『外伝2 春 〜約束〜』
血の臭い、騒音。失われる命、怨みが集まった空気。
合戦場。
九尾の狐は、人の姿で、大きな木の枝に立ち、眼下で繰り広げられている幾万の人間たちの戦いを見下ろしていた。
どこを見ても、赤いものが目に入る。人が人を斬り、雄叫びを上げ、断末魔を響かせ、逃げようとした仲間を斬る者や、敵兵の首を槍に刺し見せしめにする者もいる。
赤い旗の一団が、黒い旗の一団を追いつめた。黒い旗は破かれて火を付けられ、将と思しき者の頭は胴体から切り離された。
かれこれ三日間、一部始終見ていた九尾の狐は、面白くも無さそうに呟いた。
「・・・くだらねぇ」
ひょいと枝から下り、着地した瞬間狐の姿に変身する。
そのまま合戦場とは逆方向に走り出した。
三日間。観察していたがただ胸糞悪くなるだけだった。
同族殺しをする種族、人間。
戦の原因を知っている。ただ君主が権威のためだけに土地を広げたいのだ。そのためだけに、国中の者がかき集められ、そのたびにたくさんが死んでいく。戦が起こるたびに山は焼け、生き物が燃える臭いが広がった。
九尾の狐は、血の臭いも嫌いだった。
苛々と山を駆け、風のような早さで足を動かす。九尾の狐の怒りを感じ取り、数羽の鳥が飛び立った。
この先はちょっとした崖になっているが、最短距離を行く。速度は落とさずに、小川に続く滝壺に飛び込んだ。
水しぶきを上げながら水中に潜り、人型に戻る。息継ぎのために一度水上に顔を出し、顔に張り付いた金の髪を掻き上げた。
体や髪に染みついた血の臭いと死臭を取りたい。気のせいかも知れないが、水につかっても到底落ちた気がせず、水の中で体を擦り続けた。
気分が悪い。
だから人間なんて嫌いなんだ。
意味もなく命を奪い、どうして笑うことが出来るのか。
滝壺から続く小川の流れにそって泳ぐ。足を動かし向きを変え、岩場を避けて泳ぐ。魚のように巧みではないが、九尾の狐が泳ぐ横を同じように数匹の魚が尾鰭を動かしていた。
水の中で仰向きになる。太陽の光がきらきらと水中を照らした。
この先に岩場はない。体の力を抜いて、九尾の狐は水面から顔を出して流れに身を任せた。顔を水からだし、まぶしい太陽に眼を細めていた。
その時。
「・・・おーい」
ふっと瞼に感じていた太陽の光は遮られ、目を閉じていた九尾の狐は目を開けた途端、顔をのぞき込んでいる一人の男と眼があった。
「なんだ仏じゃないのか。ならどいてくれよ、水が欲しいんだ」
九尾の狐は不愉快そうに眉根を寄せて、水底に足をつけた。流れる内に浅くなっていったらしく、今や立てば膝ほどまでしかない。頭を振って水を飛ばし、髪を掻き上げた。
男を見ると、今度は男が眉を寄せていた。
「・・・・・あんた神様か?」
「・・・・・なに?」
「だってここは神の土地だし。見たこともねぇくらい綺麗な髪と眼だ。・・・・神々しいって言えばいいのか?」
莫迦を言え、と九尾の狐は浅瀬に向かって足を進めた。神どころか自分はあやかしだ。
九尾の狐は、不思議そうに自分を見てくる男を睨みながら言った。
「神の土地だというのなら、何故貴様はここにいる」
「おれはいいんだ。清めにきたんだから」
九尾の狐の後をついて川からあがった男は、聞いてもいないのに話し出す。
「おれの村、毎年若い女を神に仕える者として差し出してたんだけど、去年で女人は全員いなくなっちまって、今年からまだ元服してない男なら代わりになってもいいって決まったんだ」
「・・・・それで貴様はその生け贄というわけか」
愚かな風習はまだ続いているのか。人間が着飾って神に出仕すると言うときは、夜の内に人を好むあやかしがその肉を喰らっているのだ。しかし人間はそんなことは夢にも思わず、神に召されたと喜び、繰り返すのだ。
「馬鹿馬鹿しい。生きることを望まぬのならさっさと滅びろ」
一番解せないのは、選ばれた娘たちは皆逃げ出さずに死に行くことだ。村の繁栄と今年の収穫のために、と人間が勝手に作った公約のために死ねるというのだ。
男は、ちょっと拗ねたように九尾の狐に怒鳴った。
「早とちりするなよ! おれは選ばれてない」
