『外伝3 夏 〜願い事〜』
―――――十年前。
ミーンミーンと、夏の風物詩が大騒ぎのある日。
「兄ちゃーん。暇―」
「・・・・ちょっと待ってろ」
そう言ってからもう一時間くらい経った。頬を膨らませて頼正は外を見る。
「今日もあっついなぁ・・・」
山頂にある犬上家では、比較的涼しい方だがそうは言っても暑い。
「外に、行きたいなぁ・・・・・・・・」
頼正十一歳。宗方二十七歳。
外の広さに、頼正が興味を持った日であった。
* * *
「・・・・・・・・・・・外に行きたい?」
宗方は眉間に皺を寄せて聞き返した。頼正は真摯な瞳を向けてしっかりと頷いた。
きつく固められた小さい拳を見て、宗方は「ああ、誤魔化せないな」と思う。そろそろ頼正がそう言い出す気がしていた。自分もそうだった。
だからこの言葉を言うのはつらかった。
「駄目だ」
「なんで!?」
犬上家には、決して犯してはならない条約がある。
一、犬上家は梔村との関わりを禁ず。
一、山から下りるべからず。
一、子を成すべからず。
絶対に、破ってはならないのだ。
「だからなんで? どうして僕たちは山から出ちゃ行けないの?! 嫌われているから? 僕たちが『犬神憑き』だから、閉じこめられるの?」
「・・・・そうだ。死ぬまで、ここに居ることを条件に生かされている」
十一歳だが、頼正の外見は幼かった。その外見に似合う頬の膨らませ方で口を尖らせた。宗方の外見も、十五〜六歳くらいだ。犬神憑きであるがゆえの異例な生き方の理由の一つだった。
「そんなの生きてるって言わないよ!」
飼われてるじゃないか。
「・・・・一回だけで良いから」
俯きがちな頼正の懇願でも、宗方は頷くことを躊躇った。
(でも、こいつがこんなに頼み事をするのは初めてかも知れない・・・)
宗方が頼正を大事にするように、頼正も宗方に気を遣っている。絶対に困らせる様なことをしない、典型的な『良い子』なのだ。
(その頼正がこんなに頼んでいるのに)
それでも叶えてやれないのだろうか。
―――殺せ! 犬神憑きのせいだ・・・!
―――人殺し・・・っ。
―――化け物めェッ!!!
「・・・・・・」
宗方は静かに首を横に振った。頼正は傷ついた顔をした後、小さく微笑んだ。
「わかった、ごめん」
困らせたよね。
その痛々しい笑顔に、今度は宗方の良心が痛んだ。他のことなら躊躇ったりしない。我が儘を言わない頼正の願いを叶えてやりたいが、それが誰の不幸に繋がると考えると・・・。
「・・・・・・・・・・頼正」
「なに?」
障子に手をかけ部屋を出ようとした頼正を、宗方は引き止めた。
(なに引き止めてんだよ俺・・・)
同じことを繰り返させたりしないって、霞織の墓前に誓っただろうに。
「ちょっとだけ、だからな」
止めないことが、頼正の不幸になるかも知れないのに。それでも今、頼正を悲しませるならどっちも一緒だと思った。
「ちょっとだけだ・・・」
見逃してくれよ。
頼正の笑顔を見て、宗方は心の中で八年前の犠牲者達に謝った。
下山の途中、宗方は頼正を連れて山神の祠に寄った。
「? どうしたの?」
宗方は頼正の問いに応えず、大股に祠の前まで行くとそっと古ぼけた戸を開けた。中にある台座に載っていたのは、半透明なガラスの欠片だった。ほのかに光を放つそれを、はたしてガラスと呼んでいいのかどうかは別として。
「なにそれ? 綺麗だね」
宗方はそれに紐を付けながら完結に答えた。
「光石っていう、もともと犬上家の結界をつくっている石だ」
光石を取り付けた紐を頼正の首にかけてやりながら、宗方は語尾を強めた。
「いいか、絶対に外すな。もしもの時に、犬神が暴れるのを抑えてくれる」
「へー」
何故か、不思議な感じがした。頼正は自分の首に掛かっているそれを見て、触ってみる。
「・・・・・既視感」
呟いた頼正を、宗方は振り返った。
「何か今、既視感覚えた」
