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「しばらく、ここを空ける」
ある朝、そう言って宗方は見慣れぬ服を着て姿を現した。八千夜と春日と頼正は、それぞれ別の内容のことを同時に言った。
「なんだその格好は」
「何処行くんだよ」
「いってらっしゃーい」
片手を振って笑顔で見送る頼正の方を振り返って春日は訊いた。
「なんだ、どこかへ行くのか?」
「うん。兄ちゃん一応小説家だからね、原稿出しに」
頼正が説明する間にも、宗方は用意を進めていく。ネクタイを締めながら、必要な物が足らなかったのか早歩きで部屋に向かう。
「本当は担当さんが取りに来るものらしいんだけど、こんな山奥だし。メールが使えればいいんだけど兄ちゃん機械類に弱くてさぁ」
「余計なことは言わなくていい!」
すこーん!と襖の隙間から飛んできた分厚い本が頼正の頭に当たる。
「メール? ああ、人間が使うエレキテル技術で飛ばす手紙のことだろ?」
「うんうん、それ」
当たらずとも遠からずな春日の例えに頷いて、頼正は本の当たったところを押さえて痛みが引くのを待つ。
話を聞きながら宗方の行動を見ながら、八千夜は呆然とする。千年経つとそんなに変わるのか、と何故か感心してしまっていた。
そんな八千夜に気がついて、春日は急にひらめいたとばかりにニヤリと笑った。奸計をめぐらせた狐そのままに。
「・・・・・・・・・・俺は、仕事に行くと言ったな?」
宗方は不機嫌だった。
確かめるその言葉に頷いて、春日は耳を覆った。予想通り、宗方の怒鳴り声が響いた。
「なんで俺がこのガキ連れて街まで行かなきゃならねぇんだ!? 冗談じゃねぇ!」
そんな兄の様子に苦笑する頼正の隣では、八千夜が困ったように自分の格好を見下ろしていた。頼正に借りた白いTシャツの上にカーキ色の上着を羽織り、ジーンズ生地の半ズボンと靴下を履いて、八千夜は居たたまれないように突っ立っていた。
「千年の眠っていた八千夜には現代がどうなってるかわからんだろう? だから宗方が行くならついでにこいつも連れて行ってやってくれと思って」
「断る」
苛々していることは明白の宗方を宥めて、春日は発案者として交渉していた。そのやりとりを聞きながら、八千夜は頼正に話しかける。
「・・・・・へんな形の服装だな。今の時代ではこうなのか?」
「ここら辺ではみんな洋服は着ないもんなぁ。まあ僕もたまに山降りてその時に数着買っただけだけどね」
「春日が言っていた『都会』か?」
「僕たち犬神憑きには、苦しい場所なんだけどねぇ。まあ時々村の人たちには内緒で」
食料などは自力で取ることも育てることも出来るが。
「服まではちょっとそうはいかないからね」
梔村を経由して物を得ることが多いのだが、あまりに『飼われた』生活に痺れを切らした頼正が、宗方を催促し街におりたことがあったのだという。
「そのとき兄ちゃんはちょっと知ってたみたいだけど、僕初めてでさぁ。あまりの悪臭に倒れかけたよ」
排気ガスや化学物質の匂いが混ざった都会とやらは、鼻の良い者にはかなりの不快感を与える。しかし騒音も著しく自然も少ないが、人が多く華やかなのだと。
聞く限り八千夜は決してその都会とやらに行きたくはなかったが、あまりに勧める春日に押され、頼正の服に身を包んだ。だが違和感があって気持ち悪い。
「あのガキは、見た目が目立ちすぎるんだよ! 金の眼と銀の髪だぞ!?」
「迷子にならなくていいだろう?」
「いいわけあるかー!」
