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 春日は後ろをついて走ってきた八千夜に向けて小さく言った。
「伏せろ」
 ざっと藪を飛び越え、二人は身をかがめる。春日はおぶっていた頼正を静かに下ろし、息を殺して辺りをうかがった。
 遠くで聞こえる村人の声、一度近くまで来たようだが足音はすぐに遠のいていった。
「・・・・行ったようだな」
「春日! 何のつもりだ、宗方はどうする」
「宗方に言われずとも、俺たちは退かなきゃならなかったからな」
 何故、と八千夜が問うより先に、春日は頼正に声をかけた。
「大丈夫か頼正」
「・・・・・・うん。ごめん」
 頼正は汗を拭いながら体を起こした。八千夜は心配したように頼正に手を貸す。
「どうしたのだ頼正は」
「暴れかけたんだろう、犬神が」
 春日が応え、八千夜はそちらに顔を向ける。
「暴れる?」
 頼正が目を瞑って体の力を抜きながら呟いた。
「・・・・きっと結界が崩れたから」
「まだお前の歳では上手く繰(く)れないのだろう。宗方に任せておけばいい」
「犬神を押さえる結界? いったい誰がそんなことをしたのだ」
「僕は、知らない・・・。でも、犬上家はずっと結界の中で暮らしてきた」
 頼正は、辛そうに言った。
「犬上家は、犬神を操る代わりに自由を制限されるんだ。犬神を眠らせる結界は、家の周りを最も強くして、この山全体を覆っていたはずなのに・・・・」
 頼正に気遣いながら、八千夜は訊いた。
「・・・犬神が暴れたら、どうなるのだ?」
 頼正は俯いてさらに声を小さくした。吐き出すように苦しげに言う。
「・・・・・犬神って、犬の霊だって知ってるよね・・・・・犬の霊を祟らせているわけだから、人間側がデキてないと、生気が吸われるんだ」
 突然頼正は、はっと顔を上げた。眉を下げ、歯を噛み締めて呟く。
「・・・どうしよう、血の臭いがする・・・!」
「宗方か!?」
 春日は、焦ったように立ち上がった。
「・・・・俺が行ってくる。八千夜、頼正とここにいろ」
 八千夜は一瞬口を開いたが、思い直して頷いた。人間となった自分の力量を計れぬほど経験不足ではない。
 うなずき返して、春日は微かな熱風を上げて狐に変化した。そして即座に藪から飛び出した。
 獣特有の音の少ない足音が遠ざかるのはそう遅く無かった。
 じんわりと汗を滲ませて、荒い呼吸の頼正をいたわるように、八千夜は言った。
「案ずるな、春日に任せておけ」
「・・・・『かすが』って、九尾さんの名前・・・?」
「うむ、特に隠しているわけでも無さそうじゃからなあやつは。そう呼んでも構うまい」
 頼正は四肢の力を抜いて、体を楽にし、笑った。
「名前、かぁ。ハル、ヒって書くんでしょ? 漢字って意味があるからいいよね・・・・なんだか春の日だなんて、九尾さんそのままだ」
 可笑しそうに笑いながら頼正は続けた。
「ヤチヨってどう書くの?」
「八千の、夜と。幾重にも夜を塗り重ねたように真っ黒な翼だと、名をくれたものが言っておったわ」
「・・・・綺麗な、名前だね」
「儂には過ぎた名じゃ」
 気のせいかも知れないが、八千夜の笑みが哀しそうに見えたので、頼正はそれ以上の言葉を呑み込んだ。
 口を開きかけたのをごまかすように、頼正は話を変えた。だが、内容は事実である。
「・・・・だ、いぶ・・・・落ち着いてきた」
「そうか・・・それは何よりだ」
 ふっと笑った八千夜に微笑み返して、頼正は頭の端で思う。
(僕の名前は・・・・・いったい誰が付けてくれたんだろう)