前にもこんなことがあったような気がする。初めてなのに。
くすぐったそうにクスクス笑い出した頼正を見て、宗方も少しだけ微笑んだ。楽しそうに笑う頼正を見て、連れてきて良かったのだと気持ちを正当化させた。
ちゃりっと頼正の胸元で揺れるそれは、本来持ち出してはならない。というか犬上家が外に出ようとする試みが初めてのことだった。
(俺は当主失格だな)
父は。厳しかった父は、絶対に許さなかった。霞織に会うために無断で家を抜け出した時は本気で殴られた。山より結界の強い家の敷地から出ることすら懸念していた。
自分より危険度が高い頼正を山から連れ出すことが、どれだけ人々に不安を与えるのか。想像もつかない。だが。
(それでも構うものか)
―――頼正が笑うなら。
(それ以外の考えなんて、どうでも良い・・・)
宗方が生きる上で成り立つのは頼正だ。頼正だけを守れればいい。
頼正と宗方は、そのまま山道を裏側に回って梔村とは逆方面の麓に向かった。まだまだ山が続くが、寂れた駅まで着けば後は人の波に紛れることも容易い。
山の結界が切れる境界線近くから、二人は梺に広がる景色を見つめた。
澄んだ風が全身を撫で、高揚感が高まっていく。頼正が叫んだ。
「兄ちゃん! すっごい広い!」
宗方も頷いた。
どうして今まで出なかったのか。
そう思えるほどに、外の世界は魅力的で広かったのだ。
実際、夢を見ている自覚はあったが現実にぶつかって覚めると、アッサリしたものだった。
「・・・・大丈夫か頼正」
「だいじょうぶじゃにゃい」
人が詰め込まれすぎて、せかせか生き急いでいるような街だった。
空気は山と比べ物にならないほど澱んでいたし、音もこれほどの騒音とは思っていなかった。
「どうしてみんなへいきなのかな」
「・・・ニブってんだろ」
逆に鋭い感覚を持つ者は、耐え難い。頼正は鼻を詰まらせて時々咽せていた。
「人間はともかく・・・・」
宗方はリールに繋がれて散歩している犬を見た。彼らがこの空気に平気なのなら何故自分たちがこんなに苦しんでいるのか。
(育った場所で、適応しているのか)
そう考えるのが妥当だった。
喧噪と異臭で耐えない都会は、理想が上回りすぎて少し、落胆の色が残った。どこへ向かって急いでいるのか、人々の流れを見て宗方は呟いた。うんざりするほど多い人の中に紛れると、きっと何もかも分からなくなりそうだ。
「・・・勝手にどっか行くなよ頼正―――・・・・」
返事がないので隣を見ると。
「・・・・・・・・・・」
忽然と、頼正の姿は消えていた。
遅かったか、と。宗方は思うより冷静に、脱力して息をついた。
* * *
頼正が気付いた時には、宗方の姿がなかった。
「あれ?」
喧噪で音が紛れた。匂いがかき消された。人の多さに気配もわからなかった。
気が付けば一人で歩いていた頼正は、ぽりぽりと頭を掻いた。焦燥が浮かばない自分に、どうしたものかと少し考えた。
(『焦りの前に考えろ』)
それも兄の教えだった。だから頼正は近くを探してみることにした。それが一番確実で、有効な手段だからだ。
角を曲がった時、頼正は人とぶつかった。
「わっぷ!」
軽い頼正が後ろに転がると、ぶつかった男性は急いだように謝った。
「ああっ、すまない・・・!」
帽子を深くかぶっている痩せたその男性、年齢は四十代後半か五十代間近だろうか。
恐縮している男性に笑いかけて、頼正は出された手を取って礼を言った。見かけは幼くとも頼正はもう十一歳だし、犬上家の人間は頑丈だ。
「・・・・ボク、一人かい?」
『ボク』。言われ慣れない言葉にむず痒くなって頼正は名乗った。
「僕は頼正だよ。おじさんは?」
「頼正君か。・・・・・すまないけれど頼正君」
がしっ、と男性は頼正の腕を掴んだ。
「はへ?」
「・・・・・本当にすまないけれど、ちょっと誘拐されてくれ」
