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「へーぇ。八千夜くん迷子になったの?」
明朝。とんとんとんと宗方の肩を叩きながら、頼正は目の前で正座してまだ食事をしている八千夜に言った。
「・・・・・・迷子というか、なんというか」
慣れてきたが未だに握り箸の八千夜は、握り箸を見られるたびに宗方がうるさいので手を体で隠しつつ、もそもそとご飯を食べる。
宗方が宣言した通りに扱き使われている頼正と春日。現在食事を終えた宗方は煙管で一服しながら頼正に肩を揉ませているし、春日は食器を洗っている。
「八千夜―、早く食べろ。片づかねぇ」
「ん、すまぬ」
遠くから春日の声がして、八千夜は急いで食事を終える。鼻歌の聞こえる水場の方に皿を持っていき、八千夜は苦笑した。昨夜宗方が買ってきた中に日本酒があったので彼はご機嫌だったのだ。宗方に先ずは働け、と言われ今夜の晩酌を楽しみにせっせと皿を洗っている。
あの後。宗方が言う買い物というものに付き合って、八千夜は散々人混みの中を練り歩いた。食料は大概自給自足と梔村での生産で事足りるのだが、小説のための原稿用紙やペン、宗方が求めていた本や、日用品、そして日本酒を数本。日本酒に関しては間違いなく気まぐれだった。八千夜や春日の服は、もうしばらく頼正と宗方の服を貸すと言うことでまとまった。
「服に関してはちょっと見る時間がなくなったからな」
「元々ここから街まで日帰りってだけでもそんなに時間無いよねぇ」
片道におよそ五時間かかるので、宗方と八千夜が帰ってきたのは二十三時を回っていた。家に帰ったときはもう何をする時間もほぼなく、寝ずに待っていた頼正と春日が用意した風呂と夕飯を終えて寝た。土産についての話などは、みな次の日へと先延ばしにされたのだ。
「香川のヤツ。引き留めやがって・・・」
ほぼ手直しはなかった宗方の小説の感想を事細かに伝え、紀子は宗方と八千夜に腕を絡ませ泊まって行けばぁと促し続けていた。
「宗方に気があるのではないか?」
「阿呆。そんなわけあるか」
「泊まってきても良かったのに」
「・・・・・・胡散臭い居候に家を預けられるか」
春日がいる水場の方を見て呟かれた言葉に、八千夜は苦笑した。そうは言うが、きっとこの男は弟が心配だったのだろうと見当をつけた。
「今日も一日掃除からだね」
「散らかしといて誰も片づけにこねぇしな・・・」
梔村の者たちは誰もが恐れて犬上家に訪れようとしなかった。必然的に掃除が必要な状態だったので、ついでに部屋の整理整頓と大掃除が行われている。
「まあいつもより二人多く人手があるだけでマシなほうだな」
「二人で住むには大きすぎるぞこの屋敷は」
まくっていた袖をおろしながら、春日が居間へと戻ってきた。自分が美しいものとしての自覚が強い九尾の狐は、指の先まで丁寧に保湿効果のある樹液を塗っている。
「山一つ分というのもそうだが、この屋敷も元は大名のものか?」
「いや確か七百年ほど前に、犬上家のものとして建てられたはずだ。何度か建て直しはされているだろうが」
頼正に「もういい」と肩もみを止めさせながら、宗方は八千夜を見る。
「お前、前に自分の山だって言ってたよな?」
八千夜は頷いた。
「ああ。この山はかつて儂が巣くっていた」
懐かしそうに微笑む八千夜。頼正も畳の上に座って言った。
「千年前?」
「そう、儂は天狗だったときこの山で暮らしていた。人はなかなか近寄らんかったが、眠っているうちに噂も薄れ、人手に渡ったのだろう」
「人が近寄らない地か。その理由は?」
「あやかしが出ると言われてみすみす訪れるのはよほどの物好きだけだ」
八千夜がそう言うと、頼正は宗方の方を向いた。
「確か犬上家って元は四国にあったんだよね?」
「そう文献にはあるな。記録によると、犬上家は忌み嫌われるその悪声を知らぬ未開地に左遷されたはずだ」
「・・・なんでそんなに嫌われてるの?」
「生肉を喰らう蛮族だったんだろ」
肉を食う習慣のなかったその時代に、肉を求める姿は恐れられたとしてもなんら不思議ではない。
今では犬神の血を引く宗方達でも肉を焼いたり山菜を採ったりするが、昔は生肉を食べていたという。
春日が自らの血族を卑下するように言った宗方を窘めた。
「・・・・自分の祖先を蛮族などと言うな」
宗方は薄く笑ってさらに言った。
「実際、他人の目にはそう映っていただろうと言ったまでだ」
鼻を軽く鳴らしてそっぽを向いた宗方に、ため息を漏らして春日は腕を組んだ。
「犬神を恐れて、天狗の地と呼ばれ人の入りが薄かったここをあてがわれたんだろうな。八千夜が眠りについているとも知らずに」
「・・・・・・・・・・」
一瞬沈黙が流れた。誰も何を言えばいいのかわからずに、口を閉ざした。長い長い時を経て、嫌われた者たちが飛ばされてきたこの地。誰もが避けて通る道に、集められた者たち。
「でも」
三人の目が頼正に集まった。頼正は、満面に笑顔をのせた。
