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 走ったけれど、なんせ隣町だし。一駅分の距離よりも短い区間だが、徒歩だと三十分くらいの距離。この四人が走れば十数分、しかし雨の勢いは強まる一方だったので。
「・・・・・・・・・・・おーおー、お揃いで」
 フクロウは煙草をくわえたまま、呆れたように――どこか面白そうに――言った。
「〜〜〜うるせぇ、タオル!」
「はいはい、・・・・・・もうお前ら風呂場行けよ。濡れ鼠じゃん」
 全身から絞れるほど雨に打たれた四人と一匹は、疲れたようにフクロウの家に飛び込んだ。マンションも大して遠くはないが、どちらかというと梟クリニックのほうが近かったのだ。
 宗方の言葉に不快になった様子もなく、フクロウはバスタオルを取ってきた。四人にそれぞれ放ってやりながら、楽しそうに腕を組む。
「お前らいっつもオレを楽しませてくれるな〜、もう大好き」
「ほざけ。・・・・ぇっくし!」
「頼正ぁ、暖炉の部屋に連れてったれよ。俺は茶ぁいれるわ」
「あ、ありがとうドクター・・・・・・ぇっくし!」
 兄弟で同じようにくしゃみをするので、フクロウは爆笑して宗方に睨まれた。
「乾燥機はあっち。風呂入るならそっち。暖炉はこっち」
 フクロウはそれだけ言って、茶を沸かしに行った。タオルをかぶったまま、頼正は靴を脱いだ。ぐちゅぐちゅに濡れていて不快だが、みんな同じようになっているだろう。
「ドクターの家、なんでかなんでも揃ってるから。暖炉もあるんだよ、あっち。冬に向けて薪を仕入れてたから、すぐ暖めるよ」
 一行は、とりあえずその部屋に向かった。廊下の途中であることに気が付いた八千夜は宗方に指摘する。
「宗方、血がついている」
「―――あ?」
 頬の傷は、犬神の血を引く宗方の回復力でほぼ塞がっているはずだ。服の襟元の血が滲むのを見て、宗方は手を振った。
「雨で滲んだか。頬の傷だろ、気にしなくて良い」
 そこから、話が始まった。妖狐属の戦いの話と、頼正の神託の話。
 フクロウは望んで話に参加した。しかし徹底的に聞き役に廻り、不思議になることはあっただろうに何も訊かなかった。曰く。
「摩訶不思議。それこそ俺が求めているものだ! 簡単に答えを貰ってたら面白くねーだろ。自分であれこれ考えて想像して確信に迫ってから、答えは聞く」
 それに関しては、放っておいても問題ないと八千夜は考えた。
「ふんふん、まぁお前達も今日は疲れたろ――何してたか知らないけど――。よければ泊まってけば?」
「ううん、ドクター。そのことでも話があるんだ」
 頼正は、立ちあがってフクロウの前に来た。そして真剣な顔で。
「ありがとう、ございました。で、あのぅ・・・・」
「あ、帰るの?」
「――――へ?」
 フクロウはにっと笑った。
「帰りたくなった? お兄ちゃんのトコに」
「お兄ちゃん言うな」
 宗方が嫌そうに口を挟んだ。からかいを含んだようなフクロウの言葉に、頼正は笑って頷いた。
「・・・・・・はい」
「うん、たまには遊びに来い」
「はい、ありがとうございました」
「いやぁこっちもいい研究テーマだったよ、ありがとな」
 お前は十分、手術代を払ったよ。
 だいぶ渋い顔をして、宗方がフクロウに言った。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ありがとな」
「無理して言わなくてもいいよー宗方」
「違うと思うぞ。アレで精一杯なんだこやつは」
 八千夜の一言は、宗方が殴ったことで沈黙になった。フクロウは笑って、カルテのような物をいつも来ている白衣の下から取り出した。
「少しだけど、研究結果兼診断書の説明をしとこうか」
 暖炉の中で木が爆ぜる音と、フクロウが紙を捲る音が響く。
「犬上一族は、五感に優れているな。獣並みとまではいかないが、人よりも断然優れている。このまま都会じゃすぐにくたびれるだろうから麻痺薬がいるようならお前らに特別合うよう調合してやる。それと怪我の回復力についてはまだ未知数が多いが、細胞分裂と代謝が普通の人間に比べて早い。それでも成長が遅いのは、ちょっと異常だ」
 眼鏡を押し上げるフクロウが、チラリと宗方と頼正を見た。二人は関心が薄そうに――誰にも見て取れるくらい見かけだけで、実際真剣だろう――フクロウの言葉を聞いていた。