申し訳なさそうにそう言うので。頼正は腕を引っぱられて早足に歩き始めるまで声を出せなかった。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・え?」
人生初。
・・・誘拐されました。
* * *
「あ〜ちょっとそこの君!」
頼正を捜索中。宗方は自転車に乗った若い警官に呼び止められて立ち止まった。
(・・・『警官』か)
初めて見るので宗方がじっと見つめていると、その警官は少し怒ったように手を腰に当て、手帳を取り出した。
「君どこの学校? 学生でしょ? こんな時間に何してるの?」
宗方は呆れて一瞬停止した。学生も何も、宗方は二十七歳だ。
(こんな新米よりも年上なんだが・・・・)
いかんせん、見た目は中高生くらいだろう。警官が間違えるのは仕方がないことだ。
「いや・・・学校には行ってない」
「登校拒否?」
この新米。宗方は心の中で毒づいた。本当に登校拒否児童だったら甚く傷つくぞ。
質問に答えずに、正直に答えることにした。
「弟が迷子になったので捜している」
「学校サボってまで?」
「だから学校には通っていない」
「だって中学生くらいでしょ? 義務教育課程を終えてないでしょ?」
「・・・・・あーもう」
もう駄目だ。人と(てゆーかコイツと)話をするのが煩わしい。
宗方は苛々としながら言い訳を探した。・・・それよりももっと楽な手段を思いつくまで。
「・・・・あ!」
宗方は警官の後ろを見てそう言った。律儀に警官が振り返った隙に、宗方は逃走を試みた。
「・・・・? いったいどうし・・・・・あ! 待ちなさいっ」
数秒後、それに気付いた警官が宗方を追いかけた。宗方は普通の人が通りにくい道を選んで、柵に手を付いて植え込みを飛び越える。
「すまんが俺は忙しい!」
「待ちなさーい!」
しかし。新米警官は、若さ特有の真っ直ぐな労働意欲を見せて、宗方を追ってきた。
「追ってくんじゃねー!!」
「逃げるんじゃなーい!」
そうして、追いかけっこが始まった。
* * *
そのころ。頼正は振り払おうと思えばいつでも手を振り払えるので自主的に歩を進めながら、男に問いかけていた。
「おじさーん。どうして僕を誘拐したいの?」
「・・・・・・・お金が、どうしても必要なんだ。すまないね、怖いかい?」
気が弱く、本当に申し訳なさそうにいう男に、頼正は首を振った。
「別に。それより身代金目当てだとしても、僕、両親いないよ?」
「・・・・・・・え?」
「僕の家族は、兄ちゃんだけ」
それが頼正にとっては普通のことだった。だから正直にそう言ったのだが、男はさらに申し訳なさそうに顔を曇らせた。
「そうか・・・・気の毒に」
「? 何が」
「ご両親を、早くに亡くしたんだね」
「僕は覚えてないから。兄ちゃんは時々、僕がそのことを聞くと哀しそうな顔をするけど」
頼正は情けなく笑った。どうして見ず知らずの人にこんなことを喋っているのか分からなかったが、何でも話せた。兄以外の人間との、生まれて初めての接触だといったら驚くだろうか。
「どうしてお金が欲しいの?」
何でも話せるのは、頼正だけではないようだ。男もまた、苦笑して頼正と繋いでいる手を、少し強く握った。
「・・・・娘が、病気なんだ」
心臓を悪くした娘の手術に、大金がいる。急いで手術をしないと手遅れになりかねない。
「なら急がないと」
「三百万」
男は顔を手で隠した。心底自身を情けないというように、頼正と繋いだ手から少し震えているのが伝わった。
「職を失って・・・娘のために、それだけの金も払ってやれない・・・・!」
頼正はその手の握る強さに少し俯いた。その強さから、男の苦悩が伝わるような気がした。
「だからって、子供誘拐した身代金で助けて貰って、娘さん喜ぶの?」
「・・・・・・娘は喜ばないだろうな。だが助かってくれれば、私が嬉しい・・・!」
自分勝手なエゴだ。と、男は自嘲気味に言った。だが頼正は当たり前の感情だろうと思った。それが、親なんだろう?
