22
きょろきょろと控えめに辺りを見回す子供の天狗に、老人は優しく声を掛ける。幾度となく繰り返される子守歌のようなその詞(ことば)。
『お前は何も考えずに、ただ此処に在ればいい。意志を持たずとも良い。興味など不要だ。・・・もし持てばお前がつらい思いをすることになる。』
優しく頭を撫でる皺だらけの手。子供は、何も考えずにただ一つうなずき、老人の後ろを見た。何かが動いたからだ。
『お前達は、此処でわしと暮らすのだ。時機がくるまで、お前達は此処に在れ』
子供は何にも興味を持ってはいけなかったが、自分が最初から知っている言葉で呼んだ。
―――僧正さま・・・。
老人の名は、蒼天万寿(そうてんまんじゅ)・唖吏(あくり)。僧正として、使命を受けた者として、彼は優しく目尻に皺を寄せて首を傾げた。目の前の子供に愛しむ視線を向けた。
『どうした? 壱(いち)の者』
―――・・・・・・。
何にも興味はない。興味はないけれど、一つだけ。
小さな拳は唖吏の服を掴んで、顔は申し訳なさそうに俯けられた。
―――『壱』に、何かを与えてくださいませ・・・。
ささやかな願い。いまにも泣き出しそうなその顔は、これからの日々を思うと儚かった。
唖吏は壱の者の頭を撫でてやり、後ろに隠れていた子供――弐(に)の者――を誘(いざな)って壱の者の横に並べる。二人の頭を撫でて、唖吏は年の割には真っ直ぐな背筋を丸くして屈んだ。
『お前たちの存在理由は、苛酷だ。わしがささやかな依存の種を与えたとしても、決して罪にはなるまいよ』
二人の子供の、金と濃緑の瞳が不安げに唖吏を見上げた。唖吏は安心させるように微笑んで、二人の子供に『名前』を与えた。
『壱の者には、金剛坊・天靜八千夜という名を。弐の者には、翡翠坊・流靜千影と・・・』
―――やちよ・・・?
名を与えられた壱の者は、そう呟いた。天狗の子供の年齢に似合ったあどけない表情で。
『幾度となく訪れる夜を積み重ねた漆黒の翼に誇りを持て。お前は選ばれた』
弐の者は、顔を逸らして俯いた。弐の者――千影には、自分の立場も名の意味もわかっていた。わかっているから哀しかった。
しかし感情というものは、これからの八千夜と千影には必要のないものだ。
『いずれ来る時機のために。お前たちは此処にいればいい。何も、何にも興味を示す必要はない。・・・・・もし持てば』
とてもとても、つらい思いをするだろう。
* * * * *
浅い眠りから、戻ってきた。うっすらと瞳を開けた八千夜は体を起こすと、まだ鳴っていない目覚まし時計を止める。時計の針が指しているのは四時五十分。いつもの起きる時間より二時間ほど早い。
だがもう二度寝をする気にもなれず、寝間着代わりの甚平のままリビングに向かった。辺りは静かだった。頼正も宗方もまだ寝ているのだろう。起こさないように静かに動きながら、リビングに行くと、明かりが漏れていた。
「―――お。おはよう、なんだよやけに早いな」
「春日・・・・? 何をしているこんな時間に」
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出していた春日は、八千夜を見て口の端を上げると完結に応えた。
「今。仕事から帰ってきた」
「・・・・・・・・・随分と、人間社会に適応しおって」
楽しそうに笑って袖口のボタンを外し、ネクタイを緩め、春日は服を脱いでいく。
「風呂入って寝ようかと思ってたんだけど。なんだよ八千夜、お前今日なんかあんのか?」
「いや。目が覚めたのじゃ―――おい、服を脱ぎ散らかすな」
「後で持ってく。・・・・・しかし、適応か」
春日は、思い出すようにはにかんだ。
「・・・もう、あれから一年経ったんだなぁ」