「なら何のために身を清めているんだ? 本来、生娘が行く代わりに男が行くんだ。何か代わりを用意しているんだろう? 無駄に死に行くのか?」
「そんな言い方止めろ。村の女たちは、涙を呑んで村のために・・・・」
「それが無駄だと言うんだ。知らねぇのかよ、神が人間なんて欲しがるか。帰ってこないのは、あやかし共が喰ってるからだ」
吐き捨てるように言われた言葉に拳を握りしめて、男は言った。
「知ってる。だがあやかしに喰われに行けなんて、その女たちの血筋には言えないだろうが・・・」
九尾の狐は一瞬目を開き、頬を皮肉げに上げた。
「あやかしを神と呼ぶのか。知っていて、喰われに行っているのか! とんだ愚かな行為だな。自らより幼い娘を贄に出してまで生きたいか!」
「そんなんじゃない!!」
男は怒鳴りつけた。
「わかってる、間違ってるんだよ! 毎年毎年、贄を出して、いつまでも続くならそれは無駄だと!」
「娘がいなくなってから気付くから、うつけだと言うんだ!」
「だからおれが行くんだよ!!」
男の叫びに、九尾の狐は少し目を丸くした。落ち着かせるように、声を上げるのを止めて男はさらに拳を固めた。
「今年選ばれたのは、おれの友だちだ。向こうはそう思ってないかも知れないけど、おれにとっては友だちだ。だから助けたいんだ」
男の告白を九尾の狐は黙って聞いた。男は自嘲気味に笑った。
「・・・・代われるものなら代わりたかったが、おれは汚れた者だから除外された。だからって、諦めて待ってるなんて性に合わねぇ」
川辺から離れて、九尾の狐に背を向けて歩き出した男に向かって、九尾の狐は一つ訊ねた。
「おい」
男は律儀に振り返った。後ろで束ねられた短い髪から、水滴が飛ぶ。
「お前の名は?」
「・・・・・・」
一度躊躇ってから、男は応えた。
「・・・裄智(ゆきとも)だ!」
叫んで男―――裄智は濡れたまま林の中へ駆けていった。
九尾の狐は、その後ろ姿を見つめていた。裄智の言葉を思い出して、一人呟く。
―――今年選ばれたのは、おれの友だちだ。だから助けたいんだ。
「・・・わけがわからん」
くしゃっと髪の中に乱暴に手を突っ込み、がしがしと掻く。
・・・人間は殺戮を好む生き物ではないのか? 自分の知らない一面を持っているのだろうか。だとすれば奥が深い。
人間は嫌いだが、まだまだ観察する余地はありそうだ。
九尾の狐は獣の姿に変化して、裄智の後を追った。
人間にしては結構な早さで山を駆け下りた裄智は、村に戻って驚愕した。
「なんだこれ・・・」
家は壊れて燃え、か細く実を付け始めていた稲は無惨に踏みつぶされ、生き物の血液が飛び散っていた。
むせ返る血の臭いに鼻と口を押さえながら、裄智は呆然と歩を進めた。途中で、勢いよく走り出す。
「誰か! 何があったんだ! 誰かいないのか!」
村中を駆けめぐり、先ほどとはかけ離れたその惨劇に何度も顔を背けそうになった裄智。井戸の近くから本当に微かにうめき声が聞こえた。慌てて振り向くとその先には血塗れになった人が倒れていた。駆け寄ると、それは村人の男だった。
「おい! 大丈夫か!?」
「だ、れ・・・・・・・ガホッ・・・・・?」
瞳孔の開いた目はすでに生気が窺えず、ただ死ぬのを待つ状態だった。もう眼が見えていないんだろうこの男は、畏怖していたはずの裄智だとも気付かずに手を伸ばす。
「助け・・・・・・! ・・・・・・みん、な・・・・」
手の施しようがない状態の男に、裄智は自分の無力さを怨みながら訊ねた。それが、どれだけ酷いことかも知っている。喋るのも辛いはずなのだから。
「何があったんだ・・・」
「あかい・・・・旗が、――ゴホゴホッ――・・・・・・・」
「・・・・おい? オイ!」
男は静かに伸ばした手の力を失った。そのまま全身の力が抜けたように崩れた男の体を丁寧に地面に寝かせ、裄智は下唇を噛んだ。噛み切れて血が流れても、涙を流すよりましだった。泣いている場合ではない。
血の跡と、数人の死体。だが到底それは村人の数には満たない。ならばどこに消えたのか。逃げたとは考えにくい。ならば?