薄い青色のワイシャツにネクタイを結んだだけの宗方。その姿はさながらスーツを脱いだ若いサラリーマンのように見えるが、残念なことに今ここにその単語を知っている者はいない。
「とにかく、俺は一人で行く!」
面倒ごとは御免だ、と怒鳴りながら宗方は玄関の戸を開けた。その時、後ろから腹黒い笑みを携えた頼正の明るい声が響く。
「じゃあ兄ちゃんが居ない間、僕はみんなと話でもして待っとくよ。兄ちゃんのことで話題も尽きないし」
ぴくり、と宗方の手が止まる。頼正はさらに続けた。
「初めて都会に行ったのいつだったかなぁ。確か僕たち二人とも見かけは子供だったからお巡りさんに保護されて、その時兄ちゃんが・・・・・・」
すたすたすた、と戻ってきて宗方は頼正を見下ろすように顔を近づけた。
「頼正テメェ・・・」
「家族って手の内わかってるから厄介だね! ねぇ黙っとくからさぁ、八千夜くん連れてってあげてよ」
笑顔で言われて、宗方は引きつったように口の端を上げた。がしっと頼正の頭を掴んでわしわしとかき回す。
「・・・・俺を脅そうたぁ、イイ性格になったじゃねぇか。あぁ?」
「脅そうだなんてトンデモナイ。僕はお願いしてるのに」
嘘だ。春日と八千夜は同時にそう思った。宗方をあしらう頼正の手腕に冷や汗が流れる。
宗方はしぶしぶといった感じで、頼正と春日を睨んだ。
「・・・・てめぇら後で覚えとけよ! 扱き使うからな!」
妥協した宗方にうんうんと形ばかり頷いて、二人は笑う。宗方は最後に、突っ立っている八千夜の方を向いた。
「騒ぐな、目立つな、居なくなるな! いいな!?」
宗方の迫力に押され静かにこくこくと頷いて、八千夜は宗方の後を追う。靴というものに慣れないまま顔を顰めて扉を出ようとしたとき、頼正が言った。
「八千夜くん、行ってらっしゃい」
驚いて、一瞬返事に詰まったが。
「・・・うむ」
少しだけ照れてから、八千夜は小さく返した。
頼正の『家族みたい』という言葉。それを生活の内で何度も思い返すことがあった。
起床して頼正に「おはよう」と言われたときや、食事時に箸の持ち方で宗方に注意されたとき、春日と共に就寝するとき。些細なことで、八千夜は『家族』という感覚に戸惑っていた。
犬上家は八千夜を歓迎していた。嬉しく思うが、比例して苦しかった。
罪悪感に苛まれ、胸が痛い。
(・・・・それが、罰なのだろうな)
ならば甘んじて、受け入れなければ。
八千夜は笑顔で手を振り、玄関の扉を閉めて宗方を追った。
扉が閉められ、留守番組の二人は玄関の先を見つめる。頼正が呟いた。
「・・・八千夜くん、無理してる?」
「かもな」
独り言にしては疑問系だったその言葉の返事を曖昧に返し、春日は奥へと足を向けた。
「春日さんは、やっぱり、その八千夜くんがしたことを・・・・怒ってるの?」
「いや」
心配そうに後ろをついてきた頼正に微笑みかけてやる。
「あいつとは長い付き合いだ。責任感の強いやつだからな、己が許せねぇんだろ」
(それに・・・・・あいつ自身、失ったものがあるからな・・・)
夜にうなされているのを知っている。休息であるはずの睡眠を満足に取れていないと知っていて春日は黙っている。
言っても何も出来ない。ならば、無理をして笑っているというのなら、あえて騙されてやろうと春日は決めたのだ。
春日は、話題を変えた。
「ところで、宗方の話って何だったんだ? なんか恥ずかしい過去でもあるのか?」
「内緒―♪ 兄ちゃん話したら怒るしね」
頼正は思い出したようにクスクス笑って、元気に言った。
「さーて、じゃあ兄ちゃんに扱き使われる前にちょっとでもこなしておくかな。冬に向けて薪割りでも」