 記憶には残っていない、父か母だろうか。
 物心ついたときから、兄である宗方に育てられたのだ。頼正は宗方が好きだったし、兄が居れば十分だった。だから今まで父と母というものを考えたことはなかった。
(お父さん、と・・・お母さんか・・・・・)
 寂しくはない。だがもし父と母がいたら何が違うのだろうか、と頼正はほんの少し考えた。




     * * *




 静寂が心地よい。
 耳が良すぎる犬神の血。自然が奏でる葉の擦れる音や水が流れる音が好きだ。小鳥のさえずりや風の音も好きだ。うるさすぎずに心地よい。身に染みこむように浸透して、落ち着かせる。
 無音、というのは違う。無音では違和感が残り気持ち悪い。微かに聞こえる自然の音が、宗方に安眠を与える。
 浅い睡魔に浸かっていた宗方は、ふと聞こえた足音と人の気配に意識を呼び戻す。静かに重い瞼を上げ、頭を起こすと痛む額に眉間にしわを寄せた。体を起こそうとして思うように動かないことに気付き、下手に動けば痛む箇所が多々あったので静かに体の力を抜き元に戻す。後ろ手に縛られ、足首も捕らえられ、座敷牢に転がされているのだと即座に理解し全てを思い出す。
「・・・・・・起きろ」
「起きてるよ」
 大きく音を立てて、座敷牢の小さな扉が開いた。身をかがませて田村が入ってくる。転がっている宗方の前まで行き、田村は立ったまま宗方を見下ろす。
 宗方は顔に付着した血が固まって喋るたびにぱりぱりと引きつることを不快に思いながら口を開く。殴られた頬も腫れていたし口の中も切れていたが、我慢して軽口を叩く。
「・・・・てめぇら捕まえるなら手当くらいしろよ」
 田村は黙ったまま、いきなり宗方のあばら辺りを踏みつけた。加えられた暴行で、あばらは一本折れている。
「・・・・ぐぁ・・・っ!」
「いい気になるなよ。おれは今すぐにでもお前らなんか殺したいんだ・・・!」
 殺意と憎悪が含まれるその行為に情け容赦はなく、宗方は苦痛に耐えながらそれでも引きつった笑いを浮かべて田村を見上げた。
「はっ・・・・殺せない理由があるから・・・俺をここに連れて、きたんじゃねぇのか・・・?」
「っ、黙れ!」
 腹を蹴り上げて、田村は怒りに震えながら身を離す。宗方が咽せているのも構わず、田村は荒い息で続けた。
「もう一匹は、どこだ!」
「・・・・・知らねぇなー。逃げたんじゃねぇの?」
 脂汗を浮かべながらそう言った宗方に逆上して、田村は顔面に蹴りこんだ。
 泣きも喚きもしない宗方を苛々と蹴りこみながら、田村は冷静さを失っていく。本当に、このまま殺しかねない勢いだ。
 否、実際田村は殺しても構うまいと思っていた。
 犬上家襲撃に関して村長の意志はない。ならばこの件に関する責任者は自分なのだ。
「・・・・・・・ハァハァ・・・・っ! くたばれ・・・っ」
 息を切らした田村の言葉を聞いても、宗方は表情を変えなかった。顔の状態に関しては、痣が出来て血が飛び、見るも無惨な状態だが。
 もう一度、田村が宗方の体を蹴りこもうとしたとき、それを遮る者がいた。田村の肩を掴んで引っぱり、田村は尻餅をつく。見上げると、金髪の目立つ派手な男がいた。
 引き込まれそうな青い眼が、田村を射ている。乱入者―――春日は田村の顔に手を当てて呟いた。
「眠れ」
 何者だ、と口を開こうとした田村は、糸が切れたように勢いを無くし、崩れた。春日はそのまま田村の体を床に落とした。
 それを億劫そうに見ていた宗方は、振り返って急いで縄をほどき始めた春日に向かって言った。