(赤い、旗・・・・・・・・・!)
風の噂で聞いたことがあった。戦好きの赤い旗の国は、常にどこかで戦い、さらに兵を増やすために隣国の村を狩るのだと。そうやって領地を広げていっているのだ。
それが真ならば、村人たちは兵として、または奴隷として連れ去られたのだ。ここで殺されたものは逆らった者か、もしくはただの見せしめだ。
「・・・・・佐吉は・・・・、連れ去られたのか・・・!」
神に仕える者として選ばれていた村長の息子。昔はよく遊んだが、今は裄智とも会うことは少なくなった。
身を清めている場合ではない。村人あってこその村で、村あってこその神だ。
血の臭いを嗅いで、裄智は哀しげに天を仰いだ。体の中で、熱いものが湧き上がる。怒りかもしれないし、悲しみかもしれない。どっちにしても動かずにいることは出来ない。
耐えられない。
決意新たにし、裄智は握り拳を作る。
(おれが清めに出たのが昼過ぎ、夕刻までに狩りを終わらせたというなら・・・)
まだ赤い旗は遠くに行ってない。
(おれなら追いつける)
馬の蹄の跡を追い、裄智は駆け始めた。相手が馬ならば到底追いつけないが、狩ったばかりの歩兵を連れているのなら進みは遅いはずだ。
息を弾ませながら、裄智はただ願う。
友人の無事を。
* * *
日が暮れて、闇が世界を覆う。星と月が出ても、雲と葉に覆い隠された山の中は闇しかなかった。
あやかしの時間だ。
自然の音の隙間を縫って、「フシューフシュー」という音が聞こえ出す。だんだん大きくなっていくその音は、闇の中からさらに影を生み出した。
『・・・はら、はらがへった。肉はまだこないのか・・・』
じゅるじゅると大きく裂けた口からよだれを垂らし、だらしなく舌を出しながらのっしのっしと山を下りる。
毎年、上等の肉が自らやってるくるのをこのあやかしは楽しみにしていた。身の固くなっていない生娘たちの肉は甘くて美味、あやかしに至福の時を与えてきた。
『泣いてさわぐもまた一興、迸る赤い蜜はまた極上、足の部分はもう少し取っておくかなぁ・・・・・・ぜんぶ食っちまうのはもったいねぇ』
目玉を先に食べようか、先に動く心の臓を食べてしまったらだんだん固くなっていく。それは駄目だ。端から徐々に、心の臓は後で食べた方が全部を美味しく食べられる。
『まだかなぁ・・・・・待ちきれねぇ・・・・・・・』
一人呟き、のっしのっしとあやかしは山を下りていく。だらだらとよだれはあやかしの胸まで垂れていき、地面に跡を残した。
しかし突然、あやかしはまぶしいものを視界に入れてしまい顔を背けた。
『なんだぁ?』
明るくて綺麗なもの。きらきらと光って前方に見えているのは、月ではない。星でもない。
娘たちが身につけている光る石だろうか。想像してべろんと長い舌で舌なめずりするあやかし。しかし、期待は男の声で裏切られる。
「・・・・・・人を食うあやかしか」
『娘じゃ、ねぇのかぁ・・・なんだおまえ・・・?』
音を立てて鼻を鳴らし、嗅ぎ慣れた匂いに気付いてゲラゲラとあやかしは笑い出す。
『人じゃねぇ、あやかしかぁ?』
「無礼者、俺を誰だと思ってやがる」
きらきらと光るのは微かにもれる月明かりに照らされる金の髪、青い眼は闇の中でもあやかしを射抜き、その鋭い眼光は獣のそれだ。
遠目で見ると人間ほどの大きさの影。あやかしが近づくとその大きさの差がよくわかる。あやかしは大木ほどの大きさで影を見下ろす。
『はら、へってんだぁ。かわりに食っていいか? いいよなぁ?』
ぼたぼたとよだれを垂らして、長い舌を影にゆっくりと伸ばす。その舌先が影に触れそうになったとき、影が揺れて大きくなった。
その大きさはあやかしを超え、九つの尾を持つ獣の形へと変わる。
