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風は、悪戯好きな子供のようだ。優しく人を撫でるときもあれば、厳しく切り裂くときもある。癇癪を起こして暴れることも。
風が渦となり吹き荒れる。八千夜には風の層が見えていた。風圧が刃物のように飛び回るのが見える。見えるが避けるには量が多く細かすぎる。
だが、その風を相手に対処が出来ないのはただの人間だけだ。
「神通力は使えぬが察眼は衰えておらぬ。天狗の目を持つ儂に敵う見込みは、一筋とておぬしにはない」
目線まで上げた棒を掲げ、八千夜は足を踏み込んだ。
「多少の怪我は許せ」
倉木は普段は穏和な目をつり上げて、手を宙で薙いだ。
「子供だろうと容赦はしない。願いに犠牲が必要だというなら、俺はもう何も要らないんだ!」
「何を言うても無駄みたいだな愚か者が!」
八千夜は風に負けないように怒鳴って、倉木に向かって駆ける。倉木から八千夜を振り払おうとして突風が吹き、その風の刃を先読みするが体がついていかない。もどかしさを感じながら八千夜は土を蹴って横に飛び、足らなかった跳躍を棒で地面を突いて補った。
思っていたより素早い八千夜の動きを恐れ、倉木は距離を取る。接近戦に持ち込ませないために、間に風の障壁を置こうとする。だが、八千夜は腕で顔を庇いながら一瞬も迷わず飛び込んだ。
「人間が風を操るのに長けているわけがない。慣れていない貴様が迷う時間を狙えば懐などがら空きだ!」
顔を庇った八千夜の腕に、切り傷が出来る。気にも留めずに振り払って、倉木の正面に飛び出した。
「・・・・・ッ!」
倉木は焦った様子で飛び込んできた八千夜の額を掴んで突き飛ばす。自然の力を手にしても、人間なら手を出す方が本能的には早いのだ。反射的に手を伸ばした倉木に反応できなかった八千夜は軽い体を突き飛ばされるが、受け身は取った。地面を転がって飛び起きる。止まらずに勢いを付けたまま横に跳ぶと、間髪入れずに八千夜がいた場所に風の刃が襲った。
息が切れ、早く打つ心臓を忌々しく思いながら、八千夜は倉木に向かって一足で距離を詰め、倉木が手を構えたのを見て棒を投げた。
「くっ」
棒を払いのけた倉木は、そのたった一瞬で八千夜を見失った。視線を彷徨わせ、八千夜の姿を発見したとき、すでに目の前まで迫っている。発見と共に後ろに跳び、距離を伸ばした倉木は、風に八千夜を吹きとばせと念じた。
だが、風が起こる前に八千夜は自ら離れた。
倉木が疑問を持つ前に、その理由は知れる。
「・・・・・・・・これで、おぬしは何も出来ない」
八千夜の手にある輝きは、犬神を封印する光石。倉木が持っていた時よりも色を失ったそれは、間違いなく八千夜の手に握られている。
近づいて自分に攻撃することが目的ではなかったのだと気付くのが遅れた倉木は、忌々しげに叫んだ。
「・・・くそぉ!」
願ったにもかかわらず、風はもう倉木に従わない。石が手元に無ければ、風はまったく言うことを訊かない。
奪い返さなければ。倉木の手がそれだけを思い、八千夜に伸びる。
だが、元の持ち主に戻ってきた光石―――魅縒り石は、輝いて八千夜の手の中で氷のように溶けていく。汚れた魅縒り石は強酸のように八千夜の手を焼いたが、八千夜は顔を顰めただけで手を開くことはなかった。煙を放ち、たちまち完全に八千夜の手の中でその個体を無くした魅縒り石。次に八千夜が手を開いたとき、そこにはもう白い煙しか残っていない。
倉木は愕然として、手を伸ばしたまま膝を地面に落とした。縋るように見つめる倉木に目をやって、八千夜は首を横に振った。
「・・・・あ・・・・あ・・・・・!」
倉木の瞳に、涙が浮かぶ。そして、倉木にだけ十八年前に失った霞織の姿が映った。
焼け爛れた自分の手の平を見て、八千夜は呟くように言った。
「すまんな、石はおぬし達には渡せんのだ。・・・・・・気が済まんのなら、気が済むまで儂を殴ってくれてもかまわん」
石はやれない。だが、魅縒り石のせいで倉木をさらに不幸にしたのは自分の罪なのだ、と八千夜は倉木に静かに言った。だが今度は倉木が首を振る。
「いらない・・・・! 復讐できないのなら、石がないなら・・・・・・・っ」
倉木は泣いた。そして、呟いた。
どうして神は、俺から全てを奪うのか。
どうしてこの悲しみをはらすことさえ許してくれぬのか。
どうして、神は平等ではないのか――――!