「・・・助けるならもっと早く来いよ」
「悪い」
 満身創痍の宗方を痛々しげに見てから、憎まれ口を叩く余裕があると知ると春日は付け加えた。
「あの程度、お前一人でどうにかなると思ったんだがな」
「・・・・・・」
 渋い顔をしている宗方に苦笑しながら近づいて、春日は身をかがめて宗方と目線を会わせる。
「ほらこっち向け」
「ああ?」
 痛い顔を無理に動かされて、宗方は春日を睨むが当の春日は目を閉じてぶつぶつと何か唱える。
 ひんやり冷たい手を宗方の顔に当て、春日はそっと撫でるように手を動かした。
「・・・・・痛いの痛いの、飛んでけー」
「ふざけるのも大概にしろよテメェ・・・」
 だが。
「どうだ。まだ痛むか?」
 春日に撫でられた部位から痛みが引いていく。腫れていた頬や瞼も熱が引いていき、すっと視界が開けた。驚いた顔で宗方は自分の顔を撫でた。
「これは・・・」
「そう狐につままれたような顔するなよ」
 案外的確な表現である。大妖・九尾の狐は胸を張って自慢げに言った。
「俺の気を練り込んで無理矢理細胞を活性化させた。あのままじゃ何ともし難いからな」
「年の功だな」
 その言いぐさに、春日は頬の筋肉を引きつらせながら宗方のあばらに手を当てる。
「・・・今のは聞き流してやるよ小僧。あばら見せろ、骨折れてるんだろ」
 そうやって春日が宗方の治療をしているとき、座敷牢の外から声が聞こえた。
「田村さーん、倉木さんがお呼びですよー。・・・・・・田村さーん?」
「ち、面倒だな」
「待て待て待て、骨は時間が掛かるんだ。もうちょい」
 宗方は、ため息をついて春日を自分から離した。
「ちょっとどいてろ」
「何をするつもりだ?」
 まだ折れたあばらは完全に繋がっていない。だが宗方は壁に背を向けあぐらを掻いた状態で深呼吸する。目を瞑って何度か息を整えた後、勢いよく目を開いて宗方は右手で作った拳を後ろの壁に叩き付けた。
「はぁっ!!」
 人間とは思えない怪力で、宗方は後ろの壁を粉砕した。岩で作られた座敷牢の強靱な壁が、盛大に音を立てて穴を開けた。
 見ていた春日は目を点にして、すーっと息を吐く宗方を見た。
「なんの音だ!!」
「みんな、集まれっ」
 がやがやと声が集まり始めたとき、宗方は何事もなかったかのような淡々と言った。
「さて逃げるか」
「・・・・・・お前な・・・」
「犬神憑きは怪力なんだ。そんなことはどうでもいいから、俺担いでさっさと逃げろ」
「しかも命令か! 自分で走る気はないのか!?」
「テメェの方が早い」
 傍若無人のあげく「急げよ」と付け足す宗方に、がしがしと頭を掻きながら春日は宗方の腕を掴んで引き上げる。
「これは貸しにしとくぞ!」
「ツケとけ」
 踏み倒す気だ。
 春日は頭を痛めながら、風に舞うように宗方を連れて姿を消した。






 突然姿を現した春日と宗方に驚きながらも、頼正は休めていた身を起こして叫んだ。
「兄ちゃん!」
「よお、大丈夫か頼正。お前は慣れてないから結界が切れてしんどいだろ」
「兄ちゃんは・・・・無事っぽいね」
「そうでもねぇよ。あばら折れた」
「うえぇえ!?」
 アッサリと言う宗方を引っぱって座らせ、春日はあばらの治療を再開する。口の中で言葉を紡いでいる春日を横目に見ながら宗方は頼正に尋ねた。
「・・・・・・おい、アイツはどうした」
 八千夜がいない。頼正は、困ったように頬を掻いた。
「それが・・・・急に何かに反応して、飛び出して行っちゃったんだよね」
「はあ!? なんで止めなかったんだお前は」