「種族が違うってんなら考えられるが、お前らの身体はほぼ人間のものだ。それでも他との違いが出ているのは、他に理由があると言える。だから異常が出たらすぐに言え」
「・・・・・・・人間に『近い』だけで、亜種もしくは異種という可能性は?」
 椅子に座る宗方が膝の上に肘を載せ、顎の前で指を組んで口元を隠しながら、前に立つフクロウを見上げた。
「まだ、わからない。お前達の祖先で、何か前例があるなら話は別だが」
「・・・・・・・・」
 頼正は不安そうに宗方の横顔を見た。宗方の脳裏の端には、記憶が甦る。
 血が薄まっていく過程で、血の薄い同種同士で子を成し始めたのは祖父からだ。しかし宗方が生まれる前に祖父は病死し、父や姉は殺された。宗方の推理している仮定に、確信はない。
「・・・・・ねぇよ」
「そうか。・・・じゃ、あとはこれをやる」
 そう言うと再び白衣の中から薬袋を取り出し、頼正に渡した。
「なにこれ?」
「あめ玉」
「はい?」
「・・・に、見せかけたオレ特製犬神対策薬。名付けて『わんころ兵衛』。味はレモン、グレープ、ストロベリーの三種。各包装紙入り」
「無駄なところでこだわってンじゃねぇよ。つーかなんだその名前は」
「わんわん(=犬)、コロリ(と倒す=抑える)、兵士・衛士(ワクチンたち)。なに? やっぱピーチとアップルいれて五種が良かった?」
 よくわからない男だ。宗方は一気に力の抜けた顔になる。
「そうじゃなくて。・・・・・もういい。・・・・・・結局の所、何ソレ」
 頼正ががさがさと薬袋の中からまた袋を取り出した。でかでかと『わんころ兵衛』と書かれている。その中には三色の飴玉が詰まっていた。市販のような作りだが、フクロウの手作りである。
「ま、一言で言えば精神安定剤? ストレス緩和剤とか」
「なんでンなモン必要なんだよ」
「頼正の話を聞くに、お前達肉食だろ? しかも山とかで捕れたてを喰う生活だったんだろ? だったら持ってけ。都会で暮らす以上、肉屋に並ぶ牛豚鳥か魚が主な生活だぞ」
 変わってしまう食生活に対する心配だったらしい。親切なことだ。
「ドクター、もしかして研究室に篭もってたのって、これ作ってたの?」
「そう」
 まめな男だ。
 頼正は礼を言って、宗方は一応会釈した。春日の膝の上で丸くなっていたネロは、顔を上げて春日の手を嘗めた。その後、フクロウの元へ行く。
「ネロがオレ以外で懐くのは初めて見たぞ色男。猫にもモテんのか?」
「春日だ。凛鈴・・・ネロが特別俺を慕ってくれているだけだ」
「へえ」
 大して興味も無さそうに、フクロウはネロの首元をくすぐった。嬉しそうに目を細めると、ネロは小さく鳴いた。
 事前にネロに、「フクロウには普通の猫として接する」と宣言されたので、誰もネロに応答を求めたり、喋れることを口外したりしない。頼正はやれやれと肩をすくめた。
「お前ら、これからは?」
 どうするんだ、とフクロウが聞けば。八千夜が口を開く前に、頼正が笑った。
「随分と、待たせちゃったから。今度は僕たちが八千夜くんの手伝いをするんだ」
「え?」
 八千夜が振り返ると、宗方と春日は気怠げに顔を見合わせてから、同時に八千夜を見た。
「春日にゃあ借りは返したが、お前のはまた別だしな」
「妖狐属に関わった金剛天狗を、無関係と払うような無下な真似はしねぇ」
 八千夜が驚いて口を薄く開く。二人は厄介だなぁと呟いた。だが満更でもないようだ。
「お待たせ八千夜くん。約束したもん、魅縒り石を探そう」
―――盟友として。
 八千夜が言った言葉だ。
―――おぬしの助力を請おう。
「・・・・・・・・・かたじけない」
 八千夜は微笑んだ。だが内心では心苦しさに頭を下げて謝っていた。
 服の上から、首に駆けた魅縒り石を握る。二つの欠片は、服の下で小さくちゃりっと音を立てる。
(魅縒り石は、あと一つ)
 だがそれももう、探す必要はない。
 場所はわかっている。一年後に向こうからやってくる。
(すまない、本当にすまない・・・!)
 どれだけ探しても見付からない。もう魅縒り石を探しても無駄なのだ。
 それでも一緒にいさせてくれ。あと一年を、お前達と共に過ごさせてくれ。
―――最後の我が儘だから。これで、最後だから。
 あと一年。お前達を騙すことを許してくれ。
 八千夜の謝罪は、誰にも気付かれずに、八千夜自身の胸に重圧をかける鉛のように溶け込んでいった。
 魅縒り石を探すという名目を保たせて。
 
