒なんて選択肢にない。
「駄目ね、起きないわよー・・・・・・・・・・・・っえい」
寒いながらも惰眠を貪っていた俺に、突如内臓圧迫と衝撃が訪れた。
「おはよー、起きたぁ?」
「・・・・・・・っぐ、重い・・・・! どけェ香川!」
「失礼ね〜」
飛び乗ってきたらしい香川を押しのけて、頭を振る。時計を見ると九時五分。
「・・・・・・・・・・なんだよ、二十分しか寝てねー」
「仕上がったもん出してから安心して寝なさいな。ほれほれ、原稿はぁ?」
「・・・・・・・・・・そこ、机の上・・・・」
二十分前に何とか書き上げ、そのままベッドに倒れ込んだ俺は、やはりまだうつらうつらしながら指さした。
「どれどれ♪ ・・・・・・・よしよし、良くできました!」
「うるせぇ・・・・それ持って、出てけ。俺ぁ寝る・・・・」
「兄ちゃーん、花見がどうとかはどういう意味だったの?」
置き手紙を振りながら、頼正が部屋をのぞき込んだ。起こせっていったのに、なんで香川が飛び込んでくるんだよ。文句を言おうかとも思ったが、とりあえず寝てしまわないように体を起こして頭を掻く。
「・・・・・あー、それはあとでいいんだ。とりあえず寝かせろ・・・・・」
「さすがむーちゃん! ぴったり二百三十枚! ご苦労様〜」
がしがしと頭を撫でてくる香川の手を払う。相手にするのもしんどい。
「香川さんもお疲れ様です」
「ありがと頼正くん。でもむーちゃんは期限守ってくれるから楽なのよ」
「む、香川殿。参られていたのか」
「八千夜くーん。相変わらずカワイイねー。二人とも今日は学校ないの?」
「創立記念日です。明日と明後日は土日で三連休なんだ」
「そっかぁ、学生は良いわねぇ。私ももうちょっと時間あるからお邪魔していこうかしらぁ?」
「ただいまー」
「あ、春日さん。おかえりなさーい」
「おう。アレ? どちら様ー?」
「むーちゃんの担当の香川紀子です。格好いいー。みんなしてこの家住んでるの? 仲良いのねぇ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・むーちゃん?」
「宗方のことだ」
「むっ!? ・・・・・・・アハハハ! むーちゃん? 宗方が!?」
騒音に近いあいつらの声は、俺の怒りを底上げする。せめて扉を閉めろよお前ら。
「―――うるせェっつってんだろぉがァ!! 寝かせろッ!!!」
霞織は今の俺を見たらどう思うかな。あの時は、俺の周りがこんなに騒がしくなることなんて予想もしていなかった。ずっと死ぬまで犬上家に囚われて、長い一生を静かに遂げると思っていたのに。
(また花を見に行こう。冬でも春でも、いつでも良い)
今度はこいつらと行くのもいい。花を見ればいつでも俺は霞織を思い出すだろう。
「・・・機嫌悪い? もしかして」
「いやぁ、徹夜明けで眠いんでしょ」
「ご苦労様♪ ゆっくりお休み、むーちゃん」
「また後でも言うが、明日にでもシズクが来ると言っていたぞ」
春日と頼正と香川と八千夜の言葉は。どんどん遠くで聞こえ、俺は睡魔の波に呑み込まれた。
見た夢の中に、霞織が出てきて。
――――やっぱり、笑っていた。
* * *
「おっ邪魔ぁ〜! ヤッホー、大将―! 宗方くんも! 元気ぃ?」
次の日、シズクがマンションにやってきた。相変わらず薄着で、雪が降る中でも満面の笑みだったらしいとは、迎えに行った頼正と八千夜談。
長袖とロングスカートとブーツだが、真冬の格好とは思えない。春先に出かける格好だ。
「うるせーのが来た・・・」
「良いトコ住んでンのね。ってアレ? 大将は?」
「仕事」
「大将、仕事何してるの?」
「・・・・・夜のお仕事?」
「・・・・・宗方くん、大将何してるの?」
「うるせーな、接客得意っつーから冗談で薦めてやったんだよ。あの容姿だし」
「何させてるのォ!? ちょっとマジで、ねぇ!?」
生活リズムを戻している途中の俺は、まだ時差暈け状態でシズクの追求を無下に払った。
「今度本人に聞けよ。俺も詳しくは知らねー」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・客として行こうかしら。じゃなくて! ・・・・ま。あたしも人のこと言えないかなぁ」
ふぅ、とため息をつくシズク。お茶の用意を整えてきた頼正は、盆を持ってキッチンからやってきた。