『な・・・・っ』
「誰を食うだと? この唐変木」
ぼわっと空気中に炎が燃え上がる。その灯りは影を照らした。
あやかしは驚き、一瞬後恐怖に身をすくめた。
「本来あやかしは肉を食わん。闇を好むあやかしが月明かりに下りてまで肉を求めると言うことは、貴様は禁を犯した『はぐれ』ということだな!?」
あやかしは本来、自らヒトに干渉はしない。闇を好んで野山を歩き、ヒトは闇には活動しない。ヒトが闇を気にせず歩いていたらあやかしは興味を示すが、自ら明かりの下に姿を晒すことなどない。
ヒトを主食と勘違いした恥さらしや異端者は、あやかしの間で『はぐれ』と呼ばれる。
あやかしは、相手の本性に気付き逃げ出した。
『き、九尾ぃーッ!』
「・・・消えて償え」
九尾の狐は、手を振って大蛇のような炎をあやかしに巻き付けた。九尾の狐は、火を操ることを得意とする。
『あ、ぢいぃぃっ!』
闇に生きるあやかしが炎の光に耐えうるはずもない。大妖である九尾の狐の妖気に当てられただけでも逃げ出すような弱小妖怪だったのだ。
あやかしをくるんだ炎は、九尾の狐の意志一つですぐさま鎮火する。
残ったのは、焦げた大木一つとあやかしの腹に残っていたかつて食われた娘たちの装飾品。
それを見下ろしてから、九尾の狐は天を仰いだ。
「どうして、殺し合わねば生きられぬのか・・・・・ヒトとあやかしは」
笑顔で日々を過ごせれば、これ以上幸せはないだろうに。
微かに葉の擦れ合うような音で、あやかしが最後の言葉を残した。
『うらめしやぁ・・・・・娘が食いてぇよォ・・・・・肉・・・』
「黙れ。娘はてめぇが全員食い尽くしたはずだ」
呪いの言葉を吐いて、あやかしは姿を消していった。九尾の狐はそれを見ながら哀しそうに呟いた。
「・・・・・・あいつを食わせるわけにはいかねぇよ」
同族殺しをするだけと思っていた生き物が言った言葉。それが真に言われたものなら、と九尾の狐は期待を込めて思う。
“助けたいんだ!”
その一言を言ったあの生き物は、危うさを持つ儚い生き物なのかも知れない。
「・・・・・・・闇に帰れ」
九尾の狐はそう言って、消えていったあやかしのために黙祷した。
* * *
山を行進していた一行があった。日が暮れて、松明を灯していたがそれも困難となってきた時刻、先頭で馬に乗っていたものが後ろを振り返って叫んだ。
「今よりあやかしが起き出す時刻だ! 各々、野営の用意をしろ」
おお、と返事を返したのはみな馬に乗っている者たちで、騎乗者に挟まれる形で半日急かされて歩き続けていた数十人は、息荒く倒れ込んだ。その数十人は、皆が皆手を後ろ手に縛られて一列に繋げられ、不自由な状態で小走りに馬に引っぱられ続けていたのだ。
まさに、攫われた村人たちである。
ぜえぜえと喉の渇きを訴え、疲労が色濃く残る村人たちを乱暴に一カ所に集め、騎乗者たちは馬を打つ鞭を手に持ち、高慢に怒鳴った。
「この愚図共! 今宵の内に帰還せねばならぬ予定が狂ったではないか!」
「殿が首を長くしてお待ちなのだ、邪魔なものは即切り捨てるぞ!」
村を焼き、暴行を働き、強制的に連れてきて。不満を胸に溜めた一人は思いを嚥下できずに怒鳴り返した。
「冗談じゃねぇ! オラたちはあの村で静かに暮らしてたのに、引っぱってきたのはお前ら武将たちでねぇか! 農民は農民の暮らしがあるべ!」
同じように怒りを感じている村人たちは頷いて叫んだ。
「んだ! 戦をするのは武将たちだ! オラたちは・・・・・・」
「黙れ下衆ども!」
叫んだ村人の頭を、武将が乗る黒い馬が蹴り飛ばした。辺りのものは縄に引かれて引っぱられる。