 
 
     * * *
 
 
 
 八千夜は、頼正、宗方、春日と共にマンションの一室に帰ってきた。この部屋についての説明もあったが、とりあえず四人はダイニングのテーブルに着く。灰皿と煙草を置いて、宗方は斜め向かいの八千夜に訊ねた。
「基本的に、どうすればいい?」
 魅縒り石の説明は八千夜にしかできない。だが八千夜の答えは、他の三人の考えほど簡単なものではなかった。
「・・・・・・・そう言われても、魅縒り石を探すのは至難の業だ。情報集めからだが、その情報も人間達のように容易ではない」
「何故だ」
 宗方の正面、八千夜の隣に足を組んで腰掛けていた春日が、腕も組んで応えた。
「―――情報源のあやかしたちが、少ないからだろ」
「そうだ。魅縒り石は本来あやかしの間でのみ話される。だがあやかし自体が少なくなった今、魅縒り石は――梔村の時のように――別の名で、別の物として人間達が持っている可能性もある。そうなれば、より探すのは難しい」
「ふーん。じゃあとりあえず、フツーに生活しながら、情報を探すって言う、気の長ぁ〜い話ってコト?」
 頼正の核心を突いた言葉に、八千夜は重々しく頷いた。
「情報を風で集めるのにはもっと時間がかかる。気まぐれだからな」
「・・・・・・・・・・・・どうしようもねぇな」
 ふー、と長くため息をついた宗方は、頭を掻いてしばらく考えた後、顔を上げた。
「急がねぇなら、それでもいいか。・・・・時に、お前ら」
 お前ら、と言って頼正と八千夜を見た宗方は、短くなった煙草を灰皿に押しつける。そして二本目に手を伸ばした。が、春日に先に取り上げられる。
「煙草臭い」
「うるさい、返せ。―――お前ら、どうせ暇だろ。学校行け」
「・・・・・・・・・・・・は?」
「今更勉学は必要ねぇだろうけど、社会勉強してこい。見ため的に中学でいいだろ」
(がっこう?)
 八千夜は首を傾げるが、頼正は隣の兄に詰め寄った。その顔は兄の思いがけない言葉に驚いているが嬉しそうだ。
「・・・・ほんとに? え? いいの?」
「行きたいっつってただろーが。その代わりお前の実年齢は二十一だから、周りがガキ共だって忘れるな。怪力も隠しとけ。編入ってコトにするから、短期間だけだが」
「うん!」
「俺たちの成長の差はどうしようもない。だから、ずっとは行けないがそれでもいいんだな?」
「うん!」
 八千夜が疑問符を浮かべている間にも、話は進んでいった。
「やったー! ちょっと八千夜くん! 学校だって!」
「・・・なんだそれは」
「勉強するところだよ、子供達が集まって勉強するの」
「寺子屋か?」
「んーまぁ、そんな感じ。ちょっと来て!」
 跳びはねかねない勢いで喜ぶ頼正は八千夜の手を握って部屋に駆けていった。残された宗方は煙草をくわえ、宗方がライターを擦る前にその煙草に春日は指を鳴らして火を生み出して灯してやりながら問うた。
「頼正はどうしてあんなに嬉しそうなんだ?」
「・・・・・・・・・・・あいつはもう、八年・・・いや、十年くらいか? まあそのくらい前からずっと学校に行きたかったんだよ」
 昔に一度だけ。村に内緒で街に下りた時、頼正は友だち同士でふざけ合って笑う学生たちの姿を見て宗方に訊ねたことがあった。
『兄ちゃん、僕は・・・学校には行けないの?』
『行きたいのか?』
『・・・・うん』
 一瞬顔に影が差したが、頼正はすぐに笑った。
『でもいいや、僕の外見はどう見たって釣り合わないし』
 その頃から、頼正は無理にでも笑顔を絶やさない子供だったのだ。
「もともとアイツに普通の、一般的な生活をさせるためにここに来たんだ。しかし・・・」
 肺いっぱいに吸い込んだ紫煙をゆっくり吐き出して。宗方は椅子の背もたれに体重を掛けた。そのまま天井を見上げて、煙草を燻らす。
「・・・・・・それが良いことなのか、俺にはわからん」
「だから八千夜を付けたのか? 頼正が学校に行けなくなる日が来るのに備えて」
 頼正の成長は遅い。だからずっと同じ学校、友だち、街で暮らすことは出来ない。頼正だけでなく、街で生きる以上、幾度もの引っ越しは覚悟の上だ。宗方もいずれ光闇出版の出入りや紀子との接触も避けなければならない。周りが年老いていく中、いつまでも若いままではいられないから。
「ふん、八千夜も世間知らずだからな。ちょうど良いと思っただけだ」
「ハハ、お前らしいなー」
「因みに。お前も働かせるぞ」
「・・・・・・・・・・・・・え?」
 宗方は足を組んで、煙草を指に挟んで口元に当てた。
「あの二人は見かけがガキだからしょうがないが、お前は稼がせるから。食い扶持くらい稼げ」
「・・・・・マジでか」
「職務希望があるなら聞いておくが?」
「えー、つか俺は別に食わずとも平気なんだけど」
「うるせー働け。ついでに情報収集もな」
 それは、ついでか?
「・・・お前俺には容赦ないよな」
「何でお前に気ぃ使う必要があるんだよ。居候」
 何度目かわからないこのやりとりと不貞不貞しいその態度に、春日は諦めたように嘆息した。そのため息は、そうまでして此処にいたいと思える自分に対してだ。
 