 ちょうど骨が完全にくっついた宗方は目の前にいた頼正の胸ぐらを掴んで引き寄せた。春日は横に離れながら、頼正の答えを待つ。
「だっていきなり何かに気付いたように立ち上がって、止める間もなく走り出したんだもん。とりあえず此処にいろ、って言われたから僕はここにいたわけで・・・」
「・・・・・・具合の悪い頼正を放っていったのか、アイツは」
 呟く春日の眉間にしわが寄る。宗方は苛々と唸った。
「あのクソガキ・・・・・」
 頼正は怖々と少し身を離して二人を見る。二人は間違いなく同じ事を思っているはずだ。予想を裏切らずに二人は声をそろえた。
「「次会ったらぶん殴る」」
 二人の目が非常に怖く、頼正は何も言わずに身を縮こまらせた。






     * * *






 八千夜は、何か自分にしか感じない胸騒ぎのようなものに導かれ走っていた。ざわざわと血が騒ぐ。この感覚を八千夜は知っていた。
 どこか懐かしく、けれど直感のようなそれは、そう遠くない。
 頼正には悪いが、放っておけるものではない。
 藪を突き抜け、少々広まった空間に出た。木々に覆われ薄暗い中を通ってきた八千夜は一瞬まぶしさに眼を細めた。
「おや、ここらでは見ない子ですね」
 光の中に、一人の男がいた。優しそうに微笑まれたその顔を見ながら、八千夜は立ち止まる。男は気にした風もなく、後ろを向きしゃがんで手を合わせた。
 老人のように白い髪の、だが若い男。男がいるのは墓地だった。一つの墓の前で手を合わせ、長く黙祷を続ける。瑞々しい花が添えられ、線香が立ち、その慣れた様子に何度も足を運んでいるのだとわかる。
 八千夜は、そっと顔を上げて墓を見つめる男の背中に声をかけた。
「・・・・・だれか死んだのか」
「はい、とても大事な人が亡くなったので・・・」
 ぱきっと木の枝を踏み鳴らしながら、八千夜は男に近づいた。男の後ろに立ち、墓に刻まれた名を読む。
「『如月霞織(きさらぎかおり)之墓』・・・・・おぬしの連れ合いか?」
「はは、まさか。彼女が死んだとき俺は子供だったんだよ?」
 男は立ち上がり、八千夜のほうを向いた。
「・・・・でもね。大事な人だったんだ」
 哀しそうに笑うその顔をどこかで見たことがある、と八千夜は思った。人間が同じように哀しそうに顔を歪めていたのを、どこかで見たことがある。
「儂にはわからん」
「こんな気持ちはわからないほうがいいよ。でもいずれみんな経験する。やりきれなさとか、悔しさを感じる日も来るよ」
 男は、笑みを消した。その鋭い目からは、なにも読みとれない。
「力を求める時が、いつかやって来る」
 八千夜は、ぞわっと背筋に悪寒が走った。ばっと振り返って八千夜は男に尋ねた。
「おぬしは力を求め、得たのか?」
 一瞬黙って、男は笑いかけた。
「犠牲を払って、俺は力を得たよ」
 八千夜は握り拳を作る。
「・・・儂は、力を失って犠牲を出した」
 二人はお互いの顔色を見ながら、立ちつくす。男が口を開いた。
「君は神様って信じるかい?」
 神。そう聞いて最初に思い浮かべるのは星桜之雪だ。
「・・・神とはなんだ。おぬしは禍福や賞罰を人間に与えるものをそう呼ぶのか」
「それも一理あるけど、俺は人間を越えたものをそう呼ぶと思うな」
 神とは恐怖の象徴だ。実際『星桜之雪』は福や賞は与えない。ただ破滅のみを追い求める。ならば、そんな神などいらない。
「・・・・・・・・・・神などいない」
「完全否定してしまうのも、つまらないんじゃないかな?」
 男は、微笑んで八千夜を見下ろす。嬉しそうに笑いかけた。
「もうすぐ願いが叶うんだ」