春日の言葉に、八千夜も微笑んで頷いた。
「たくさんのことがあった。楽しい日々を過ごしておるよ」
「ははっ確かにお前、天狗の時より今の方が生き生きしてるぜ」
「それはおぬしも変わらんだろう」
小さく笑った八千夜の首元から、肌身離さず持っている魅縒り石が見えた。二つの透明な勾玉はこの一年間、何色に染まることもなく本来の主のもとで風の力を封じ込めていた。
春日は笑うようになった八千夜を見るたびに、かつての金剛天狗を思い出す。この金剛天狗は、幸せに手を伸ばせば伸ばすたびに奈落に蹴落とされる運命を持っている。一度幸せを失った金剛天狗は、幸せになることを恐れている。
(また、睡眠が浅くなっているのか・・・)
あやかしならば問題ない。だが体は人間だ。八千夜の疲労の蓄積は目に見えて増えていた。
春日は何も言わずに癒しの術を八千夜にかける日がままある。八千夜に気付かれぬように力を送り、倒れるのを阻止してはいるがそれにも限界がある。
「お前今日も学校か?」
「ん? ああ、―――そういえば中間試験か」
「試験―? 何忘れてんだよ」
「儂や頼正には、そんなに重要なことではないからな。進学を目指す必要も、もうない」
現在中学二年生として生活している八千夜と頼正。しかし学校生活は今年度で終いだ。
「そろそろ潮時だ。二年生終了とともに、転校という形で通学はやめる」
周りは成長期で身長丈も日々変化している中、頼正と八千夜の見た目はほとんど変わらない。まだ自慢げにからかわれる程度だが、来年の身体測定前に去ることを頼正と八千夜は事前に相談し、宗方に告げていた。実際は引っ越すのではなく、学校から立ち去るだけだが。
「楽しかったか? ガッコウ」
春日が上半身裸のままで、頭を蛇口から流れる水にさらした。水しぶきを飛ばしながら髪を掻き上げ、春日は笑った。何をしても綺麗と称される妖狐の大将は、いずれ訪れることがわかっていた『転校』についての感想は求めずに、答えがほぼわかっていることを訊いた。春日の予測通り、八千夜は近くにおいてあったタオルを取って投げてやりながら頷いた。
「ああ、楽しかった。本当に」
心からの言葉だ。嘘偽り、遠慮も無しに。
祈りや願いには力がある。叶えるための原動力や天の采配を左右する力がある。『祈り』の力しか持たない九尾として、春日は様々なことを祈り続けてきた。自分のことよりも他人に、幸せを好む者として仙狐と呼ばれるに至る力を持った。
今ここで再び、春日は八千夜のために祈った。
「しっかり掴んで、引き留めておけよ」
笑顔を取り戻した友人が、この日常を守れるように。
何のことだか春日は言わなかったが、付き合いの長い友人は儚く微笑んで頷いた。
「―――ああ」
それを見て春日は満足げに自室に引き上げた。これから先、罪を償うという八千夜のために、少しでも早く魅縒り石を探し出すために、出かける用事があるからだ。
春日の後ろ姿を見送った後、八千夜は一人窓から見える薄暗い空を見上げて息を吐いた。
八千夜は凶兆を待っていた。寿命が尽きる合図があるとしたら、風が教えてくれるとわかっていた。
(・・・・・・・・もう、一年が経った)
光陰矢の如しとは巧いこと言ったものだ。
八千夜は室内で、頼正と宗方が起き出してくるまで一人窓から空を見上げていた。
* * *
いつものように頼正と八千夜が学校に行った後、食後の一服と称した煙草を銜えながら宗方は春日の部屋に向かった。
「どうせ寝てなんかいねーんだろ」
二回軽くノックをしてから返事を待たずにノブを回した。宗方の予測通り、春日は暗い部屋でニヤリと笑ったままベッドに腰掛け宗方を見ていた。
「そりゃあお前。本来あやかしである俺が人間のように一定の睡眠を取る必要はないからな」