「二人が帰ってくる頃までに、夕飯も作って・・・風呂も沸かしとくか。それまで掃除だな」
頼正と春日は、指を折って家事の雑用を並べ始めた。
数日前の梔村の連中が散々家の中を引っかき回したらしく、いまだ掃除が必要なところがたくさんあるのだ。手が行き届かないほど、犬上家が広いのも理由の一つだと言える。
(・・・・倉木さんも、そんなに厳しい罰は受けなかったみたいだし)
倉木はその後、梔村からほぼ宗方の言葉通りの処分を命じられたらしい。しかしまだ保留で正式に処分されるのはさらに後となる。村長の指示に背いたことと、犬神に手出ししたことが罪に問われている。完治しているとは言え、宗方に暴行を働いた田村をはじめとする村人数名もそれぞれ処分が下る。
軽い処分で済んだのは、頼正が助言したからでもあった。宗方がどう言うか心配だったが、頼正は兄に必至に頼んだ。倉木には犬上家の介入は禁じたが、やはり定期的に梔村の人たちが来ることは避けられないらしい。
一体何をしに梔村の人たちは嶮しい山を登って犬上家に訪問するのかと聞くと、宗方は言葉を濁した。聞かない方が良いのだろうかと、頼正もそれ以上追求しなかった。
「・・・・・・さ、がんばろっかな!」
頼正は笑いながらも思っていた。犬神について、自分は知らないことがたくさんあるのだと。宗方が語りたくない『過去』もあるのだと。
倉木の目が、それを物語っていた。頼正を睨むあの目は尋常ではない。
気にならないと言えば嘘になる。でも今は。
「頼正―、俺はこっちで部屋の整理しとくから」
「あ、はい! 兄ちゃんの部屋には入らない方が良いよー! てゆーか散らかってるのいつものことだからほっといていいって!」
とりあえず今は、掃除をしよう。
* * *
山道を速いスピードで下りた後、しばらく山道と農道と田舎道を歩いて、電車に乗って揺れること約二時間。電車も初めて見る八千夜には驚愕する出来事だった。はじめは興味深そうに電車に乗っていたが、途中から気分が悪いといってぐったりしていた。
「帰りも乗るぞ」
宗方の言葉に憂鬱な気分となりながら、八千夜は駅を出た。がやがやという人の喧噪を聞き、八千夜は目を開いた。
そびえるように立つ四角い箱のような建造物。ちかちか光る色とりどりの奇っ怪な箱、それに合わせて歩く人の波。不快な匂いをまき散らしながら走るその箱は、自動車というらしい。
「四角い街だ・・・」
いわく、箱のようなものがなんと多いのかと。
呆然としながら、八千夜は空を見上げた。山の空よりも灰色がかったその色はくすんでいるように見える。そして忙しなく行き交う、気分が悪くなるような人だかり。
「おら、突っ立ってんじゃねぇよ。行くぞ」
人混みに紛れるように宗方がそう言ったことで、八千夜は意識を取り戻して慌てて後を追った。
「・・・っ。なんだこの人の多さは・・・・祭りでもあるのか? それとも帝の召集か?」
「どっちでもない。ここらへんはこれが普通だ」
慣れぬ人混みの中、前に進むことに苦労しながら八千夜は宗方の後をついていく。宗方は慣れたようにまっすぐに進んでいく。時々振り返っては八千夜がついてきているか確かめているので、それほど八千夜を煩がっているわけでもないようだ。
だが確実に八千夜は目立っていた。
「すごい綺麗な髪の子ねぇ」
「白・・・・よりも銀? 地毛かなぁ。わっ、目もすご・・・」
「染めてあの色は出ねぇよ。てかなんだありゃ、タトゥ? ほら頬のトコの」