 ぱあっと男の体がほのかに光った。その光は球体になり一瞬で消えた。見間違いかと思うような出来事だったが、八千夜は確信する。
「おぬしは力を手に入れたと言ったが、どうやって得たんだ?」
「神様が与えてくれたのさ」
 男は服の下に隠していた首掛けを首元から取り出し、紐の先に繋がる小袋を見せた。ほのかに光を漏らすその口を開き、中から指先ほどの大きさである石の欠片のようなものを取りだした。光の根元はそれである。
 八千夜はやはり、と眉根を寄せた。
「・・・・魅縒り石・・・!」
 以前見たときよりどす黒い色で輝く魅縒り石を持つ男を見て、八千夜は忌々しげに唇を噛んだ。
 男はうっとりと石を見て続ける。
「これがあると、俺は復讐できるんだ。霞織(カオリ)の命を奪った奴らを皆殺しに出来る・・・」
「殺すことが、おぬしの願いか!」
「そうさ」
 キィィンと音を立てて、男の手に握られた魅縒り石が黒く光る。
「霞織の仇を討たないと、俺は生きている意味がない!」
 いくら小さな欠片とはいえ、吹き出す力に押され八千夜は一歩下がる。男を中心に吹き荒れる突風に、顔を腕で覆いながら八千夜は辺りを見回した。
(何か・・・・・・使えるもの・・・っ)
 欠片さえ奪えれば。八千夜は近くの茂りの中に手頃な木の棒を発見した。本来なら短く感じるだろうが、今の状態の―――子供の姿の八千夜には十分なはず。
 飛びつくように棒を掴み、男に向けて構える。男は薄笑いを浮かべた。
「・・・・莫迦だね。そんな棒きれで何が出来るんだい?」
「侮っておると痛い目を見るのは貴様の方だ」
 足を大きく開き、身をかがめて棒を構える。
「その石はもとより儂のものだ。返して貰う」
「そうはいかないよ。俺にはこれが必要なんだ」
「力ずくでも奪い返す。それは人間が持つには、重すぎるものだ!」
 土を蹴るように一歩を踏みだし、身をかがめて風の抵抗を少なくして走る。ぐんっと棒の先を腕と体の隙間に差し入れ、節を固めるようにまわす。そうされても、男は八千夜を見て笑う。
「子供の力で、何が出来るんですか」
「力などいらん。杖術の基本は『極め』にある。・・・つまり」
 なぎ払うように、関節を固めた棒を傾けて先端で膝の裏を付かれ、男は均衡を崩す。
「なっ」
 八千夜は棒を引き、回転させ先ほどとは逆の先端で男の首を後ろから払った。男はそのまま前のめりに倒れる。子供とは思えぬ重い打撃を項に喰らい、脳が揺れた男は受け身も取れずに勢いよく地面に叩き付けられた。
 八千夜は杖を手に、重心を保って続けた。
「・・・・杖は、相手の力の流れを理解し、逆手に取ればいいということだ」
 残心をとってから再び防御にも攻撃にも出られるよう構えに入る。洗練された動きに、男はようやくその顔から笑みを消した。腕をついて身を起こす。
「・・・君もヒトではないと言うことか」
「かつては、僭越ながら天を制すと謳われた金剛天狗だ」
「あやかし・・・・・なぜこの時代にあやかしがのうのうと生きてるんだ・・・?」
 悔しそうに拳を作り、男は身を起こして怒りに震える。
 八千夜は男の怒りの元がわからずに、手を伸ばして言った。
「おぬしの怒りは儂にはわからぬ。だが、あやかしとの共存は考えぬのか。人間を嫌うあやかしばかりではないぞ。・・・・・・・・さあ石を渡せ」
 出された手を、限りない憎悪を込めて睨み付け、男は怒鳴った。
「共存・・・!!? 大事な人が、目の前で、化け物に四肢を食いちぎられる光景を見てなお、同じ言葉が吐けるのか!?」
「!?」
 パンッと手を払いのけ、男は叫ぶ。