一度寝ると春日の寝起きは悪い。だが春日には本来睡眠は不要だ。
「だからこそ夜のことはお前達あやかしの方が詳しい。・・・・・・・・何か入ったか?」
「良くない噂は、人間の方が広めるのが早ぇらしいな」
質問に直接答えるでもなく、春日は軽く握った右拳を、手の甲を下にして前に出すとふわりと開いた。手品のようにそこには紙飛行機が一機乗っていた。それをゆっくり宗方の方に飛ばし、宗方は目前でそれを掴んだ。
「オトしといた。今夜にでも来るだろうからお前行けよ」
紙飛行機に書かれた簡素な地図と電話番号を一瞥し、なんで紙飛行機なんだと問う。
「それ見せたら、直接繋げてくれるさ」
「・・・わかった」
宗方は折り目に沿って折りたたんだ紙飛行機をジーンズのポケットに入れた。両手が空くと口にくわえていた煙草を一緒に持ってきたらしい灰皿でもみ消す宗方を見ながら、春日は訊いた。
「八千夜は連れて行くのか?」
「頼正とここに残させる」
「それがいいだろうな」
あっさりとそう言うと、春日は後ろに倒れた。スプリングの効いたベッドの上で上半身を弾ませながら、呟いた。
「・・・・・・・・神託か」
「・・・・・『神託』?」
聞き逃さなかった宗方に苦笑して、春日は手を振った。
「いや、それも後で話すか。とにかく八千夜が罪を償うには、あいつが払う代償が大きすぎるってことだ」
やはり聞き逃さなかった宗方は、眉根を寄せて問い返した。
「その言いぶりだと、何か知ってやがるのか」
「いいや。ただ、前に俺は、八千夜が封印から目覚めた時にあいつにこう言った。・・・『お前が封印されてから、千年近く経ってんだよ』ってな」
ついこの間のように話すが、それはきっと春日が八千夜と再び出会ったときの会話だろう。あやかしである春日には瞬く間だったのかも知れないが、実際約一年前のことだ。
「・・・・・・今年なんだよ」
春日の顔は、宗方の位置からは見えなかった。淡々とした声だけが静かに響いて消えていく。
「今年が、正確に数えて千年目なんだ」
だから何もないわけがない。
封印から解けた理由が、『釈放』でない限り。
* * * * *
「あーもぅダルイー」
田舎の古ぼけたバス停で、二人の客がバスを待っていた。二時間に一本だけやって来るバスを待って、ぎしぎしと音が鳴るベンチに座っている客の一人が、同じくバス待ちをしている隣の男に愚痴をこぼした。
ばたばたと細い足をばたつかせ、毛糸の帽子の隙間から見える桃色の髪を揺らしている少年は、隣で腕を組んでじっと立っている寡黙な男をつまらなさそうに見上げた。
「那音(なのん)ー。もう飽きたよ〜」
「・・・・・・まだ待って十分しか経っていないだろう」
「そうじゃなくてさぁ、――いやそれももう飽きたけど――お呼びが掛かるのが遅すぎるって言ってんの! まったく何年待たせてんのさぁ!」
じたんだを踏む子供を尻目に、那音は長くため息をついた。こういう時の対応には慣れている。・・・主に寡黙な自分が、余計に彼をそう言う風にさせているとは露とも気付いていないが。
「我が儘を言うな伽羅(きゃら)。『使叉(しさ)』の御心に仕えるのが我らの使命だろう」
伽羅と呼ばれた少年は、口を尖らせた。
「だったらなんで人間と同じ方法で行こうとしてるのさ。さっさと飛んでいこうよ」
那音はやれやれと目を開いた。
「人間達に気付かれるようでは、まだまだ未熟だ。変わりなく紛れるのが一番なのだよ」
「む。だってさ、人間達はどうせ、伽羅たちを見たってどうしようもないじゃない。だってもうすぐ滅びる運命にあるのに」
「・・・・滅びるか否か、それは神のみが決定することだ。気安く語るんじゃない」
那音の言葉はいつも正しい。だが面白くない。詰まらなさそうに、伽羅は空を見上げた。