 頼正は自分の部屋に付けられた小窓から身を乗り出すと、八千夜を呼んだ。
「八千夜くん! アレ!」
 狭い窓から八千夜が頼正の指さす方向を覗くと、町並みの中に公園とは違う広い空間があった。
「あれが学校だよ。同じ歳の子供がね、集まるんだ。日本では義務教育って言って、絶対中学校まではいかなきゃいけないんだよ」
「ほーう、あの建物が・・・」
 子供達が集まって学ぶ舎としては、少々大きすぎるのではないかと八千夜は率直に思った。だが頼正が嬉しそうなので、自分も少々興味が湧いた。
「『学校』か・・・」
 何かを学ぶ、興味のあることを探す。人間達が作り出した空間。
(儂には無縁だった場所だが・・・・)
 どうせ一年だけなのだから。好きに生きよう。
 軽く微笑んで、八千夜と頼正は譲り合いながら小さな窓から校舎を眺める。
「・・・・・楽しみだな頼正」
「うん」
 これからの、限られた毎日が。
「本当に・・・・」
 八千夜の呟きは、儚く宙に消えていった。
 
 
 
 
 
     * * * * *
 
 
 
 
 
 とんとんとん。包丁の音が静かな室内で唯一リズミカルに響いていた。
 着替える時間も急かされて、今日もまた相変わらずスーツのまま調理を開始した清秋は出来上がった野菜炒めを皿に盛り、机に運ぶ。文句を付ける割にベジタリアンで小食な千影が時間になっても帰ってこないので、料理が冷めるのを気にしながらとりあえず着替える。
「・・・遅いな。もう九時なのに」
 壁掛け時計の針を見ながら呟く。エプロンをたたみ、ネクタイを緩めた。
 捜しに行った方がいいだろうか。しかし、捜すと言っても宛はないし、帰ってきた時に居ないとまたうるさいし、捜してやってもきっと可愛くない返事が返ってくる気がする。待っておくのが一番苛々するが賢明な判断だ。かといってこのまま料理が冷めてしまってもやっぱり千影は文句をたれる。
(なんか知らないけど、最近やけに楽しそうなんだよな・・・・)
 何も言わずに出かけることはしょっちゅうなので、いちいち清秋も聞かない。しかしまだ子供である千影を放っておくのは危険な気がする。・・・子供扱いすると、これまた機嫌が悪くなるが。
 我が儘で傍若無人で天の邪鬼で可愛くない同居人を思い浮かべて清秋はため息をつく。
(・・・どうしろと言うんだ)
 清秋が何度目かのため息をついた時。
「何してるんだよ、飯は?」
 千影が突然、清秋の後ろから現れた。吃驚した清秋は、心臓付近を抑えて振り返った。
「ぅおっ、お帰り。じゃなくて、帰ってきたら「ただいま」で、手を洗え」
「うるさい。ボクの親かお前」
 予想通りの可愛くない言葉に閉口しながら、とりあえず清秋は眉を寄せた。
「何処行ってたんだよ。ちゃんと飯時までには帰ってきなさい」
「ちょっとね、知り合いに嫌がらせしに行ってたんだ」
「・・・・・・・・・誰。ちょっと。どちら様に迷惑かけてきたの」
 清秋の言葉を無視して席に着いた千影は、並べられた料理を見てこれまた清秋の予想通り文句をたれた。
「なにこれ、肉嫌いだって言ったろ。一緒に炒めるなよ野菜が不味くなる。冷めてるし」
「好き嫌いするなー! 成長期は肉も食べろ、嫌いでも! あと冷めたのはおれのせいじゃないっ」
「・・・・機嫌悪いなぁ、なんだよ。しょうがない食べてやるか」
 やれやれと肩をすくめる千影に、浮かんだ怒りと拳を抑えて清秋も席に着いた。
「そういうお前は、最近機嫌良いじゃないか」
「・・・・・・・・・ボク?」
「そう、楽しそうだ」