「今の時代にあやかしなんて要らない・・・!」
 男が握る魅縒り石がどんどん黒くなっていく。
「いかん・・・魅縒り石が憎悪で染まっていく・・・・・」
 暴風が吹き荒れ、葉が舞う。墓に添えられた花が散り、桶が倒れて水がまき散らされた。
 天狗であった八千夜の魅縒り石は、暴風が生まれやすい。操られることなく放出を喜ぶ風たちが荒れ狂い、雲を引き寄せる。太陽の光が覆い隠されていく。
 八千夜は片手で棒をまわして腕を慣らし、パシィッと音を立てて飛んできた葉を斬るように叩き払った。
「もはや正気ではないな。・・・・・・・・さてどうするか」
 呆然と、風の中心で宙を見ている男―――倉木誠一(くらきせいいち)は、その何も映していない瞳を細めて呟いた。目の前のものは映していないが、大事な人間が見えているように。
「・・・・・・・・・霞織・・・・」
 魅縒り石さえ奪えれば全て円満に片が付く。だが、この暴風では上手く体が動くかどうか。いかんせん、千年眠っていた体は鈍っている上、人間という非力さ。武器も使い慣れたものではない。
 魅縒り石に逆に使われている倉木に、隙がうまれるだろうか。
(・・・・・・否)
 八千夜はスッと身をかがめる。地面近くでは砂や小石が飛び、葉が飛ばされている。視点を低くして構えながら、八千夜は風の流れを見る。
 今は人間となった八千夜だが、元は風を読み空を舞う天狗の種。風読みには長けている。
(隙がないなら、作ればいい)
 戦い方は忘れていないようなので、八千夜は少し笑った。
「・・・・儂は金剛坊・天靜八千夜! いざお相手仕る!」




     * * *




 梔村。
 倉木家が地下から半壊したという報告を受けて、村長・邑上は渋い顔で足を運んでいた。
 宗方が壊した座敷牢。その石が衝撃で飛び、壁も少々壊したのだ。人に被害者は出ていない。
 だが、『宗方が此処にいた』と言うだけで、倉木家で起こったことを考えるは容易い。邑上は眠っている田村が外に運び出されているのを見て近づく。うっすらと意識を取り戻していた田村は鮮明ではない頭で呟く。
「・・・・・・・・・むら、かみ村長」
「愚か者が! 私の言いつけを軽んじおって・・・」
 邑上は、田村と辺りにいながら居心地悪そうに俯いている村人たちに怒鳴った。
「犬神に手を出したのか!?」
 田村が、頭を小さく縦に動かした。邑上は珍しく焦ったように舌打ちしながら杖をきつく握る。
「・・・・・・これだけで済んだのが奇跡だ・・・!」
 崩れる石垣―――外から座敷牢を覗いて、邑上は背筋を冷やした。一通りの説明は受けている。
「暴行を加えられ拘束された状態で、石垣を素手で破った・・・・・相変わらずだな」
 もはや人ではない。触れてはならない眠り神なのだ。
 そんな邑上の頭上から場違いな声が掛けられた。
「説明されに来てやったぜジジイ」
 ばっと振り返って声の方を見ると、木の太い枝の上に立った宗方とその横に頼正が座っていた。頼正は、金色に輝く狐を抱いている。
「犬神・・・!」
「不可侵条約はどうした。静かに余生を暮らせという十八年前の命令を実行している俺たちに、先に手を出してただで済むと思うなよ」
 ばっと村人は刃物を手に取った。弓を手に持っている者たちが前に出てきたのを邑上は片手で制した。そして渋い顔で謝罪する。
「・・・・・私の監督不行届だ。申し訳ない」
「まったくだ。死んで詫びろ」
 見下しながらそう言った宗方に、村人たちは息を呑んで冷や汗を流した。冗談とは言い難いその言葉に、ガタガタと震え出す者もいる。