「こんなに濁った空なんて、見たことないよ」
もう那音は目を閉じている。これ以上喋る様子はない。
「・・・・天空の神さまは、使叉に何を伝えるんだろうねぇ。でも使叉の言葉は神の言葉でいいんでしょ? ならさならさ、伽羅たちって使叉のお手伝いするんだから、『準・使叉』ってカンジじゃない? ねー」
「・・・・伽羅。畏れ多くも使叉と同等になろうとは考えるな。彼らは神の使いだ」
喋り続ける伽羅に、那音は目を閉じたままそう言った。しかし宥めるのも限界だと解っている。このままではずっと喋り続けることは必至だ。片目を薄く開けて覗くと、伽羅の頬が詰まらなさそうに膨れていたので那音は苦笑を漏らした。
「堪え性の足らぬ奴よ。仕方がないな」
那音は伽羅を肩に乗せた。体格の良い那音は軽々と伽羅を担ぎ上げ、伽羅は嬉しそうに那音に引っ付く。
「うわァい! ひとっ飛びィ♪」
「しっかり掴まっていろ。使叉殿のもとまで直接参る」
「伽羅ね、那音のコレが一番好きだよ!」
「調子の良いことを」
くすりと笑って、那音は震動を呼ぶ。びりびりと肌が震える感覚に、何が起こるかわかっている伽羅は楽しそうに叫んだ。
「きゃー」
「―――では行くぞ」
キィンッ、と高音が響き渡って空気を伝わり―――。
その場にいたはずの二人の姿は、もはやどこにも見えなかった。
* * *
八千夜は少々ぼんやりと、中間試験に取りかかっていた。およそ解答を終えた古典のプリントを見直した後、顎を付いた腕を机に載せ、外を眺めていた。身が入っていないのは頼正も同じようだった。
八千夜は学校では『犬上八千夜』と名乗っている。手配をした宗方が勝手にしたことだが、八千夜と頼正は遠い親戚という形で特異事情とともに編入している。頼正は当然『犬上頼正』だが、特異事情を理由に同クラスの二人が名前の順に並ぶ座席は、自然と八千夜のすぐ後ろは頼正となる。
頼正は八千夜が最近虚空を眺める時間が多いことに気付いていた。空を眺めて覇気が無く、しかしどこか寂しそうに無口だった。
学校生活に疲れているとか、人慣れしていない頼正と八千夜がいろいろ面食らう時期があったのはあったがもう随分前だ。いまは多少人より変わっている(だろう)二人のことも、個性として辺りには馴染んでいた。
特に外見に印象が強すぎる八千夜は何かと目を付けられやすかったが頼正の人当たりの良さがあったのと、八千夜自身の不器用さに気付くと次第に周りは苦笑を禁じ得なくなっていったのだ。
試験終了のチャイムと同時に、クラス中が気を抜けたようにざわめいた。
「終わったねぇ八千夜くん。出来た?」
「・・・・古典は、得意だ」
得意というか、実際生きていた時代の言葉だ。頼正の言葉に八千夜が肩をすくめると、頼正も苦笑した。頼正も形だけでそう聞いたのだ。八千夜と頼正が好成績を収めているのはむしろ当然のことで、クラスメイトたちと比べ合うことが間違っている。――生きた年数が違うのだから。
午前中に終わった試験の帰り。徒歩だと三十分かかる道のりだが、自転車に乗れないので徒歩通学をしている。その道がてら、頼正は訊いてみることにした。
「最近、何かあった?」
「何故?」
「うん、ぼーっとしてるからさ」
話しかけると、八千夜は笑う。そして気のせいだったのかと疑いたくなるほど真っ直ぐに頼正を見て、会話する。だけどその『気のせい』も何度もあればやはり気のせいではないのだろう。
だが。
「いいや、なんでもない。ただ風を感じていただけだ」
八千夜は毎回、そう言うのだ。
頼正にはそれが本当だとも嘘だともわからなかった。気のせいだと言い切れないので違和感はぬぐえないが、追求する根拠まではない。
「・・・・・なら、いいんだけどさ」