「だから言ったろう・・・」
八千夜の言葉は、倉木にだけ向けられたものではなかった。
「・・・・・神など、いない」
人が真に望む『救いの神』などいないのだ。この世に在るのは、『破壊神』。
それを人は、『悪鬼』と呼ぶ。
「神などいない。だが、救うものは他にあるのではないか?」
たとえ神などに祈らなくとも。
「・・・・少なくとも過去に儂は、救われたよ」
儚く醜く、ちっぽけだと思っていた人間に。
顔を伏せて声を漏らす倉木の後ろで、如月霞織の墓が倉木を見守るように立っていた。
「八千夜くーん!」
がさっと音がしたと思ったら、八千夜の後ろから木をかき分け、すっかり体調を元に戻した頼正と頼正に続くように不機嫌そうな宗方と終始にやけている春日の姿があった。
「頼正! それに宗方と春日、無事だったか」
「うん、八千夜くんも。魅縒り石、倉木さんが持ってるらしいんだけど・・・」
「ああ、すでに儂の中にある」
ぽぅっと光った八千夜の心臓部に一瞬驚いた顔をした三人だったが、頼正はすぐに満面の笑みになった。
「よかったね八千夜くん! ・・・・・・・あれ?」
獣道から八千夜の目の前に立った頼正は、ふと首を傾げた。
「・・・・・・・・・八千夜くんちょっと背が伸びてない?」
整備された、つまり人の手で作られた墓場の道はきちんと石をはめて平らにならしてある。今、八千夜と頼正の立っている位置は同じ高さだ。それなのに、先ほどと目線の位置が違う気が・・・・・。いきなり宗方や春日ほどの身長になったわけではない。ほんの一〜二p程度のことなので宗方と春日はよくわからなかったが、身長の近い頼正はすぐに気付いたらしい。
ああ、と思い出したように八千夜は自分の体を見た。
「少しとはいえ、魅縒り石を取り込み体が天狗の時の姿形に石の分だけ戻ったのだろう」
元々少量の魅縒り石だったので、たいした変化はない。だが、頼正は羨ましそうに八千夜を見ていた。
「・・・・・・・・・・・・・・いいなぁ、僕も早く大きくなりたい」
「? いずれ頼正も宗方ほどになるのだろう? 焦らんでもいいではないか」
「まぁそうだけど〜」
まだまだ先っぽいよ、と頼正は哀しげにため息をついた。ぐしゃっとそんな頼正の頭を撫でながら、春日はからかう。
「俺から見れば二人とも小さいぞ。たいした差はない」
「幾千の時を生きてきた天狗でも、万年生きているおぬしにはかなわんわ」
八千夜の呆れたような半眼を気にも留めず、春日は子供二人の頭を押すようにぐりぐりと撫でていた。
「押すな!」
「縮むっ!」
突如騒がしくなった、その場にふさわしくない陽気さに、嘆いていた倉木は呆然と顔を上げた。そして、渋い顔をしている宗方と目があった。
「・・・・・・犬神・・・」
「倉木誠一か。今回の件はお前が首謀者だそうだな」
「否定はしない。俺は今でもお前らが憎らしい。殺したくて、憎まないと生きていけない」
宗方の手が、見えない空気の球体でも握るように曲げられ、ぱきっと関節が音を立てた。その手を見ながら、決して倉木の方は見ずに呟くように宗方は言った。
「・・・・・血の流れはどうしようもできない。嘆いても悔やんでも、現実は変わらない」
「・・・・・・・・・・・・・」
責めるようなその言葉が、倉木の身に刺さる。身を固くしたまま俯き、地面をひっかくように拳をつくる倉木を見下ろして宗方は命じた。
「二度と俺たち犬上家に介入するな。今後の生涯、一度も犬上の敷居をまたぐことは許さない」
倉木は虚ろな目を宗方に向けた。宗方は横目で倉木と目が合い、ぎくりと身を固めた。
(似ている、あの時の目と・・・)
生気を失った人間の目は、哀しく、全ての絶望しか残されていない。
「・・・・俺が何をしたっていうんだ? 霞織がいったい何をした? 何故お前らは奪う? そんな権利をもっているのか?」
ただ、生きていただけなのに。安穏を、幸福を、日常を満足して生きていたのに。
「お前たち犬神は・・・っ!」