蹴られた村人は頭蓋骨を陥没し、闇夜に白く映える脳をまき散らして絶命した。他の村人たちは息を呑んで声にならない悲鳴を上げる。
「六太ぁ!」
「貴様ら下衆の分の者にも栄誉ある場を与えてやろうという殿の考えを理解せぬか! かまわん、逆らった者は全員殺せ!」
紐につながれた村人たちは悲鳴を上げて逃げまどう。だが制限された動きに、騎乗者に斬られる者多数。血が飛び惑う中、同じように紐でつながれていた佐吉は、正面から馬が駆けてくるのを確認して、引っぱられる縄を逆に引っぱって避けた。縄に引っかかった馬の足に引っぱられて引きずられたが、他の武将たちの刀が振り回されていて、佐吉を他の村人と繋げていた縄が切れた。後ろ手に拘束されたままだが、これで他の者に引っぱられることはない。
村人たちの叫びを聞いて、佐吉は一瞬迷った。このまま黙って草陰に身を隠して場を離れれば、知られずに逃げ出せる。しかし、村人たちは全員殺されるだろう。
村人の叫び声の中で、聞き慣れたものを聞いた。佐吉はそちらに目をやり、なにも考えずに走り出した。
「お父!」
刀を振り上げた武将の下に、村長である佐吉の父がいた。つながれた前と後ろの村人を押しのけて避けさせていて、自分が避ける隙間はない。村長もそれがわかっているのだろう、目をつぶっていつ来る斬撃に身をすくめて構えている。
佐吉は、父を突き飛ばすようにその間に身を滑り込ませた。刀は振り下ろされる。
その時。
どんっ、と火薬が弾けるような音を響かせ、地面が揺れた。佐吉が見る先には、馬ごと横に吹き飛ばされる武将の姿があった。
馬に体当たりをしたのは、犬。馬ほどの大きさもある、漆黒と言えるような真っ黒な毛並みの犬が馬を突き飛ばしていた。
そしてその瞳は、深紅。
「なんだあれは!」
「ひぃ! 物の怪だぁ!」
軽々と飛ばされた馬と武将の姿を見たものは皆が皆叫んだ。
黒犬は狼のように牙を覗かせ、赤い口を開けて吼えた。ぎんっと睨んだ眼光は騎乗者たちに向けられ、血のように赤い眼に睨まれ、騎乗者たちは背筋を凍えさせた。
咆吼して、黒犬は他の武将と馬に噛みついた。馬を噛み、振り回すと簡単に人は吹き飛ばされた。振り落としてから、馬も他の騎乗者の方に投げる。
「うわあぁ!」
「撤退しろぉ!!」
ばたばたと暴れる馬や意識のない武将たちを見て、残った騎乗者たちは一目散に馬を駆けていった。黒犬はあえてそれは追わず、最後に脅しのように吼えた。
ぐるるる、と喉を鳴らしながら黒犬は後ろを向いた。村人たちは、なるべく黒犬から距離を取って震えていたり、腰が抜けて座り込んでいる者もいた。
黒犬が一歩足を踏み出すと、村人たちは「ひぃ!」と悲鳴を上げて後退った。そんな中、佐吉は一歩前に出る。
佐吉には、黒犬を畏れる理由がなかった。外見や、理屈でなく、漠然と思った言葉を呟いた。
「・・・・・・・・・・・・・・裄智?」
おそるおそると信じられないものを見るように呟かれた佐吉の言葉に、黒犬はぴくっと耳を揺らす。その後ろにいた村人たちはあまりの恐怖に半狂乱になって叫んだ。
「化け犬だぁ!」
「喰われっぞ! 逃げろォ」
黒犬は踏みだそうとしていた一歩を止め、くるりと向きを変えて走り出した。
「まて! 待ってくれ!」
佐吉の声は、村人によってかき消される。
「殺されるぅ!」
「戻ってくっかもしんねぇ! 逃げるべ!」
「化け物ォ!!」
黒犬は大きな手足で地面に爪を立てて、元来た方面の山の中を走り抜けた。
黒犬の咆吼が、慟哭のように遠くから響いた。
黒犬は、山の奥で足を止める。がりがりっと強靱な爪で熊のように木を裂き、荒々しく吼えた。ぐるると喉を鳴らせて赤い眼を瞬いた。
ほろり、と犬の眼から透明な雫がこぼれ落ちた。一滴にとどまらず、それはぼろぼろと犬の毛皮を滑って地面に吸い込まれる。