 ご飯を掻き込みながら、清秋は苛立ったように頷いた。清秋の苛立ちを気にしないどころか、面白そうに千影は炒められた玉葱を口に運んでニヤリと笑う。
「もっと楽しくなるよ。一年後には」
「は? 気の長い話だなぁ」
「その時はあんたも呼んでやるよ」
 いつもでは考えられない言葉に、清秋は疑わしげに顔を近づけた。
「・・・・・・・なんだ、何たくらんでんだ?」
「むしろあんたがメインだから。それまでせいぜい働けよ」
 仕事も家事も。
「・・・仕事紹介してくれたのは感謝してるけどさー。おれ、どうも頭使う仕事苦手なんだよなぁ。身体動かす単調な仕事の方が好きだ」
「バカだもんね」
 身も蓋もない言い方に、清秋はがっくり肩を落とす。
「お前なぁ・・・・・・・・もうちょっと、人を傷つけない言い方出来ないのか?」
「記憶無いからって、待遇良くなると思うなよ」
 そう言われると弱い清秋は、少し目線を下げて食事を停止した。何か考える素振りの清秋に、千影はさっさと食事を終えてため息をついた。
「冗談だよ鬱陶しいな。さっさと食べちゃえよ」
 そう言ってテレビの前を陣取る千影に、清秋は俯いていた顔を上げる。
「ってこら! もっと食べろ! 半分以上残ってるだろうが」
「要らない」
 ケチを付けた野菜炒めも茶碗によそったご飯も、豆腐の味噌汁も。全て残っている。
「お前ね、百姓が泣くよ。もっとちゃんと味わってたくさん食べなさい。育てた人の心が籠もってんだからさぁ」
「・・・・・百姓じゃなくて、農家だろ」
「どっちでもいいの! ほら、味噌汁だけでも全部飲めって」
 清秋の言葉に押されて机に戻り、味噌汁の椀にだけ口を付けた千影は面倒くさそうに呟いた。
「まったく、こう言うところは忘れてないのか」
 記憶を失って、再構成されているはずなのに。根深い記憶だけは決して薄れない。身体に染みついた事情は、例え何度生まれ変わろうとも。
「・・・・千影」
「なんだよ」
「お前は、おれのことを知っているのか?」
 真剣なその表情を一瞥して、千影は味噌汁の椀を置いて首を振った。
「詳しくは知らない」
「ちょっとでも知っているなら・・・・」
 縋るようなその言葉。記憶の欠落という不安を少しでも払拭できるならという必死さが伝わってきた。だが千影は冷たく言い放つ。
「ボクはあんたと親しくなかった。こうして話をするのも、一緒に暮らすようになったのもついこの間が初めてだよ」
「そ、うか・・・・」
 がっかりした清秋の様子に理不尽な怒りを覚え、千影は再びテレビの前に置かれた自分専用の空間となりつつあるソファに座った。
(こいつは、あいつを奈落に突き落とす餌だ)
 ボクから全てを奪ったから。今度はボクが全てを奪い取る。
 存在を認識した時からすでに何も持っていなかった。アイツは自分を嘆くのに忙しく、ボクの存在の無意味さすら知らなかったんだ。
 それなのに。
(絶対に許さない)
 ボクよりも恵まれていたくせに。ボクよりも自分を不幸だと思っている。神に愛されて、選ばれたくせに。
「千影」
「・・・・・・・・・・なに?」
 突然、清秋が声を掛けてきた。
「お前は、どうだったんだ? おれはホラ、記憶がないけど。お前は今までどういうふうに暮らしてたんだ?」
「どうでもいいじゃないか」
「にべもない・・・・お前は覚えてるんだから、教えてくれても良いじゃないか」
「記憶があっても、思い出がなければ意味がない」
 千影の言葉に清秋は口を閉ざした。千影の目に、完全に怒りが見える。怒りと言うよりも、憎悪に近い。
「嫌いだ。全て」
「・・・・・・」
「アイツも、お前も。だから嫌いなんだ」