睨むように顔を上げた倉木の目が、大きく開かれ一点に集中した。その視線は、宗方を超え、その後ろに注がれている。宗方は、同じように視線を追って振り向いた。
倉木の視線は、頼正に注がれていた。
「犬神・・・っ!」
驚愕の瞳が、憎悪と怨みに変わっていく。悔しさで泣きそうだった瞳が、炎をつけたように光る。倉木は、叫んだ。
「お前が! お前が何故生きて、笑って、此処にいるっ!!?」
突如叫びだした倉木に、頼正は驚いて一歩足を後ろに引いた。殺さんばかりの気迫に飲まれ、息を呑む。
「・・・・・なんでお前は生きてるんだっ、この化け物!!!」
生まれて初めて、殺意を向けられ酷い中傷を聞いた頼正は、衝撃を受けた。『化け物』という言葉が、体の奥に付き刺さる。
「黙れテメェ!」
宗方が怒鳴って、倉木の首を掴んで引き上げた。
差別や侮蔑はいつものことだ。だが、頼正に対して言うことは許せなかった。
「第十二代犬上家当主として命ずる! この度の不可侵条約打破の件においての責任は倉木誠一のみのものとし、梔村に対する処置は不問に処す! 倉木誠一は、梔村の処分を聞き入れ、倉木家または他所の復興の任を負え!!」
手を離して、倉木を地面の上に落として宗方はさらに続けた。
「今後再び同じ事が起これば、お前の命はないものと思え!」
頼正は、自分がショックを受けていることを感じて、同時に兄が怒っている理由を考えていた。
犬神をその体の内に飼う者としての宿命は、望んで得たものじゃない。しかし、その差別的扱いを理不尽だと感じたことがなかったのは、今まで直接的に憎悪や侮蔑の中に身を置いていなかったからだ。
頼正は、泣きそうに目を細めた。見られないように、俯いて自分の足下を見つめる。
(―――全部兄ちゃんが守ってくれていたからだ・・・)
自分が、いままでそのような侮蔑のなかで衝撃を受けた事が無かったのは。兄が代わりに酷い中傷を受けていたからだ。自分が今受けている悲しみや戸惑いを、兄が常に受けてきたのだ。
今ここで、『化け物』という言葉が胸の内に突き刺さった。衝撃を受け、全身にやりきれない悲しみが蠢いた。
宗方は今までどれほどこんな思いをしたのだろう。
頼正は涙を堪えた。本当に泣きたいのは、自分では無いはずだから。
露わにした怒りを収めていく宗方の腰に、後ろから頼正は顔を埋めて抱きついた。泣きそうになったのと、謝りそうになったのを隠すために。
「・・・・・何だよ」
「なんでもない」
化け物と呼ばれショックを受けているのかと思って、宗方は弟の行動を特に咎めたりしなかった。
それを見ていた春日は、隣で同じように立っていた八千夜に向かって呟いた。その呟きは、八千夜にしか届かない程度の大きさだった。
「犬神の業を背負うには、あまりに小さい肩だな。いつの時代にも、笑顔のためにある悲しみが俺には苦痛だ」
八千夜は笑顔を好む獣の言葉が自分を責めているわけではないと知りながらも、自己嫌悪を感じて少しだけ目を細めた。
「魅縒り石を、儂は一つ得た。だが、それで儂は再びその男を不幸にしてしまったのだろうか?」
八千夜は焼け爛れた自分の手の平を見つめる。そして自分の中を流れる風を感じる。少しだけ、妖力が戻っているのだと感じることが出来る。
八千夜の方を見下ろしながら、春日は儚く笑った。
「・・・・確かに、もうあやかしは世にいらねぇのかもしれねぇな」
あえて八千夜の質問には答えず、春日はそれより口を噤んだ。
陽が落ちていき、冷たくなった風がこの場の五人の肌を撫でた。抱きつかれ腰の辺りだけ暖かさを感じながら、宗方は赤い空を見上げる。
耳のよい宗方は、刺すような冷風を、風の悲鳴のように感じていた。
* * *
「あららー、ひっでぇなコレ」
春日の言葉通り、犬上家は荒らされていた。普段別段手入れはしていないが、花が咲いていた庭は踏み荒らされ、部屋の中のものが乱雑している。
「あいつら・・・・・くそっとりあえず一室だけ整理するぞ。後は明日に村連中に掃除させる」