涙を流しながら、黒犬は月の出た空に向かって吼えた。山ですでに眠っていた生き物は、犬の叫びに脅え、ばたばたと遠くに逃げ出す。
小動物の気配が消えた辺りの空間から、がさっと草を踏み分ける音がして黒犬はそちらに目をやった。
「・・・・・・・・・・・呪われた黒犬か、何のために涙を流すんだ」
「・・・お、お前は・・・・」
神々しいほど美しく、静かに現れた九尾の狐はまさに神のようで、黒犬―――裄智は獣の口で声を出した。それは人間の声とは言い難いほど低くて重く、威圧感を含んでいる声だった。
「おれが、怖くないのか・・・・・・? この醜い姿が」
「あいにくと、俺はそんな小さい肝じゃねぇんでな」
裄智の言葉は自虐気味に続けられる。
「やっぱ神様みたいだ、おれと違って美しい・・・・・・」
「・・・・・神様なんていねぇよ」
「化け物は、いるのにな」
また、ぼろぼろと獣の目から雫が零れる。
「おれは・・・・・・・物心ついたときにはすでにいなかったお父が、犬神使いだと言われて恐れられ・・・・お母も、流行り病で死んで・・・・・! それからずっと一人で・・・・・っ」
目を瞑ると、さらに涙がこぼれ落ちる。九尾の狐は黙ってそれを見ていた。
「佐吉が・・・・あやかしに喰われるって聞いて・・・! 耐えられなくて・・・・・助けたいって、思って・・・・・・・・・っ」
獣は吐き出すように苦しそうに言った。
「おれ・・・人間に、なりたくて・・・・・・っ 心まで獣じゃやってられねぇから・・・!」
九尾の狐は黙ったまま黒犬に近づく。黒犬は顔を伏せて、叫ぶ。
「でも・・・・! おれ、化け物なんだ・・・・・・・っ、さっき、あのまま居たら・・・・・村人たちを、いつ喰うかわからなかった・・・・・・・・・っ」
馬を噛んだとき、血の味に食欲が高まったのだ、と。獣は語って涙を流す。九尾の狐は、泣き叫ぶ黒犬の前で足を止めた。
「佐吉の顔が・・・・おれを見て、怖がってた・・・・・・・・!」
「・・・・・・・・・・・・おい」
九尾の狐は、透き通る声で裄智の叫びを遮った。黒い獣の顔が、九尾の顔に向けられる。
「人間になりたいと、言ったな?」
こくんと獣の顔は頷いた。その時にも涙の雫が地面に落ちる。
九尾の狐は少しだけ眉を下げ、いたわるように獣の首に手を伸ばし、優しく撫でた。
「・・・・・・獣は、涙を流さない」
ぴくっと獣の目が大きく開かれた。獣の大きな顔を抱き込むように、九尾の狐は首を優しく抱きしめた。
「お前は、人間だ」
九尾の狐の言葉に、ぶわっと獣の目から涙が溢れた。
「にん、げん・・・・・?」
「それ以外なんなんだよ。お前は俺を美しいと言ったが、俺はあやかしだ」
驚いたように、ぴんと黒犬の耳が立った。九尾の狐は、腕の中の獣がだんだん小さくなっていくのを感じながら抱きしめ続ける。
「てめぇに耽美主義があろうがなかろうが関係ねぇ。でも俺はてめぇの流した涙が綺麗だと思った。お前が人間だとも、思った。あやかしの俺に思われただけじゃ頼りないかもしれないけどな・・・・!」
九尾の狐の腕の中で、黒犬の毛は薄くなっていき、鼻は低く、口は小さくなり、骨格もみるみるうちに小さくなっていく。
「お前は、人間だ・・・」
人間に戻っていった裄智の背を撫でて、九尾の狐は言った。嗚咽を漏らしていた裄智は、堰を切ったようにわんわんと鳴き始めた。
子供のように、泣き続ける裄智の背を撫でて、九尾の狐は人間というものを少し知った。
「俺は、人間が醜い生き物で、争いを好む残虐性の勝った生き物かと思っていた。戦をしては家を焼き、死に、泣いて後悔して繰り返す人間が愚かだとも思った」