そうやって話は終わるのだ。そして次の話題に行き、八千夜は笑った。頼正も笑った。
家に帰ると宗方がいた。小説の考案を錬っていた宗方は、帰ってきた二人を見て眼鏡を外した。休憩をする機会と見たのだろう。
「やっと帰ってきやがったか。――オイ、八千夜。客だぜ」
「なに?」
八千夜は、思いがけない言葉に眉根を寄せた。頼正も不思議そうな顔をする。
宗方は説明するより会わせた方が早いと思ったのだろう、奥に声をかけた。
「お前! 八千夜に用事があるんじゃないのか」
「・・・・・・」
宗方の視線の先には、椅子の背に止まっている一羽の鴉が居た。その鴉は、きょろっとした目を上げた。しかし、何も喋らない。鴉は元々言葉を喋ったりするわけではないが、鳴くことすらしない。
「――――ああ? なんだってんだオイ、さっきまであんなにうるさかったくせしやがって!」
宗方は怒ったように鴉に向かって怒鳴った。しかし、話さぬ者に話しかけ続ける図は場の空気を虚しくさせるばかりだ。
鴉に怒鳴る宗方に、頼正は言葉を探していた。代わりのように八千夜は、いらぬ一言を呟く。
「・・・・・呆けた老人のようだな」
宗方は八千夜を睨んだ。
「泣かすぞテメェ! ――このクソ鴉! てめ・・・・・ッ」
なおも怒鳴ろうとした宗方を遮って、鴉は澄んだ声で啼いた。普通の鴉のように、一鳴きだけ。しかし、八千夜は気が付いた。
「・・・・すまん、儂の部屋に連れてゆく」
そう言って八千夜は鴉の足下に手を伸ばすと、鴉は八千夜の腕に跳び乗った。そのまま自室へ向かう八千夜の背に、頼正は声をかけた。
「八千夜くん?」
「聞かぬ方が良いことだ。すまぬが席を外してくれ」
「あ、うん。それはわかったけど・・・・・・その鴉は、あの時の鴉じゃないの?」
宗方が「あの時?」と眉を寄せると、頼正は「だって喋ったんでしょ?」と確認した。
八千夜は頼正の言う時がいつのことかうっすら理解していたが、頼正が話すのに任せた。
「・・・僕と八千夜くんが、食料探しに山にいたときに。その後すぐに僕は黒太郎に乗っ取られて、事件になっちゃったけど。その直前に、喋る鴉が現れて・・・・――――」
ぱしっ、と八千夜は頼正の口を手で押さえた。そして目を逸らしながら、優しく言った。
「・・・・・・・・・・・・身勝手なことと、わかっているが頼んでも良いか。命令や強制は出来ぬが、頼む。・・・忘れてくれ、あの時のことは。何があったとか、口外しないでくれ」
頼正は目を丸くして、八千夜を見つめた。八千夜の顔が、苦笑していた。頼正にはそれは、不自然な笑みに見えた。
「言えるときになれば必ず言うと約束しよう。だが今は、頼む」
そう懇願し、八千夜は鴉を連れて再び背を向けた。八千夜が部屋に入る音が聞こえても黙って見つめ続けていた頼正に、宗方はきっかけを与えるように声をかけた。
「おい、今のは・・・・・」
宗方がそう聞こうとしたのを、頼正は遮った。振り返って、明るく元気に笑って。
「ゴメン! 忘れちゃった」
「・・・・・・」
宗方は、そう言ってとぼけてみせる弟の頭に手を乗せて引き寄せた。笑っている頼正の頭を押さえて撫でてやりながら、宗方は余所の方を見て呟いた。
「莫迦だな、お前」
つらいなら、笑わなければいいだろうに。
乗せた手から震動が伝わってくる。小刻みに震える頼正の体から発せられる声もまた、震えていた。
「だって一年経って、八千夜くんは前より笑うようになったけど。でも、笑ってないんだ。まだ何か抱えてるんだ。僕たちに、背負った荷物を分けて持たせてくれないんだ」
泣いているのか、と宗方は思ったがそうではなかった。頼正は歯を食いしばって拳を固めていた。悔しそうに、哀しそうに、寂しそうに、呟いた。