都会に来るまでに時間が掛かったので、もうすぐ日が暮れようとしていた。橙がかった空を見ながら、男は頼正を連れて歩き続けた。宛もなく歩いていた男の足取りは重く、踏み出す一歩は弱々しかった。
「・・・だが君のように良い子を利用してまで、私のエゴを貫くわけにはいかないな」
男はまた謝った。頼正は手を握りかえして呟いた。
「・・・・・僕は良い子じゃないよ」
自分にはいない両親。兄がいるから構わない。そう思ってきたのに、男の話を聞いた頼正は、この男の娘を、病気で死にかけだという娘を、羨ましいと思ったのだ。
生きていてくれることが嬉しい、と親に言って貰えるその子が羨ましくなった。今もどこかで、きっと病気で苦しんでいるだろうその子を、だ。
「・・・・ごめんなさい・・・っ」
頼正は、苦しくなって涙を零した。
きっと少女は、元気な頼正を羨ましいと思うだろう。無い物ねだりがどれほど虚しいものか、これほど胸が痛いこととは思わなかった。
(ごめんね・・・!)
会ったこともない君へ。
家という檻に閉じこめられて、飼われて、それを死んでいることと同じだと思っていた。生きているなんて言わないで、飼われた犬のようだと。犬でももっと自由だと。
良識の狭さを思い知らされて。死に直面する少女を羨んで。
自分を初めて、狡くて醜い奴だと思った。
「・・・・・・ありがとう頼正君。君はやっぱり良い子だよ」
男の微笑みと優しい言葉。頼正はもっと哀しくなった。
「・・・・・っ、頼正!」
零れる涙を擦って、顔を上げると焦った様子の宗方がいた。いつも家では和服で、静かな時を好む兄の、慌てて走る姿がとても珍しかった。
「やっと見つけた・・・っ」
「・・・兄ちゃん・・・っ」
頼正は、宗方に抱きついた。顔をすりつけ、強く抱きしめた。
「頼正君の、お兄さんかい?」
男は儚く微笑んで宗方に訊いた。宗方は頼正の背を撫でながら眉を寄せた。
「ああ。あんたは?」
「私は・・・」
頼正君を誘拐しようとした、誘拐未遂犯だ。
男がそう言う前に、顔を伏せたまま頼正が応えた。
「迷子になった僕を、保護してくれたおじさん」
「・・・・・・頼正君・・・」
男が躊躇う素振りを見せた。でも頼正は、そうだと言い張った。
宗方はとりあえず男に礼を言った。男はやはり恐縮して改まって、「いいや」と首を振った。
「私こそ、礼を言いたい・・・・ありがとう頼正君」
まだ道はあるから。
死にそうになってでも職を探す。恥なんていくら掻いたっていい。命を担保に借金したっていい。どうしても金がいる。だけど、自分の正義は貫く。
頼正の涙が、嬉しかったから。男のしたことを恥ずかしいと思わせるような、純粋で真っ直ぐな涙だったから。
例え自分のエゴでも、この少年を裏切ってはいけないと思ったから。
娘の命が掛かっていても、自分の『正義』を思い出したから。
「頼正君、私はもう少し頑張るよ」
「・・・っ、だってそれじゃ、娘さんが・・・!」
「確かに急ぐ。だけど、それは娘を悲しませる自分のエゴだ」
男は宗方に会釈して背を向けた。急いで職探しに行くつもりだろう。
頼正は、男に手を振った。もう会うことはないだろうと漠然と思った。家に帰って、それでもう頼正の外出はお終いだ。もう二度と結界から出ることはなく、兄以外の誰とも会うこともなく死ぬのだろう。
もし再び、家から出る日が来るとしたら。
「あ! 君ィ!!」
「〜〜〜くそっ、しつけーな! 頼正、帰るぞ!」
宗方を追って、新米警官が叫んだ。もう日が暮れるので、そうしたら完全に撒けると思った宗方は、頼正を引っぱって走った。
頼正は宗方が慌てていた理由がコレだと知り、おかしくなってくすっと笑った。
「お巡りさん? 兄ちゃん何したんだよ」
「知るか!」
田畑が見え始めるところまで行くと、完全に陽は落ちて、警官の姿がやっと見えなくなった。
疲れたと訴えれば、兄は気まずさからか黙って頼正を背に乗せた。大人しくその背に掴まりながら、頼正はふと空を眺めた。