裄智は泣きながら九尾の狐の独白を聞き、途切れ途切れに、でも固く誓って言った。
「醜、くても・・・・・・っ! おろかでも・・・・・っ、おれは人間でありたい・・・!」
「・・・かのような綺麗な雫を流れる者がそう願うんだ。人間は、俺が思っているだけではないんだろうぜ」
―――ああ、俺は早くに結論を出しすぎたのだろう。
九尾の狐は声を上げるのを止め、愚図る裄智から身を離す。
「・・・・・どこへ?」
―――人間は、争うだけではないらしい。野に生きる鳥や動物たちのように優しく、雲のように形を変え、荒れたり、涼風を吹かせたり。悔やんで願ったり、幸せを求めて戦を繰り返す。
愚かなんじゃない。拙(つたな)く、まだ幼い生き物なんだ。
九尾の狐は楽しそうに笑って、裄智を見た。
「・・もうしばらく、見ていこうかと思ってな」
久しく笑っていなかった頬の肉は、微妙に固かったけど。無理矢理、しかし望んで九尾の狐は口の端を上げて微笑んだ。
―――ああ、今なら心から思う。
友人の天狗が、最後に会ったときに言っていた。人間は奥が深いと。何にも興味を示さない友人が、人間を見るのは飽きないと興味を持っていた。
―――その通りだ。人間というのは、面白い。
眼から溢れる涙を拳で拭い、背を向け歩き始めた九尾の狐に向かって裄智は大きな声で言った。
「・・・また、会おうな!」
もう会うことはないだろう、そう思ったが口には出さず九尾の狐は振り返った。そして自分が出来うる礼を兼ねて、祝詞を送る。九尾の狐が出来うるたった一つのこと。
「・・・・・未来永劫、お前とお前の一族の幸福を祈ろう。裄智」
にぱっと満面の笑顔で、九尾の狐は最後に言った。
「感謝する」
九尾の狐は、スッと闇の中に姿を消していった。
裄智は、闇に消えていったあやかしの姿を見つめ、そのまま昔の出来事を思い出していた。
今からもう十年前。裄智が七つの時に裄智の母は死んだ。『犬神様』と崇められる裄智たちは村から特別視され、敬遠されがちだった。
遊びたい盛りの裄智は、母の仕事を手伝って森に入った。母も他の子供達と遊ぶことの出来ない裄智を思って、裄智が望めばいつでも森に遊びに行かせてくれた。森の中で、動物たちに会い、川で泳ぎ、夕飯の手助けのために魚を捕ったり木の実を拾ったりしながら、裄智は森で一人遊んでいた。手にいっぱい食料を持って帰ればいつも優しい母は笑った。いつでも、家に帰れば母が居る。
それが普通だと思っていた。
そんな毎日の中で。
「・・・・・・・・・・誰?」
心地よい木陰で昼寝をしていた裄智に初めて母以外の声がかけられた。裄智は驚いて飛び起き、声の元を見た。そして目を丸くする。
自分と同じくらいの大きさの人間。子供。子供は驚いている裄智を見て、笑った。
「見ないヤツだな。一緒に遊ぼうよ」
母のような優しい笑顔。裄智はこくこくと頷いた。差し出された手を握り裄智は立ち上がった。
子供は懐っこい笑顔で名乗った。
「おれ、佐吉。お前は?」
「ゆ、裄智!」
「裄智か! じゃあ裄智、行こう」
不変に続いていた毎日。今までも、これからも変わらないと思っていた毎日の中で。
裄智は佐吉と出会った。
初めて出来た友人。彼の両親が、裄智のことを知るまでは周りには秘密にしてよく遊んだ。裄智が犬神使いの子と知るとなかなか会えなくなったけれど。
随分前の佐吉との出会いを思い出し、裄智は暗闇の中で呟いた。
「・・・そういやあの時も、佐吉が教えてくれて詩を詠んだんだっけ」
ざぁぁぁ、と風が葉と花びらを舞わした。素肌の肩に花びらが付き、裄智は微笑んだ。
名も聞かなかった。だがあやかしだと言っていた。犬神と恐れられた自分を慰め、励まして去っていった。優しいあやかしだった。