「僕は助けたいんだ。もっと頼って欲しいんだ。・・・・・・・僕ってそんなに、頼りないかな?」
宗方は一瞬、間を空けてから思ったままを口にした。
「頼りねぇ」
がっくりと肩を落として、ずきっと突き刺さった心を自分で慰めて、頼正は弱々しく言葉を吐いた。
「・・・・もうちょっとフォローを期待したいんだけど」
宗方は、ぺしっと頼正の頭を叩いた。そして近くの椅子を引き、座って足を組んだ。
「現状に満足しないから向上心を持って、人は進化を続ける。でも高すぎる望みを持つのは退化に繋がるかもしれない。先を見つめすぎずに、現状の改善に努めることが大事。何キロも先のことを考える前に、目の前の一歩を踏み出せ」
「・・・・どういう意味」
「つまり、お前はそのままでいいってことだ」
まだ納得のいかない顔をしている頼正を見ると、やはり子供にしか見えない。宗方は実年齢と外見との差、犬上家の成長の仕方は心の成長も遅いのだろうかと考えた。
「・・・ともかくお前は、八千夜が話したくなったときに聞いてやればいいんだよ。―――忘れたってんなら俺ももう訊かねぇよ」
頼正は「そんなもんかなぁ」と首を傾げた。しかし、それでいいならしばらく待ってみよう。それが八千夜のためだというのなら。
実家から持ってきた本を開いて読み出した宗方が、詰まった息を吐くように咳をするのを見て、頼正は話題を変えた。それ以上追求してももうしょうがないと思った。
「兄ちゃん最近よく咳してない? ドクターのトコ行って診て貰った方が良いんじゃないの」
「けほっ――冗談じゃねぇ。あいつに診せたら実験体にされかねん」
「かもねー。やっぱりまだ『研究』諦めて無いみたいだし。――でも兄ちゃん、きっと悪いの肺だよ肺。煙草吸い過ぎだもん」
「煙管に比べてえらく吸い安いんでな」
もうきっと真っ黒だ。肺癌になっても驚きはしない。
「控えなよ少しは。兄ちゃんもいい年なんだからさー」
「・・・余計な一言が多くなったな、お前も八千夜も」
眉間の皺が一本増えたのを見て、頼正は肩をすくめてそそくさと自室に着替えに行った。
(・・・・学校の影響か?)
いらん語彙が増えやがって。良くも悪くも影響があったと言える。
「・・・・・ごほっ・・・」
口元を押さえて一つ咳を零したあと、宗方は遠くを見つめて拳を固めた。
―――そして夜になっても、八千夜は部屋から出てくることはなかった。
夜も更けて。食事も取らずに部屋から一歩も出てこない八千夜を心配しながらも、頼正は宿題と課せられた予習を終え、部屋から出てきた。隣の春日の部屋は只今不在なので、斜め向かいにある八千夜の部屋の扉を見つめていた。
(大丈夫かな、八千夜くん)
何がどう大丈夫なのか、心配している頼正自身にもよくわからないが、心配する気持ちを言葉に表すとそれしか出てこなかった。
「頼正、宿題は終わったのか」
声をかけられ振り返ると、宗方がコートを羽織って玄関に向かう所だった。
「あれ、どっか行くの?」
「ちょっと人に会う約束がある。―――お前留守番してろ。八千夜も出てきたらメシでも何でも食わせとけ」
「りょーかい」
同居している四人は、世間の目にはどう映っているのか知らないが。大黒柱――というか一家のお父さんのような――または主導権の持ち主は、完全に宗方なのが現状だ。
あれこれと指示を受けながら、頼正はふと尋ねた。
「行ってらっしゃい。・・・・あ、帰りは? 遅くなるの?」
時計の針はまもなく午後八時を指そうとしている。自分が寝る前に帰ってくるのだろうかと頼正が何気なく訊くと、宗方は床を見て少し考えた。
「・・・・・そうだな。いや、明け方になると思う」
「はい?」
「今日はもう、帰ってこねぇから」