宗方は村から一つ、新たに持ってきた煙管に早速火を付けてふかしながら、そう指示を出した。丸一日、吸っていなかっただけの煙草の味を五臓六腑に染み渡ると表現した宗方に、鼻のよい春日と頼正は眉をしかめた。春日が一応言う。
「これを機に禁煙したらどうだ」
「冗談じゃねぇ」
間髪入れないその返事に、すでに諦めていた頼正は肩を落として箒を持った。
日も暮れたというのに、寝る場所だけでも確保せねば。掃除の後は、夕食を作らねば。ごたごたして朝からなにも食べていない。
ため息をついて室内の砂を払っている頼正の手伝いをしながら、八千夜は手当てされた自分の手を見てふと気がついて訊いた。
「頼正、腕の怪我はもう良いのか?」
「え?」
包帯が巻かれた腕を、頼正は思い出したように上に上げる。痛みを感じたり包帯による違和感を覚えたりもしていなかったので本当に忘れていたらしい。
くるくると包帯を取っていき、腕の調子を確かめるとすぐに頼正はじゃーんと腕を八千夜に見せた。
「見てみて八千夜くん! 完全回復! ちょっと跡が残ってるけど」
すっぱり切れていた腕の怪我は、もはや微かな跡を残すだけでかさぶたさえ無かった。
腕をまわしたりぺんぺんと叩いてみたりしている頼正を見る八千夜の目が丸くなる。
「・・・・・凄まじい回復力だな」
それを聞いていた宗方は、隣で八千夜と同じように驚いて言葉を失っている春日に訊いた。
「お前か?」
自分にしたように、気を流して細胞を活性化させたのか? という宗方の問いに、春日は頼正を見つめたまま応えた。
「・・・・・・俺じゃない。本来細胞の活性化は当人の身体に負担がかかるからあまりやらないんだ。しかし、そうすると頼正は自力の回復力で・・・・・・?」
驚いた顔の春日に、宗方は一つ頷いて頼正を見つめた。
「犬神の血が濃いアイツはもともと回復が早いんだが・・・・・異常な早さだな」
(結界が壊れたことに関係してるのか・・・・?)
笑っている頼正を見て少しだけ不安を感じるがどうしようもできない。
宗方の言葉を聞きとがめて、春日は眉を寄せて訊ねた。
「血が濃い? どういう意味だ」
「・・・・・犬神の血は、薄れてねぇってことだ」
「!」
八千夜と共に楽しそうに笑う頼正を見て、宗方は煙管の灰を庭に落として呟いた。
「どんなに少なくとも、犬神の血の効力は薄くはならない」
春日は驚いたように頼正を見た。血が薄れているから、人間としての生活が出来ているのだと思っていた。しかし、もしも『まだ覚醒していないだけ』ならば・・・。
春日の思案を遮るように、宗方が問いかけた。
「お前、あいつ何歳に見える?」
宗方は頼正を指して訪ねた。春日は突然の質問に一瞬面食らった顔をしたが、すぐに考えて応える。
「十・・・・・・二、三くらいか?」
人間の成長の仕方は知っている。元服する少年達は確か十四、五だったはずだから、それよりももう少し幼いだろうと考えての答えだ。
だが。
「二十一だ」
「は?」
やっぱりな、というような響きが含まれた言葉。宗方は頼正を見つめるその仏頂面を一瞬だけ痛ましげに目を細めて春日にだけ聞こえるほどの声で言った。
「頼正は今年で満二十一歳。俺はこんなナリだが今年で三十八になる」
「な・・・っ」
どう見ても、頼正は少年のようでとても成人には見えない。宗方も、まだまだ年若い青年に見える。
「犬上の一族は寿命が人と異なるんだ。・・・・・・・俺の先祖には最長二百年生きたヤツもいる」
自嘲気味な笑みが、驚いた顔の春日の方を向いた。
「確かに、人じゃないかもな」
―――いいなぁ、僕も早く大きくなりたい・・・。
そう言った頼正の言葉は、どれほど重いものだったのか。春日はいまここで気がついた。
(本当に・・・・・・)
同情じゃない。けれど。
(なんて重い業を背負ってしまったものか・・・・・・)
九尾の狐は細い目を頼正に向け、その笑顔を途絶えなければいいと願った。
なんとか一室を片づけ、そこに布団を並べて四人とも枕を並べ在った。
「なんかみんなで寝るのって楽しいね」