人混みの中でそんな呟きを聞きながら、宗方は軽くため息をついた。この噂が聞こえる限り、八千夜がついてきていることはわかっていたがたびたび振り返った。
背が低い八千夜は、前から来る人を避けては進めなくなり、宗方もゆっくり歩いているのだがなかなか追いつけていなかった。
宗方自身人だかりに慣れているわけではないのでうんざりしているが、八千夜に比べれば幾分マシだろう。
「八千夜」
宗方は、後方で人とぶつかってこけそうになっている八千夜に見かねて声を掛けた。八千夜が返事をする前に手を掴んで引っぱる。
「とりあえず所用を片づける」
それだけ言って、宗方はもう振り返らず歩き始めた。周りから聞こえる女性二人組の控えめな笑い声が耳についたが、気にしている余裕はない。
宗方と八千夜。もっと幼い子供ならまだしも、十二、三歳ほどの子供が手を引かれている光景を見て、周囲の注目が増えた気がするのは気のせいだろうか。
「すまんな宗方」
話題の肴になっている本人が全く気がついていないので、宗方の眉間にしわが増えた。
駅から十五分ほど歩いて、宗方はビルの前で足を止めた。周りと比べると幾分こぢんまりとしたその古びたビルの戸を開け、宗方は八千夜に言った。
「ちょっとここで待ってろ。すぐ終わる」
「わかった」
頷いた八千夜に指を突きつけて、宗方は念を押す。
「動くなよ」
早足でビルの中に姿を消した宗方の背が見えなくなると、八千夜は壁にもたれて絶えず流れる人の波を見始めた。
三階建てのこのビルの最上階まで上がった宗方は、階段のすぐ前にあるガラスの扉を遠慮無く開けた。中は慌ただしく仕事をする人たちが数人いるが、宗方が入ると肩胛骨の辺りまで伸ばしたストレートの髪を茶色く染め、縁取り眼鏡を掛けている女性が宗方に気付いた。宗方も女性に気がつく。
「あら、むーちゃん。久しぶりね」
「変なあだ名勝手に付けるな香川。続き書いたから持ってきた」
宗方の担当である香川紀子(かがわのりこ)。二十九歳独身の彼女は、なかなか巧みな手腕を持つ元雑誌記者だ。現在は出版会社の女性社員だが、なかなか侮れないところをたまに見せる。
紀子はコーヒーの入った白いマグカップを置いた。その前まで宗方が歩いてくる。宗方が手渡した封筒を受けとりながら、紀子はにっと笑う。紅を引いた口が弧を描いた。
「はいはーい、も〜いっつも忙しいところに持ってくるわねぇ。ま、私はむーちゃんの小説好きだから優先してあげるわよ。目ぇ通すまで待っててくれる?」
「今日は連れが居るんだ」
「あら珍しい。彼女?」
「違う。ウチの居候のガキだ」
「・・・・電車で二時間、バスで一時間、徒歩二時間かかるほど田舎のむーちゃんの家に? 駄目よォ、折角若いんだから今のうちに女の子とも遊んどきなさいよもー」
実際宗方は三十七歳だが、紀子には二十二歳だと言ってある。それでも「童顔ね」と言われたが、さすがに弟である頼正より年下にさばを読むつもりはない。
「ほっとけ。それより香川、夕刻にまた来るからそれまでに頼めるか?」
「わがままねぇ、自宅にパソコン置きなさいよ。しょうがないわ、むーちゃんの頼みなら頑張っちゃうわよ私」
「すまねぇな」
紀子は笑いながら宗方の首に手を伸ばして抱きついた。スキンシップが多いのはいつものことなので、宗方は眉を顰めただけだ。
「律儀に原稿持ってくるわよねぇ、むーちゃんは。まったく今から二人ほど原稿を取りに行かなきゃいけないセンセがいるのよぉ、見習って欲しいわ〜」
「そりゃ難儀だな」
「今度暇なとき、一緒にお酒でも飲みに行きましょうよ」