「シズクさんは仕事何してるんですか?」
「池に棲んでいるとはいえ、人間と共存するのは何かと不自由ではないのか?」
見る限り、頼正の盆には紅茶が。後ろから手に直接湯飲みを持つ八千夜はきっと、緑茶だろう。八千夜はコーヒーも紅茶もあまり好きではない。
ソーサーに三人分の紅茶を注ぐ頼正と、隣に座った八千夜に微笑んで、シズクは答えた。
「良い香りv ありがとう。―――あたしもね、お金とかは興味ないんだけど、人間と接触するのには何が良いかなぁと考えた結果、自分の得意なことやってみたの。―――あ、砂糖一つね」
「得意なこと?」
「占い。ハマってんのよ、今」
得意なのは水占い。でも他にもカードや、予言まがいもするとかしないとか。
「うさんくせー」
本音だ。だが、シズクはちちちと指を振ってしたり顔で笑う。
「・・・・・嘗めちゃ駄目よ宗方くん。ようは気持ちなんだから、ニュースの正座占いとかあるでしょ? あんな感じで軽くていいの」
幸先の良い予言をされたら嬉しいし、注意を促す時はそれとなく伝えればいい、と。シズクはそう言って紅茶を口に運んだ。占いを信じるか信じないかは本人の自由だし、害があるものではないだろう。俺はどちらかというと信じていないが。
「ま、せいぜい頑張れや」
「ふふっ占いじゃないけど、簡単なの教えたげる。誕生花って知ってる?」
「はぁ? いいって俺は」
「当たらずとも遠からずだったりするのよ、宗方くん誕生日は?」
少し強引だが、別に断固拒否するようなものではない。自分の誕生日なんて記憶に薄かったので一瞬考えて、答えた。
「一月一日」
「あらホントに? 縁起良いわね」
正月元旦生まれ。シズクは思い出すようにちょっと手を頭に当てた。
「えーっと、一月一日は〜・・・・・・・・・・・あ、スノードロップよ」
「え」
そう来たか。一瞬驚いたが、夢の内容を思い出し、思い出を振り返る。
「知ってるかな。なんかこんな感じの小さくて白い、冬に咲く可愛い花でね。花言葉は―――」
身振り手振りで説明してくれるシズクの言葉を途中で遮った。
「『希望』だろ」
シズクだけじゃなく、頼正と八千夜も意外そうな顔をした。
「意外ね。花言葉とか知ってるんだ」
「いや、スノードロップだけだ。・・・・・・・昔、知り合いに教えて貰った」
面白い偶然とはあるものだ。自分にとっては特別な花が、誕生花だったとは。その花言葉が自分に当たらずとも遠からずなのかどうかはわからないが。
少なくとも、霞織に教えて貰うことで希望にはなったのかもしれない。そう言う風に考えると、なるほど、占いとやらも満更大外れの代物ではないのだろう。元より心理的に考えると、結果を逆に考えて当てはめているだけだとも思えるが。
紅茶独特の良い香りを楽しんで、花見はいつ行こうかと考えた。
「―――実はねー宗方くん。もう一個、花言葉があるって知ってる?」
にや、とそれは楽しそうにシズクは目元を波立たせた。からかったようなそれにちょっとむかついたが、続きが気になるので眉を顰めるだけに留めた。
「・・・・・・・・・・なに?」
「あは。スノードロップの花言葉はねぇ、『希望』と・・・・・・・」
もったいぶって、楽しそうにシズクは口元に手を当てた。
「『初恋のため息』、なんだよ♪」
「は」
初恋のため息? なんだその乙女チックな花言葉は。
なんてことはない。ただの誕生花の花言葉だ。占いなんて適当に考えておけばいい。そもそも花言葉は占いとは言えないしな。だがしかし。
「・・・・・・・何笑ってンだテメェら」
「わっ笑ってない・・・・・よ?」
「気のせいだ・・・・っ」
肩を揺らしている頼正と八千夜に気が付くと、何だか腹が立ってきた。からかわれるのは大嫌いだ。シズクの言葉も、ちょっと癪に障る。
「良いんじゃない? 『希望』と、『初恋のため息』。宗方くんらしくって」
最後のは余計だ。
隣で吹き出して笑う頼正にとりあえず拳骨を落として、煙草に手を伸ばす。
(希望と、初恋のため息ねぇ)
なんか俺より、霞織に似合う言葉な気がする。
次に墓参りに行く時は、あの花畑も見に行こう。もう雑草などが勢力を占めているかも知れないが。もう少し暖かくなったら。
(いや、近いうちに行ってもいいな・・・・・)
そうしたら、スノードロップが咲いているかも知れない。