にこにこと頼正は屈託なく笑って言うが、その横に寝ている宗方は体を横に向けながら呟いた。
「・・・・むさ苦しい」
「美麗な俺がいるだろうが」
間髪入れずに言われた春日の言葉は、当然流された。布団に入りながら、枕を抱きしめて、自分の頭上で横を向いている宗方を見る八千夜。
「・・・・・おぬしは寝るときも眉間にしわを寄せているのか」
「ああ? 喧嘩うってんのかクソガキ」
見上げるように睨んできた宗方の上に、頼正が飛び乗った。
「ぐっ」
「僕さーこんなにたくさんと寝るのはじめてだよ。兄ちゃん、お父さんとお母さんと一緒に寝たことある?」
「いいからどけっ」
がばっと布団をめくって上から頼正を落とし、身を起こして布団の上であぐらを掻いた宗方は頭を掻く。
「あ〜、親父とお袋?」
「うん。そういやあんまり話聞いたこと無かったなーと思って」
わくわくと期待の眼差しを向ける頼正に、ばつが悪そうに宗方は考える。
宗方は頼正に、母が実の姉であることを話していない。というか姉の存在は教えたことがない。
(嘘をつくべきなのか? 真実を話すべきなのか?)
「・・・・・・・覚えてねぇよ」
しらばっくれることにした。
「えー? お母さんは僕を産んですぐ死んだってことは兄ちゃん十七、八だろー?」
不満げな声に、どうしたものかと宗方は眉間にしわを寄せる。外見は子供でも、頼正はもう二十歳過ぎだ。今回の件でも、そろそろ話しておくべきだと思った。
だが。
「しらん。俺はもう寝る」
言えるものか。
布団をかぶった宗方の体を揺すって、頼正は不満げな声を出す。
「なんで? ねぇ兄ちゃん〜」
「・・・・もう黙れ、俺は寝る」
手は離したものの、不満げに眉を寄せる頼正。宗方を見て八千夜が言った。
「もう寝るのか」
「俺は疲れたんだよ」
けたけたと笑いながら、春日はじとーっと布団にくるまった宗方を見つめ続ける頼正の寝着の裾をひっぱった。
「寝かせてやれ、早寝早起きはいいことだぞ。寝る子は育つというしな」
「もう育たねぇよ」
宗方が苛立たしげにそう言うが、頼正は勢いよく布団を捲ると素早くそのなかに収まった。
「僕も寝る」
身長を多少気にしているらしい。
せまぜまと部屋いっぱいにしかれた布団の上を四人で寝るのは、見ていて少し窮屈だが案外無理なものではない。特に、生まれてから今まで兄としか生活したことが無く、一緒に寝ることもずいぶん前に止めた頼正は楽しそうだった。布団に入ってもなかなか寝付けないのかくすくす笑い声が聞こえた。
「兄ちゃん兄ちゃん」
「・・・・・・・・・・・・・・なんだ」
癖なのか、壁の方―――左肩を下にして横になった宗方に、頼正は楽しそうに言った。
「家族みたい」
「は?」
「昨日会ったばかりだけどさ。八千夜くんと春日さんと、兄ちゃんと僕とがいて、家族みたいだなぁって」
灯りを消した室内で、頼正の声が小さく聞こえる。宗方に言ったつもりだったが、頼正の頭上から明るい春日の声がした。寝ていなかったらしい。
「その年で人恋しいのか頼正?」
からかいを含んだ言葉だったが、気にせず頼正は笑う。
「んー、というより嬉しいんだよ」
背中で頼正の声を聞く宗方。夜目が利く犬神の瞳は、暗闇の中開かれていた。何を見るでもなく少しだけ優しく細められる。
「家族が増えて、嬉しいんだ」
それを聞いて春日も微笑ましげに笑い、べしっと隣で布団にくるまる八千夜を軽く叩いた。春日は八千夜が寝ていないことに気付いていたのだ。
その意味に気付いて、八千夜は黙ったまま体を動かした。暗闇だと知りつつも顔を隠して、柄にもなく照れる。
(・・・・・この家を、出る機会を逃してしまったな・・・)
だが、それはそれで自分も嬉しく思っているのだと八千夜は気付いていた。
孤高に生きるあやかしとして、『家族』という言葉に新鮮さを感じていたのだ。八千夜にとっても頼正にとっても、家族になることは嬉しい且つ新鮮なことだった。
―――この時が、いつまでも続けばいい。