 頼正が、隣にいた兄の足を手で叩いた。
「そんなこというから僕たちの印象悪いんだよ兄ちゃんのバカ!」
「って。兄に向かってバカとはなんだテメェ。落とすぞ」
 俺はこいつらに散々殴られたあげく骨まで折られたんだよ! と怒りを隠さずにいう宗方の言い分はわかるが、そんな言い方では誤解されてもしょうがない。不器用な兄に変わって頼正が口を開く。
「えっと、初めまして。犬上頼正です」
 普通の兄弟のようなやりとりを見て、ぽかんと村人達は口を開けていた。だが、頼正の名を聞いてほとんどの者が後退る。
「もう一匹の・・・・犬神・・・!」
「危害は加えないつもりなので安心して下さい。ところで結界を解いたのも貴方達ですか?」
「オイ頼正。そう言うときは『つもり』って付けるな」
 横に座る頼正を呆れたように見ながらも、宗方は安心する。慣れたのか、今はもう頼正に具合の悪そうな様子はない。
(さすがに、血が濃いな・・・)
 その回復力は宗方を上回る。
 狐は鼻を鳴らしながら、宗方を見上げた。眼があって宗方は顔を逸らす。
「不安なら結界壊す意味無いと思うんですけど」
 邑上は自分の後ろにいた村人達の方へ振り向く。
「結界を解いたのか?」
「はい・・・・倉木さんの指示で、結界を解けば犬神が体調を崩すと・・・」
「ばかもん! 遙か昔、私たちの祖が施した封印は、犬神の力を封じるものだ! その血に眠る犬神を起こさぬため、不思議な光石(こうせき)を用いて封印したのだ!」
 ぴくり、と狐の耳が動いた。
「倉木め・・・! おい、ヤツはどこだ!」
「それがさっきから姿が・・・・・・先ほどまで田村さんといたんですが・・・」
 邑上は勢いよく宗方を見る。宗方はその意味を察して肩をすくめる。
「俺を暴行しに来たのはそこのヒゲだけだ。他のヤツには会ってない」
 びくりと田村の肩が震えたが、邑上は見なかったことにした。村人の一人がおずおずと邑上に言った。
「邑上さん・・・・・・確証はねぇけど、倉木さんは墓さ行ったんじゃねぇかな」
「んだ、きっとそうだ。いつもこの時間は墓参りに行ってるもんなぁ」
『霞織さんの墓に』
 村人のその一言に、興味も無さそうに話を聞いていた宗方はざっと血の気を引かせた。一番封印したい記憶を掘り起こす。
 それは血の海だった。
 涙を流した跡が顔に張り付いて、呆然と血だまりの中一人の子供が座り込んでいた。黙って息絶えた肉片を抱きしめ、白い髪の子供はその血生臭い空間に足を踏み込んだ宗方に尋ねたのだ。
『ねぇ・・・・・・かおりが、いったい何をしたの・・・?』
 自分が血塗れになるのも構わず肉片を抱きしめ、子供は虚ろな目で宗方を見上げた。泣かれるより、責められるより、重い言葉だった。
『・・・どうしてかおりはいないの?』
 子供の腕にあるのはもはや肉の塊で、原型はなかった。
 声すら掛けられなかった自分の無力さを思い出し、宗方は舌打ちしそうになったのを堪えて、黙ったまま眉間にしわを寄せた。
 ただ居たたまれなくなって、隣で足をぶらつかせていた頼正の頭に手をのせ、くしゃくしゃとかき回した。
「? なに?」
「・・・・・・・・なんでもねぇよ」
 最後にぺしっと頭を叩いて再び村人達を見下ろして、腕を組んだ宗方を訝しむように見ながら頼正は乱れた髪を撫でる。
 青い眼の狐がそんな宗方を見ていたが、宗方は目を合わせようとしなかった。
 狐はそっと口を開いた。頼正と宗方に聞こえるように、獣の口で人語を話す。
「・・・・・そこの男が言った『光石』というものをもっと聞き出してくれ」