 アイツとは、八千夜のこと。いろんな物を持っているくせに、何も無いと思っている。そしてもっと何も持たない他人から奪っていくんだ。
 舌打ちして顔を逸らした千影にそっと近づき、清秋は千影の頭を撫でた。傷つけたのだとわかった上での行為だ。
「・・・・ごめん」
「触るな」
 叩いて振り払われたその手のやり場に困り、清秋は哀しそうな顔をした。千影は静かな怒りを清秋にぶつける。
「元はと言えば、お前のせいだろ・・・・お前の中途半端な優しさが『柱』を動かし、世界の均衡が崩れたせいで・・・・・!」
 憎悪に満ちた千影の深緑の瞳で睨まれ、清秋は控えめに聞き返す。
「・・・・・・・・え、なに・・・・・・・・・?」
 しかし千影はそれに答えるつもりはないらしく、再び舌打ちをしてソファから下りる。そして清秋を一瞥することもなく早足に奥の部屋に向かう。
「・・・・・・・・・・なんでもない。ボクは寝る、起こすなよ」
 残された清秋は、とりあえず立ち上がってテーブルに戻り、皿を水につけて洗い始める。千影が残した皿にはラップを掛け、きっと翌日自分が食べることになるのだろう。
 黙々と皿を洗いながら、千影の言葉を思い出した。
(『お前のせいだろ』・・・・・・・か)
――――貴様のせいだ・・・っ!
「!?」
 一瞬脳裏に浮かんだ映像に、清秋は手の甲で額を押さえる。突然速くなった鼓動を聞き、記憶の断片を探る。
――――儂は、望んではならなかったのに・・・・!
 哀しい記憶。苦しい記憶。哀れに思った気持ちは同情だった? それとも、千影の言う中途半端な優しさだったのか?
 誰かの涙に、胸が締め付けられた記憶。
 心の痛みは甦っても、記憶は戻らない。
「こんなに、切ない気持ちになるのに・・・・・・」
 清秋は自嘲する。誰でもない、自分に対してだ。
「おれは何も・・・・思い出せないのか」
 がんっ、とキッチンに両拳をぶつける。清秋は俯いて唇を噛んだ。
 数週間前。気付いたら清秋は街の中に立っていた。人が行き来する界隈でただ呆然と何故自分は此処にいるのか、自分は誰だと自問するよりも早く、目の前に千影が現れたのだ。
―――やあ。
―――・・・・・誰だ?
―――あんたは清秋。ボクは千影。とりあえずこっちついて来いよ。
 何も覚えていない清秋は、それを断る理由がなかった。
―――アンタ、おれのこと知ってるのか?
―――千影だって言ってるだろ。・・・あんたのことは、名前しか知らない。黙って付いてくれば良いんだよ。仕事をやる。
―――ここは、どこなんだ?
―――どこでも良いだろ。どうせ関係ない。
 何を訊いてもはぐらかすだけの千影。突然夢から覚めたような感覚を持つ清秋は、呆然と千影に付いていった。此処がどこかも、自分が誰かも、何もわからなかったから。
(・・・・・千影といれば、何か思い出すかもしれない)
 何をしたいのかもわからない自分。今とりあえず定めたことは、記憶を取り戻すことだ。
「・・・・・」
 時々甦る記憶の断片。自分は切なくて、哀しくて。目頭が熱くなって、胸が締め付けられる。
 顔はわからないけれど、誰かが隣にいた。
 そしてそいつはいつもつまらなさそうにしていて。無表情は、苦笑から、笑顔に変わるようになって。清秋も安心して、これからも楽しい日々が来るのが当然なのだと疑わなくて。
「こんなに・・・・っ、思っても・・・・・思い出せないなんて・・・!」
 切ない。思い出したい。なぜなら、最後に見たそいつの顔は。
(・・・・それも、『おれのせい』だっていうなら・・・っ)
―――――無表情だった顔を歪めて、泣いていたから。
 