目を細めて絡んでくる紀子。下心があるのではなく、彼女は友人にも過剰にスキンシップをする質だ。宗方は軽く笑って抱きつかれた首を動かす。
「今度な。じゃあガキ待たせてるからもう行く」
「帰りは別に連れてきてくれて良いわよその子。心配なんでしょ?」
ちょっと眉間にしわを寄せて宗方は黙る。図星を指された宗方のその行動にくすっと笑って紀子は手を離した。
「わかりやすいわねぇ。じゃあここ閉まる前にまた来て頂戴。むーちゃんのことだからほぼ手直し無いと思うけど」
紀子は封筒から原稿用紙を出し、さっと目を通す。
「ほんとに、こんなに妖怪について詳細に書ける人なんて滅多にいないわよ?」
宗方は様々な妖怪が出てくる怪奇小説家だ。それはマイナーな文献のようなものから、フランクなフィクション小説まで様々だった。
「うちの蔵に資料が山ほどあるんでな。じゃあな香川、後で」
「まったねー☆」
ガラス戸を開け出て行く宗方にひらひらと手を振って見送ってから、紀子はコーヒーを一口啜る。
(うーん、笑うとなかなか格好いいのに眉間にしわ寄せちゃってるのが勿体ないわよねぇ)
宗方の笑顔を見て不意打ちを食らった香川は、ごまかすようにそのままコーヒーを飲みきって早速原稿に目を通し始めた。
待ってろと言われた八千夜は、言われた通りただじっとその場にいた。目の前を流れる人の群れを見ながら、時々視線を感じては何か目立つ行動をしているだろうかと首を傾げた。
人の多さに酔いかけた八千夜は、電車でも酔ったことを思い出して人混みから目を逸らした。自然と重いため息が出てくる。
(かつての人間たちは、こんなに集まることは無かったがなぁ・・・)
驚いたが、事前に春日や頼正に聞いていたので取り乱さずにすんだようなものだ。あの時は過剰に説明して脅していると思ったが、あの言葉は全て真実だった。
(頼正が気分を悪くしたといった意味がようやっとわかった・・・・)
たしかに空気は澄んでいないし、騒音も頭が痛くなりそうだ。
(儂は今人間として耐えられるが、犬神の血を引く頼正や宗方は鼻や耳に辛かろうな)
これが春日の言っていた『えれきてる』の力か・・・と妙に感心し、八千夜は空を飛ぶという人間達の技術に密かに賞賛した。
もっとも、この技術に至るまでの経緯に関しては賞賛できないかも知れないが。
鮮やかな色の服を着た人たちの流れを再び目で追い始めたとき、ふとある一点で目がとまった。
人混みに紛れていたが、その者を見て体の中の風がうずく。
サングラスをかけていて目は見えないが、まっすぐ前を見て歩くその男の姿は。
「・・・・・・・・・!」
ばっと凭れていた体を起こしてその男の後を目で追う。だが人が多すぎて見失ってしまった。
「くそっ」
八千夜は男を捜すために、躊躇い無く人混みの中に走っていった。
(折角街に出たから・・・・あとは買い物をして、八千夜と春日の必要なもんもそろえないと駄目か・・・・・・・原稿用紙と日用品は買いだめしといて)
今日は荷物持ちが居るから、多めに買おうと考えながら一階に向かい、宗方は外に向かって声をかける。
「待たせたな・・・・・・・・・・・八千夜?」
一階の入り口付近を見回したが、あの目立つ頭が見あたらない。見えるのは流れていく人混みだけだ。
宗方は頭を押さえて毒づいた。
「〜〜〜あのクソガキ!」
だから嫌だったんだ! と宗方は心の中で怒鳴った。
* * *
何度も何度も、夢に出てくるその顔は。
八千夜に感情を教え、退屈を払拭し、未来を与えた。千年経てども忘れることは出来ない。
(清秋(せいしゅう)・・・っ!)
―――――何故お前がここにいる?