「・・・・・・・・・・朝帰り? 会うの女の人?」
希有なものでも見るかのように、頼正が訊いてきた。野暮な質問をするようになったのも学校の影響だろうかと頭の端で考え、行く先を思い出して否定するのも違う気がしてきた。
「お前の考えてるようなことは一切無いと思うが、たぶん会うのは女だ」
兄の顔と、時計の針と、交互に見つめて、頼正は呟いた。
「うわー・・・・・・・・・・兄ちゃん不潔―」
茶化すような言い方をした頼正の頭に即座に肘鉄を落として。宗方はくるっと背を向けた。
「とにかく。八千夜と留守番してろ。――――あと言葉に気を付けるんだな」
「〜〜〜〜〜〜〜す、すみません・・・でした」
頭を押さえて蹲りながら、頼正は何とか手を振って宗方の外出を見送った。
* * *
(ったく。俗なことばっかり覚えやがって・・・・)
頭の中でぶつぶつと零しながら、宗方は早足にネオンの輝きを後目に人混みを通っていた。頼正に構っていたせいで少し遅れているので早歩きだ。時間帯的、場所的に酔っ払いや店に呼び込む女達の声が多い。千鳥足の中年を避けて通り、宗方は小さなメモを見て指定された店を探す。
(春日もなんでこういう場所を選ぶんだ)
此処の空気は悪い。酒と煙草の匂いが充満し、馴れ馴れしい女達が引き込むために声をかけてくるのが煩わしい。女達から香るきつい香水がさらに不愉快にさせる。
宗方の眉間の皺が一、二本増えた頃。地図に書かれた『星空』という店を見つけた。いかがわしい店の通りに並ぶが、幾分マシなスナックバーだ。・・・・入り口には数名の若い女子の顔写真が並んでいるが。
宗方が半地下になっているその店の入り口に向かうと、受付の女の子が満面の笑顔で話しかけてきた。
「いらっしゃいませ〜☆ ようこそ星空へ! お兄さんは初めての方ですかぁ? 表の写真で誰かご要望は・・・・」
「いや、コレを見せたらわかると言われてきた」
慣れないハイテンションな女の子の喋りを遮って、宗方は朝に春日から受け取った紙飛行機を見せた。女の子はすぐに気が付き、「ああ」と頷いた。
「ハルヒですね」
「・・・『ハルヒ』?」
「当店一番人気の美人ですよ〜。あまりの人気に彼女の指名率が高すぎて、この制度を取っているんです。ハルヒの紙飛行機は、『VIP待遇せよ』ってことで、ね」
可愛らしくウインクして、女の子は店の奥を振り返った。高い位置でくくられた彼女の長くさらさらした髪が大きく揺れた。
「ハルヒちゃーん! 紙飛行機の彼が来たわよ〜」
女の子が叫ぶと、チラリと見えた店の客達までもが入り口の方を振り返った。ざわめきが波紋を広げると共に、奥からゆっくりと人影が現れた。
美女だ。この世の男全てを虜にしかねない美女だ。朱と紅のベース色で繊細な作りのチャイナドレスを着こなし、真っ白なファーを肩にかけ、手には飾りを付けた扇を持っており、モデルのように真っ直ぐに立って歩いてきた。彼女が歩くと、店の人間は誰もが振り返って道を空けた。すらっと長い手足と完璧な美しさを備え、小首を傾げてヒールを鳴らす。
金の髪を結い上げ白い項を晒し、スリットから覗く美脚に男達は目が釘付けになっている。店の女でさえ次元が違うとすらとれるこの女の美しさに目を奪われていた。
少々切れ長でぱっちりとした青い宝石のような瞳が微笑みかけ、全ての造形が神業とも言える女の口が、やはり完璧に美しい声を出すために開かれた。
「・・・はぁい。久しぶり宗方」
その場の誰もが心奪われる容姿と美声に対しても、宗方は心底嫌そうに腹の底から声を絞り出すことしか出来なかった。ここで一番、怒りボルテージが上がった気がする。
「何してやがるテメー・・・・」
呆れたように額に手を当てて息を吐く宗方を見て、ハルヒは美しく微笑んだ。