 頼正は一瞬首を傾げたが、すぐに軽く頷いて邑上の方を見た。
「村長さーん」
「・・・・・・・・なんだ」
「さっき言った光石について何か知りませんか?」
「そんなことを聞いてどうする」
「え〜っと・・・・ちょっと知りたいなぁと思って」
「さっさと答えろ」
 苛々と脅すように宗方が言うと、邑上は少々考えて話し出した。
「私とてよくは知らん。私の祖父の祖父が光石を持った人物と知り合いだったらしいということだが、その石は不思議な力を宿していて、鬱ぎ込む者を明るくしたり、弱者に力を与えたりしたらしい。光石は字の如く、自身で発光する物質の石だったそうだ。祖父の祖父は、病で危篤状態となりもはや諦めかけていた自らの命を救って貰ったのだと聞いている。祖父の祖父が犬神に恐怖していると漏らせば、その石を置いてその人物は去っていったのだと」
「・・・・・・・・・・・・・・・・ずいぶんあやふやな話だな」
 宗方が無意識に懐に手をやるが目的のものはなく、眉を顰めて邑上に言った。邑上は肩をすくめた。
「仕方あるまい。もう百五十年ほど前の話だ」
「で、その光石が僕たちの中の犬神を封印する結界を作っていたんですよね? で、倉木さんがそれを持ってっちゃったから、封印が解けたのかな」
 後半は宗方に問う頼正。宗方は完結に応える。
「そんなトコじゃねぇか?」
「・・・・・・まずいな」
 狐が呟いた。頼正が聞き返す。
「何が?」
「その光石とやら、ひょっとせんでも八千夜の魅縒り石の可能性が高い」
「!」
「それがどうして、問題がある?」
 宗方が太い枝の上で片膝を付き、狐に訊いた。村人達は狐が話す内容までは聞こえなかったので犬神が狐と話しているのだと思って驚いていた。
「魅縒り石は持ち主を呼ぶ。八千夜が何かに気付いて走っていったというのなら、きっと石に呼ばれたのだろう」
「それを探してるんだから、良かったんじゃない?」
「だが、八千夜がそれを取り込んでしまえば、その石は無くなってしまう」
 焦っている狐に対して頼正が首を傾げるが、宗方は眉根を寄せた。
「・・・犬神の封印が、出来なくなる」
「そうだ。今は落ち着いているが、お前達に支障が出る。血の匂いを嗅げば、体が騒ぎ、理性が崩壊していくようになるぞ」
「大丈夫だよ、僕たち人間だよ?」
 頼正が抱いていた狐を持ち上げて言うが、狐は続ける。
「人間だから。芯が脆く、危うい」
 長く生き多くを知る九尾の狐の重々しい言葉に、簡単な問題ではないのだと、深刻さを感じ取って頼正は黙る。だが宗方は言った。
「しかし、俺たちにそれが必要だとしても元が八千夜のものなんだったら返すしかねぇだろ」
「・・・・・それはそうだが」
 不満げに唸る狐を見て、頼正が宗方に言う。
「とにかく、八千夜くんを捜そうよ」
「それが手っ取り早いな」
 やれやれと呟いて、宗方は木を飛び降りる。人間ならただでは済まない高さでも、犬神使いには容易い。最小限の音しか立てずに着地した。頼正も続く。
 どよどよと周りの人間がざわめくが、宗方は慣れているので気にしなかった。
「おいジジイ! 墓地はどこだ」
「・・・・・・・・・・この裏の林を抜けて、北にある」
「よし」
 それ以上なにも言わずに邑上とすれ違った宗方。後に続く頼正は、狐を地面に下ろし、会釈して慌てて兄を追う。
 邑上はなにも反応せずに、目の前の地面を見つめていた。遠ざかっていく足音に、拳を固めて杖を握る。
「・・・・・・・・犬厄(いぬやく)が、また・・・!」
 邑上の不吉な呟きは、風の音にかき消された。