宿命の檻から八千夜を解放し、清秋は八千夜の目の前で死んだ。
人混みを縫うように捜し、次第に道は住宅街へと向かっていった。初めて見るその道でも八千夜は捜す。
捜してどうする気なのか。出会って、抱擁でも期待しているというのか。八千夜は首を振る。否、それ以前に本当に清秋だったのかと。
見間違いかも知れない。八千夜は横顔しか見ていない上に相手の目は隠れていたのだから。一瞬しか見ていない。それでなぜ、かつて目の前で死んだ人間だと思うことが出来るのか八千夜自身不思議だった。
でも。縋るように、八千夜は清秋の姿を捜す。息が切れても、慣れぬ靴に気を取られ転けそうになっても、走った。
場所はもうわからない。これだけの人の中でただ一人の人間を捜すことがどれだけ困難なことかもわかっている。
それでも。
「・・・!」
八千夜は小さな公園にたどり着いた。目標を追ってきたわけではない、探すうちにたどり着いたその空間は、別次元のように八千夜の目には映った。
足を踏み入れ、ベンチを見つける。荒れる息を整えながらベンチに座った。数人しかいないその公園で、八千夜は首筋を流れる汗を拭って空を見上げた。まだ昼である空は太陽がその所有権を保持していた。
「・・・そもそも、生きているはずがない」
ぼそりと八千夜は呟いた。自分自身に言い聞かせるようだった。
清秋は、千年以上前に死んでいるのに。ここにいるはずがない。
自嘲を含んだ笑みを浮かべ、八千夜は両手で目を覆って空を仰いだ。馬鹿馬鹿しい。そんなはずがないのに。
(儂は何をやっているのか)
宗方のもとへ帰らなければ。
『疫病神―ッ!』
かつて八千夜をそう罵った女性を、思い出した。あの時も、八千夜は清秋の元へ戻ろうとしていたのだ。
そして清秋は死んだ。
確かに疫病神だった。
手で覆った下の顔が少しだけ歪められる。涙は零れない。もう泣き叫んで気が済むほど簡単な感情ではない。
もともと犬上家を出ようとしていたのだ。これが良い機会なのではないか?
八千夜はそう思った。疫病神と言われた自分が居れば、いつかまた彼らにも不幸をもたらすかもしれない。
頼正の笑顔を見るたびに、彼らと親しく時を過ごすたびに、怖い。
いつかまた、奪ってしまうのではないのだろうかと。それを防ぐだけの力も、権利も持っていない。
八千夜は顔を隠して俯いた。この金の眼が憎らしい。
いっそ抉ってやろうかと、何度思ったことか。
『お前が・・・・・・・・』
清秋の言葉は、それ以上続けられなかった。八千夜に向かって手を伸ばし、最後の言葉を発す前に息絶えた。夢で何度も清秋が出てくる。そのたびに、死に際のその台詞が紡がれる。
何を伝えようとしたのか。
冷たくなっていく清秋を抱えて、八千夜は何も出来なかった。ただ口の動きをたどたどしく目で追って・・・。
(あの日も、木枯らしの吹く日だったか・・・・・・・)
冬ごもりに入る前の季節。早とちりした雪の白さと、赤い清秋の血。映えるほど違いを見せたその色合いを、強く覚えていた。千年の眠りを挟んでも忘れることはない。
そんな八千夜に、突然声がかけられた。
「悩め少年」
八千夜は薄く手を離して横を見る。
しわのついた白衣を風になびかせて、一人の男がいつの間にか八千夜の座るベンチの近くに立っていた。横から窺える眼鏡の奥の瞳は焦げ茶色。左肩には真っ黒な仔猫をのせて、無精ヒゲを撫でながら空を見上げている。
八千夜は静かに男の方を向いた。男は空を見上げたまま言葉を続ける。
「若いウチは悩んどけ。でも苦しくなったら助けて貰え。思い詰めても解決しなかったら、一回くらい忘れちまえ。楽になれよ」
男の低い言葉が、励ますものだとわかる。八千夜はその心遣いにいたく感謝し、口を開いた。
「そうはいかんよ。自分の都合で彼らを一時でも忘れることは、あってはならない」
八千夜は指を組んで背もたれに背を預け、呟いた。
「儂は彼らを、忘れてはならない」
首だけ男の方に向けて苦笑する。
「助けを請える、立場でもない」
「・・・・・・・・若いのに苦労してんなぁお前さん」