 
 
 
 
     * * * * *
 
 
 
 
 
「行ってきまーす!」
「・・・・行ってきます」
 頼正が元気に、八千夜が照れくさそうに、そう言った。新聞をたたんで宗方は顔を玄関の方に向けた。
 詰め襟の学生服を何度も正す八千夜は、着慣れないその感覚にむず痒そうにしている。二学期半ばからの転入。頼正も八千夜も、公立中学の一年生だ。
「おー、行ってこい。・・・・・俺も行った方がいいか? 最初だし」
「んーん大丈夫。僕ももう子供じゃないんだからさ!」
「忘れてないなら良い。まあ、気楽に楽しんでこいよ、八千夜も」
「うむ・・・・」
 首元が苦しいのか、着心地が悪そうにしている八千夜の手を頼正は掴んで引っぱった。
「行こう! 八千夜くんっ」
「頼正、張り切りすぎだぞ!」
 ばたばたと、大して何も入っていない学校指定鞄を持って走る二人を見て、歯磨きをしながら春日は微笑ましく笑った。というよりも、からかうように八千夜を見た。
「お、似合ってるぜ八千夜。頼正も頑張ってこいよ」
「・・・・・どうせ馬子にも衣装と思っておるのだろう。いっそ笑え」
 ふて腐れる八千夜の頭をぐしゃぐしゃとかき回して、春日は声を上げて笑った。
「ハハッ、ホンットにただのガキみたいだぞお前! 良い傾向だ色んな意味で。・・・・宗方の言う通り、楽しんでこいよ!」
 乱れた髪を簡単に直して、八千夜は頷いた。
「兄ちゃんが言ってたけど、僕たち同じクラスだって。一年四組」
「儂はどうも、想像がつかんのだが。・・・・・クラス・・・とか。先生というのは、師のことか?」
「ま、そんなもんだよ。気楽に行こうよ気楽に」
 朝から元気に出かけていった二人。それを見送って、宗方は再び新聞に目を落とした。つい先日まとめていた妖怪資料は紀子に提出したので、しばらく宗方は自由だ。次の仕事の予定はまだ無い。
「・・・・宗方ぁ」
「・・・・・なんだ、気持ち悪い声を出すな」
 春日の言葉を切り捨てて、宗方はとりあえず顔を向けた。春日は口をすすいで洗面所から戻りながら、宗方の方をみてニヤリと笑う。
「お前は頼正に普通の生活をさせたいと言ったな」
「だからなんだ」
「俺も、八千夜に人間らしい生活をさせてやりたいんだよ」
 春日は椅子に座って、背もたれに凭れた。要領を得ない春日の言葉に首を傾げる宗方を見て、春日は苦笑する。
「俺なぁ、笑い癖があるんだ」
「知ってる。いつもヘラヘラ笑ってんじゃねぇか」
「うわヒッデェ。でも、笑う理由があるんだぜ?」
「・・・・・・八千夜のためだってのか?」
「いやそこまで入れ込んでねぇけどよ。だけど天狗の時なぁ、あいつはずっと無表情だったんだ。何にも興味を持って無くて、ずっと独りだった。俺は群れを持っていたからそういうの放っておけなくて、よく訪ねてたんだけど・・・・・」
 思い出すように静かに口の端を上げて、春日は宙を見つめた。
「一人だけ、あいつと打ち解けた奴がいたんだ。人間で」
「人間? 八千夜がか?」
「ああ。たった一人の人間が、同じあやかしである俺にも出来なかったことをやってのけたのさ」
 少し興味が出た。宗方は肘を突いて手に顎を載せた。そのまま春日の方を見て続きを促す。
「・・・一つの山に囚われる八千夜を訪れ、そしてその人間は天狗である八千夜を畏れることも蔑むこともしなかった。まるで八千夜を自分の家族のように親しく接した」
 そして、八千夜は山を離れた。