「・・・・家よりも、星が少ないね」
「まだこの辺は人工灯があるからな」
山奥の自宅の方が、星がよく見える。だが頼正はいつもと違う空と言うだけで新鮮さを感じた。
外は広くてわくわくした。だけどそればっかりじゃなくて、苦しんだり悩んだりする人がいる。自分自身よりも『痛い』想いをする人だって、きっといるのだ。
頼正は宗方の首に腕を回した。だって自分には兄がいる。誰もいない人だっているかもしれない。だから頼正は不幸せじゃない。
「あ、流れ星」
いつもより遠く、明るい空から見える。長い尾を引く一瞬の輝き。
頼正が呟き、宗方も空を見た。
「・・・流れ星って願いを叶えるってホントかな」
「アマキツネって説もあるからな」
「アマキツネ?」
「流れ星は、空を駆けているアマキツネってな。アマキツネが人の願いを叶えるとかなんとか」
「へぇ〜・・・」
流れ星でも、アマキツネでも、何でも良い。
願い事をしてもいいですか。
宗方が背負ってくれているので、頼正は上ばっかり眺めていた。空ばかり見上げて、流れ星を待つ。意外と多い流れ星の輝きを見て、思う。
―――会ったこともない君へ。
僕が羨んだ薄命の少女。今もどこかで苦しんでいるかも知れない心優しい男の娘。
どうか助かって下さい。どうぞこの世を生きて下さい。
自分勝手なエゴを持つ人間はたくさんいて。エゴと正義を併せ持つ想いはきっと心を痛くした。あの男は、きっと君のために命を懸ける。
首から提げている光石を無意識に掴んだ。自分は、不幸なんかじゃない。
遠くて明るい夜空の中で、長く尾を引き星が流れる。
ただただ、強く願うことは。
――――会ったこともない、少女の命。
どうかどうか。願いを叶えて。
(僕はそれを確かめることも、もう出来ないから)
残りの生涯を、兄と暮らす。捕らえられた檻の中で。
(それでも僕は生きていけるから・・・・)
明日の命をも危ぶまれる少女の命を、ただ願った。
* * * * *
「・・・・うーん、よっく寝たぁ!」
編集部の共同ソファを陣取って眠りこけていた香川紀子は、起きるなりそう叫んだ。朝というより時刻は正午近くで、仕事仲間は「おはよう」ではなく「おそよう」とからかった。それらに軽く手で応じて、凝り固まった肩を解し、コーヒーを入れてきた若い新人に礼を言う。
(人があくせく働く中で惰眠を貪ることほど気持ちいいことないわね、きっと)
締め切りを破る作家のおかげで、昨夜遅くまで編集とチェック作業をしていた紀子は、荒れる肌を気にしながらも、以前の自分に比べるとその違いに小さく笑う。
今言えば誰もが疑うだろうが、紀子は病弱だった。心臓疾患を抱え、入院生活が長く親にも迷惑とお金をかけっぱなしだった。
(窓から眺めてばっかりだったもんなぁ・・・)
ベッドから出ることもないまま、死ぬかと思っていた。
ピリリ、と紀子は自分の懐で鳴る携帯電話を取り出した。
「―――はいもしもしー。あ、お父さん・・・・・うん、え? ああ昨日徹夜で仕上げたから時間あるよ。うん。・・・・・・・・・・・はーいわかった、じゃあ夜にね」
近くを通った仕事仲間が、興味を引かれたようだった。
「お父様からですか?」
「うん。なんかねー、そろそろ退職なんだけど退職金で何か食べに行こうかって」
「へ〜、いいですねぇ」
病気だった紀子のために、血を吐く思いで失った職を再び手にした自慢の父だ。
紀子は腕時計を見た。時間はまだまだたくさんあった。
「ぃよっし! ちょっくら次はむーちゃん所にでも行ってくるかな♪」
「あ、犬上先生ですかぁ? いいですよねぇ、彼は締め切り守ってくれるから〜」
手強い作者から原稿を催促に行く他の編集者達は、羨ましそうにそう言った。にっこり笑って、紀子は「そうね」と頷いた。
―――――どうか、願いを叶えて下さい。
空を流れる星屑に、そう願った人は何人いるのだろうか。