「・・・・・・・・忘れないよ」
未来永劫、子孫の幸福まで祈っていったあやかしは、とても美しく、優しかった。
* * * * *
時は流れ、現代―――。
桜の花が咲き誇る昼の日。天気も良い今日、蔵の整理に精を出す犬上家。
「うわー古いねーコレ」
「余計な所はしなくていい。資料を探しやすいように整理したいんだ」
宗方が手を動かしながら物珍しげにうろうろする頼正に言うが、頼正は八千夜に鏡を持っていく。
「見てよこれ。年代物っぽいよね、真実を映すんだって」
「いいからこっち手伝え!」
珍しく小説に行き詰まっている宗方は、気晴らしもかねて蔵の整理をすると言いだした。手伝う気のない頼正とそれに付き合う八千夜に諦めを覚えながら、きょろきょろと辺りを見る。両手いっぱいに本を抱えて移動しながら、毒づく。
「春日のやつどこ行きやがった・・・!?」
宗方がそろそろ探しているだろうと思いながら、当の春日は犬上家の広い庭を歩いていた。うららかな春の日を受けて目を細め、桜の花びらに微笑を浮かべる。
「宗方が、怒るだろうなぁ」
こんなところでフラフラしていたら、居候の自分は宗方に怒られるだろうが今はこうしていたかった。
『あの日』もこんな春だった。
――――また、会おうな!
そう言った人間の笑顔は今でも覚えている。桜の花を見て、呟いた。不器用だけど素直で、悲しみを持ちながらも笑う。そんなやつだった。
「・・・・・・・・・お前の子孫は、お前によく似ているよ・・・裄智」
春風に髪を舞わせて目を細めると、春日は後ろを向いて蔵に歩を向けた。
そのころ蔵では。やはり蔵の中を引っかき回してばかりで全く手伝っていない頼正の声が元気に響いた。
「あ、巻物だ。うわ開けられるかなコレ・・・・」
「ずいぶんと年代物だな」
そっと巻物を開いて、頼正は何行か目を通した。その内に見つけたある一文を音読する。
「・・・・・・へぇ、詩(うた)かな。・・・・『水に遇(あ)い
緑の中で光る君 その過ぎ去るは
春の日の如し』だって。えぇっと、・・・・? ああ、駄目だ。古すぎて名前まで読めないや」
「ここにあると言うことはお前の先祖だろうな。恋文、か?」
「そんな感じかなぁ? 儚く散った、って感じだけど」
頼正の後ろから、宗方の声がかけられる。
「てめぇらいい加減にしろよ、さっさとやれ!」
怒気が含まれ始めたので頼正と八千夜はやっと真剣に手伝い始める。崩れそうな巻物を開いたときと同じように丁寧に巻き戻し、木箱にしまって元の場所に戻した。その時、扉から入っていた光が遮られる。
「すまんすまん、ちょっと桜に目を奪われてた」
苦笑しながら春日がやってきた。春日に宗方はどんっと本や紙の束を押しつける。
「ちょうどいい。これ、俺の部屋にまで持ってけ」
「へいへい」
不機嫌そうに眉間にしわを寄せている宗方と、今やっと手伝い始めたと見える頼正を交互に見てから、春日は多少重量感のあるそれを持って外に出た。
宙を舞う桜の花びらと暖かい日差し。緩やかな風と新緑の薫りを体中で感じる。
こんな心地よい春の日は、すぐに過ぎ去ってしまうだろう。
それでも。いつまでも続けばいいなと思ってしまう、そんな心地よい一日だった。
――――水に遇い 緑の中で光る君 その過ぎ去るは
春の日の如し。
その詩の意味は。
『水場で出会い、見慣れた山の中でも木漏れ日の煌めきにも劣らぬその美しい姿が去るのはまるで、うららかな春の日のように、早々に過ぎ去ってしまった。』
犬神家始祖、裄智による作品である。
※作中の詩に関しては、素人である作者が雰囲気重視で作ったデタラメです。不適切な表現がありましても広い心で見逃して下さることを願います。