「孤独に生きる金剛天狗が、絆された。俺にとっては嬉しいことだった。そして八千夜の生き方が変わったかと思い始めたころに、・・・その人間が死んだんだ。不治の病だったと聞いている」
「聞いた?」
「後になってから、夕楊に調べさせたんだ。俺はちょうど中国の方に行っててな。日本に戻ってきた時、金剛天狗が封印されたと聞いて調べさせた。封じられた理由までは夕楊も掴めなかったそうだが」
 苦笑する春日の顔を見ながら、宗方は思う。目の前にいる人間にはない輝きを備えた者は、何千何万の時を渡り歩いてきていて、ヒトが『あやかし』と呼ぶものなのだ、と。ついつい忘れがちだが、ヒトではないのだ。
 しかし、たとえヒトでなくとも。
「あいつは何も望まなかった。唯一欲しがったものがその人間との生活を続けることだった。けれどそれも失い、無表情・無感動・無関心と三拍子揃えてそこに在るだけの抜け殻みたいだったあいつは、絶望して封印された」
 ヒトでなくとも。何よりも清い、生き物なのだろう。あやかしは。
 だからこんなにも他人を想い、素直な言葉が言える。
「だから俺は、仙狐として祝詞を送った。祈り続けたんだ。再び天狗が笑えるように、友が幸せを掴めるように」
 そして今、八千夜は笑っている。
「ありがとな。俺の祈りを叶えたのはお前達だ」
 春日があまりに嬉しそうに言うから、宗方は眉間にしわを寄せて目を逸らした。
「・・・・・・・・・・・・・バカ言ってんじゃねぇぞ。お前に礼を言われる筋合いはねぇ」
「フ、確かに」
 春日は立ち上がると、自室の方へ向かう。ワイシャツとジーンズというラフな格好で、裸足のまま自室に帰る後ろ姿を見送りながら、宗方は礼を言われ慣れていない自分の未熟さにますます眉を顰めた。
「・・・・・・・・礼を言うのは、俺の方だ」
 八千夜や春日が居なければ、犬上家は一生囚われたまま果てていた。頼正は今のように笑っていなかった。
 春日のように面と向かって礼は言えない。だから独り言のように小さく呟いた。だがきっと言葉になんてしなくとも宗方の気持ちは八千夜と春日に伝わっているだろうし、頼正と八千夜を見ていても、気持ちを伝えるのに言葉なんて陳腐なものは不要だ。
 行動で伝えればいいのだ。
(・・・・・さてと)
 仕事が入らないうちに、宗方は今後の目標をたてるつもりだった。頼正と八千夜はとりあえず学校に通わせ、春日には働かせながら情報集めを。宗方自身も情報を集めるために紀子に交渉して取材と言っては遠地に赴いても良いと思っている。
(・・・どっちにしろ急ぎはないか・・・)
 時間はある。
 そう結論をつけ煙草を取ろうと立ち上がった時、突然肺が詰まったような感覚を覚え、宗方は咳き込んだ。
「―――ッ! げほっ、ごほごほ・・・っ」
 激しい咳に呼吸も忘れ、宗方は手で口を押さえて盛大に咳き込んだ。口から何かを吐き出すかのように大きな咳を繰り返し、しばらくして多少落ち着いてきた時には肩で息をしていて、目は苦しさで少し涙が浮かんだ。俯いたまま右手を口元に当て、左手で机の端を握る。
 喉の奥で呼吸に合わせて鳴るヒューヒューという音を聞き、宗方は口元を拳で拭った。そしてすぐ洗面所に行き、うがいした。
 水を口に含んでは、すすぎ、吐く。何度か繰り返して宗方は鏡の向こうの自分を見た。到底三十七歳には見えない自分の幼い顔を見て、舌打ちをする寸前ような顔になる。
 時間は、ある。そう思ったが。
(・・・・・・・まさかな)
 フクロウの元でも抱いた不安が、現実にならないことを信じて。