男は片眉を上げて八千夜を見た。男の肩の猫が短く鳴く。
「生きてるとよ、そりゃ苦労もするさ。泣きたくもなるさ。でも泣けたら幸せだとおもわねぇか?」
軽く首を傾げた八千夜に笑いかけ、男は言った。
「興味、好奇心、探求心。それくらいしかオレには残ってないのよ」
「しょーもねぇ男だろう?」と自分で続け、しわくちゃの白衣のポケットに手を突っ込んだ。
「毎日毎日くだらねぇと思って生きてるとよ。人間ってヤツは『意味』を求めたくなるんだよ。何でここにいるのか、何でこんなに苦しいのか、嬉しいのかってな。理系文系にかかわらず、みんな哲学ってのは通る道だと思うぜ」
男の話は八千夜にはわからないところも多々あったが、八千夜は真剣に聞いていた。どこか胸に染み入る言葉だった。
「・・・・ボウズにゃ『哲学』とかわからんか? 簡単に言うと、人生を全うしてないうちに人生を振り返ることだよ」
黙ったまま八千夜は小さく頷いた。余計なことを言って男の言葉を中断させる気は無かった。
「悩むのってよ。しんどいけど、必要なことだと思う。それがなきゃあ人は生きていけねぇよ。悩まずに、ただ日々を過ごすだけを幸せとは言わない。幸せは個人で違うモンだが、少なくともオレはそうさ。退屈な日なんてオレには耐えられねぇ」
遠くを見てそう言うと、男は黙った。気まずくないその沈黙を崩すことは躊躇われたが、八千夜は言う。
「・・・・・おぬしは?」
「あ?」
「おぬしの幸せは?」
八千夜がぽつりと問うと、男はにやっと笑った。
「オレは、研究対象がありゃあ幸せだぜ〜?」
はははと軽快に笑うと、男は肩を上げた。
「生きてりゃ知らねぇことがたくさんある。だからオレは幸せさ。なあ?」
顎を撫でながら同意を求められた黒猫は、気持ちよさげに目を細めて喉を鳴らした。
八千夜はその光景を微笑ましげに見て呟いた。
「・・・儂は、他人の幸せがこの上なく嬉しい。例え自分が不幸だろうと」
自分は奪ってしまった身だから。自分が不幸でもいい、誰かが幸せに笑っているのならそれだけで幸せなのだ。
「おぬしが幸せだというのなら、それに越したことはない」
そう言った八千夜の顔を見て、男は虚をつかれたような顔をした。そしてすぐに笑う。
「なら、お前さんはそんな顔してちゃ駄目だろ。お前さんが幸せじゃないと、他のヤツも幸せにはならないぞ?」
「・・・・・・・・・・・・・・・え?」
「人間ってのは、一人じゃ生きてけねぇのさ。全ー部、輪で繋がってる。だから自分は不幸でもいいとか思っちまうと、周りも不幸になるんだぜ? だから周りの幸せを願うヤツは、まず自分が幸せにならねぇとな」
男の笑った顔が、今度は八千夜を虚のつかれた顔にさせた。微かに開いた口は、一瞬息をすることを忘れた。
繋がりなど、天狗の時は無かった。ずっと独りだった。だからそんな考え方は出来なくて、知らなかった。でも八千夜は今、人間である。
八千夜の細められた目は、少し弧を描き笑っていた。
「・・・・・・・・・・人間とは、やはり奥が深い」
「ははっ、それも哲学ってモンよ少年」
笑って、男はふと自分の腕時計を見て「あちゃー」と一人ごちた。
「あらら・・・もう時間だ。ありがとな少年! オレは知的追求心をくすぐる会話が出来てとても満足だったぜ」
「いや、儂の方こそ礼を言う」
八千夜は立ち上がって軽く頭を下げた。
「・・・・・・この短時間で、様々なことが学べた」
「いいってことよ! あ、でもなんか悩みがあったらここ訪ねてみ?」
そう言ってごそごそと懐を漁り、男は端がちょっと曲がった名刺を差し出した。
「オレはこの近くで医者やってるから。ちょこーっと問題ある客でもコレ次第でオッケーだからよ」
『コレ』と言いながら、男は片手の人差し指と親指をくっつけ丸を作った。金額のことらしいと理解できたが、八千夜に不快感はなかった。
「重ね重ね、ありがとう」
男は黙ったまま手を振って去っていった。代わりに男の肩にのっている黒猫が別れの挨拶のように一声鳴いた。