その願いはここにいる誰のものかわからなかった。ただ、八千夜は思う。
そう思うことは当然のことだと。これが幸福という気持ちの一種なのだと。そして、そう感じると同時に罪悪感も生まれた。
そして、自分はそれを誰かから奪ってしまったのだと。
風のながれる体が、ちょっとだけ、痛みを感じた。自分が幸せを感じることが、後ろめたく思った。
いまここで自分が微笑むために。いったいどれだけの人間が涙を零したのだろうかと。
八千夜はただ、胸が締め付けられていた。
* * *
八千夜は夢を見ていた。
千年の眠りにつくもっと前の、過去の思い出としての記憶。金剛坊・天靜八千夜の名のままに、青年の体躯にはその飛行能力に比例するように無駄な肉はなく、銀の髪は常に風になびいて光を反射し、背には大きく漆黒色の翼があった。その翼を一つ羽ばたかせれば、突風が生まれ、広い空を自由に飛び回ることが出来る。
だがほぼそんなことはなかった。八千夜はいつも配下の鴉に囲まれ、つまらなさそうに片膝を抱えて高い木の枝に座り、眼下を見下ろしていた。そして実際、八千夜はその行為になんの感情も持っていなかった。
時々天狗が棲むと言われる山奥に迷い込む人間がいて、その人間を軽く脅かして再び足を踏み入れないようにさせる。
それだけだった。八千夜が干渉する出来事はほぼそれだけだ。あとは風を肌に感じ、食事も睡眠も特別要らぬ体で日々を過ごし、長い寿命を待っていた。もっとも、人間のように『生きる』と言うよりは、そこに『在る』ものとするあやかしに、寿命という表現は的確ではないかもしれないが。
つまらない。人間ならそう言うだろう。
天狗としてそこに在る八千夜には、それ以外の生き方を知らなかった。だからそれが当たり前だった。他の生き方など知らないし、知ろうとすることさえ思いつかなかった。
言葉も喋らない鴉たちに囲まれて、日が昇り、日が沈むまでの一日の過程をただ見つめる。闇に包まれても、この辺り一帯は天狗の地として他にあやかしも現れなかった。
ずいぶん前に、八千夜のとって独りではなくなる相手だった者は死んだ。それがいつだったかももう思い出せない。
そんな毎日で、変わることを望んだのは。
一人の人間に、出会ったからだ。
「天狗?」
その人間も迷い込んだようだった。高い木の上に八千夜の姿を見つけ微かに目を大きくした。
「・・・人間は去(い)ね」
獣すら恐れる金の瞳で睨んでも、その人間は脅えるどころか苦笑した。
「つまらない目をしている」
「・・・・・・・・・・・」
人間は、鴉たちの威嚇にもめげずに八千夜に手を差し出した。
「来いよ天狗」
ただ毎日を見ているだけだった天狗は、ずいぶん動かなかったがやがて人間の手を取った。
理解していなくとも、不変の毎日に飽きていたのかもしれない。人間の“行動”というものに付き合っても良いかと漠然と思った。
だが、それが過ちだった。
八千夜は山から出て世界を知った。そして均衡が崩れる。
――――裁きを。歯車を乱した者に罰を。
多くの声から八千夜は逃げた。
――――『柱』である身を忘れたあげく、掟破りのていたらく。もはや義を感じる必要も無し。
八千夜の手足に、冷たく重い枷が付けられる。
――――深く眠れ。己が願いを忘れるまで。
拒否することは許されなかった。
ただ、人間と共にあるなかで『感情』というものを知った八千夜は、涙を零した。声には出さずに、何度も何度も謝って。許されるはずもないその罪の重さに、胸が締め付けられる。
心臓が掴まれたように、痛い。
「・・・・・・・・・・・・・・っ」
八千夜は目を覚ました。その瞬間、夢の内容は忘れたが嫌な汗だけ背中に残った。
嫌な夢だった。苦しい夢だった。
それはわかる。だのに夢であることに安心することは出来ない。
『この夢は記憶で、真実だった。』
忘れてしまった夢の内容。それでもこれだけははっきりと覚えている。
「・・・・・・・・っ!」
まだ夜も明けない暗闇の中で、八千夜は両目を片手で鬱ぎ、ぎりっと歯を噛み締めた。