名刺を大事そうに両手で持ちながら、八千夜は胸の内が軽くなったと思った。彼らを忘れることは出来ないけれど、投げやりになってはならないと思った。
(不思議な男だ・・・・)
ふと、名刺に目を落としてさらに眉を寄せる。
『梟(ふくろう)クリニック Dr.フクロウ』
(・・・・・・名がわからん)
医院の所在地や電話番号も書かれているので、玩具ではないようだが。
八千夜は男の評価を『不思議』から『奇天烈』に書き換えた。
「―――八千夜ッ!!」
名を呼ばれ、はっと八千夜は名刺から顔を上げた。公園の入り口で、少し息を切らした宗方がいた。
宗方は浅く息をしながらずかずかと八千夜に近づくと、早足の勢いのままごんっと拳で八千夜の頭を叩いた。突如、目の奥で散った火花に八千夜は俯く。
「い・・・・!」
「動くなっつっただろうがッ!」
宗方のきっちり締めていたネクタイはゆるめられて、シャツの一番上のボタンが一つ開いていた。
八千夜は痛みに目を潤ませながらも、怒る宗方の首筋に汗が一筋流れているのを見た。
「・・・・・・・・・・・」
―――――周りの幸せを願うなら、まず自分が幸せにならないと・・・。
Dr.フクロウの言葉を思いだして、八千夜はまた俯いた。
(人は皆、輪で繋がっている・・・)
まさにそうだと思った。自分のことばかり考えて、勝手に去ったときの宗方や頼正、春日の反応を考えていなかった。
現に今、宗方は息が切れるまで八千夜を捜してくれていた。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
なんと浅はかな考えなのか。もう自分は独りではない。
照れて、嬉しくて、顔は上げられなかったけれど。
「・・・あ、ありがとぅ・・・・・」
微かに聞こえたその言葉に宗方は少しだけ目を開いた。俯いたままで、迷って心細かった子供のようなその反応に、宗方は軽く息をついた。
「・・・・・・・・・・夕方に、俺はまたあのビルに行かなきゃならない。それまでに買い物するぞ」
殴ったところを撫でるようにやさしく叩かれ、八千夜はさらに居たたまれなくなって俯いたまま頷いた。
『家族みたい』
頼正の言葉をまた思い出し、八千夜は俯いたまま笑った。
* * *
高層ビルの最上階。エレベーターで三十二階のボタンを押して、サングラスをかけた男は、同居人の待つ一室へと向かう。
途中で買ったスーパーの袋を片手に持って、男は厚いドアを開け「ただいま」と言った。
中から返事はないが、いつものことだ。男は気にせず台所に入っていき、スーツのまま袋の中身を出して片づけていく。愛想はないが、わがままな同居人がいるからだ。そろそろ腹を減らしているだろうからさっそく調理に入る。
「清秋」
エプロンをつけたところで、同居人から声がかけられた。自室に篭もっているのかと思えば、すぐ近くのソファーに寝っ転がっていたらしい。
「どうだった? 下の世界は」
楽しげに目を細めて声をかけてきた同居人に肩をすくめて返し、清秋と呼ばれた男はサングラスを外して机の端に置く。
「どうもこうも。人の多さに疲れたよ」
息をついて疲れを強調しても、同居人は「さっさと作れ」というだけだ。
トントントン、と小気味よい包丁の音が聞こえ始めると同居人は上を向いてソファに転がりクスクスと笑った。
首を動かして高層ビルの透明で大きい窓から豆粒のような家宅やビル、マンション、そして波のように動く人などを見下ろして、同居人は清秋に聞こえないほどの声で呟いた。
「懐かしい匂いがするな・・・」
寂しさを漂わす秋風のような、雨上がりの後のような澄んだ匂い。同居人はとりあえず、今もせっせと調理している清秋を急かさせてから、呟いた。
「長く待ったかいがあったなぁ」
「なに? まだ出来てないよ、もう少し待ってくれ」
「急げ。腹減った」
「急いでるだろうが! ちょっと待ちなさい」
そう言いながらも、ちょっと機嫌の良い同居人の様子に首を傾げながら清秋は手を急がす。
同居人は目尻を波立たせて笑う。
「・・・・・・・・・早く会いたいな・・・」
そう言って、同居人は窓から都会の濁った空を見た。