「でも嬉しいよ」
八千夜は頼正と目があった。
「嫌われて、避けられて、ここに来たけど。でもそのおかげで二人に会えたよ」
八千夜と春日を見て頼正は照れくさそうに笑う。つられて八千夜も笑った。
「・・・・儂もだ」
償いきれないほど罪を犯したけれど、今このときを。
「会えたことが、これほど嬉しいことと思わなかった」
先ほどとは違う沈黙が流れた。紫煙を吐いて、宗方は腰を上げた。
「俺は部屋に篭もるぜ。続きを香川に急かされた」
素っ気ない態度だが、その口元は笑っていた。
「俺も頼正も、ずっと二人で暮らしてきた。お前らが望むならここにいればいい」
後ろを向いてそう言った宗方が襖を閉めて部屋へ向かった。春日は微かに微笑んだ。
「その言葉に甘えさせてもらおうか」
「・・・ああ」
人間贔屓と言われたあやかしは、自身が人間そのもののように微笑んでその居場所と居場所を与えてくれたものを愛おしんだ。
* * *
早くから昼飯の肉を求めて、頼正と八千夜は一緒に出かけていった。家事のいっさいを終え、暇をもてあました春日は「完璧だ!」と自画自賛で達成感を得て、部屋に篭もった宗方の様子を見に行く。邪魔をしに行くと言っても間違いではない。
ちゃぷんという音を聞いて、宗方は顔を上げた。
ごちゃごちゃと自室に置かれた資料の山の隙間から、開けた襖に手をかけて酒瓶を抱いた春日が立っていた。宗方は、これを機に掃除をしろと言われても、膨大な資料が置かれる自室だけは片づけようとしない。
「・・・何のようだ」
小説を書くときにだけかけている眼鏡を外し、宗方は邪魔されたことに苛立っていることも隠さずに訊いた。
対して春日は、機嫌が悪い宗方を見てもニヤリと笑ったままだ。
「酒。一緒に飲まねぇか?」
「・・・・・・・朝から飲む気かよ居候」
了解を得る前から、春日は右手の人差し指と中指をそろえて一升瓶の口元で薙いだ。スパンと軽く音を立てて、鋭利な刃物で斬られたようにガラスが割れる。
「いいだろ?」
「馬鹿言え。夜まで待て」
「・・・・・もう開けちまったって」
「・・・・・・」
口をとがらす春日に、宗方は渋い顔で呆れながら諦めるように言った。
「猪口をもってこい。二つ」
「おう♪」
一転してうきうきと襖を閉めた春日の後を追うように、宗方は腰を上げて軽く伸びをした。そして呟く。
「・・・・・・・・・・・家族、ね」
父も母もいなかった頼正が嬉しそうにそう言うので、宗方も口に出して言ってみる。
頼正は赤子だったからしょうがないが、宗方は朧気ながら父と母――姉の記憶がある。他の家庭を知らないから比べることは出来ないが、優しく厳しい父親だった。姉と母の両方である女性とは、あまり話さなかった。向こうもそれを望まなかったから、宗方も近寄らなかった。
広いこの屋敷で、子供は他にいない。本を読んだり、父に教えを受けたりして日々を過ごしていた。そんな中で家族と思えたのは、頼正が生まれたときからだ。
あの鉄面皮と思っていた父親のはにかんだ笑顔を見たときに、祝福され生まれた命だと思った。犬神の業を持つ自分と同じ宿命でも、祝福されていると思った。
厳しい父親が、宗方の手に頭を置いて優しく言ったのだ。思い出せばその時が一番優しいときだった気がする。
―――『兄』となったのだから、お前が守ってやれ。
女子を求めていた父だったが、望まれぬ命はないのだからこの子もお前も大事なのだと。
(・・・・・・思えばあの時が一番父親らしいこと言ってやがったな)
襖を開けて、宗方は春日の後を追う。仕事の途中だが、調子を崩された時はもう休憩した方が効率も良い。
(家族か・・・・・)
頼正ほど素直じゃない自分は笑ってそんなことは言わないけれど。きっと嬉しいのだろう。
「宗方―、早く来い」
頼正にとっても宗方にとっても、八千夜と春日は良い傾向かもしれない。
赤く色づいた紅葉を見ながら、宗方は縁側に腰を下ろし、隣に座る春日と酒の注がれた御猪口を合わせた。
* * *
道から逸れて、獣道をかき分け歩く頼正の後に続いていた八千夜は訊ねる。
「して、どうやって獲物を捕る? 罠か?」
「んー大体は。でも素手で取るときもあるけど」
だいたいは紐や網の罠を張る。しかし場合によっては勘に頼って単身追うときもある。
きょろきょろと獲物を探す頼正だが、慣れたもので端から見たら散歩のようだ。決して敵意や、気配を出さずに通るときは音も極力立てていない。
狩りをする野生の猛獣のようだった。顔は笑顔で、緊張感すら消している。
突如ひゅっと身を伏せて前を伺った頼正だが、すぐに頭を出す。八千夜も前を覗くと狐が逃げていくところだった。
「狐かぁ。さすがにちょっと狐は・・・・・」
春日のことを言っているのだろう。
「ウサギも食べたしねぇ。熊か鹿とか出ないかな」
人間たちはそれらの動物たちを恐れていたが、犬神の一族には食料らしい。
葉の擦れる音や、遠くで聞こえる水のせせらぎを聞き、八千夜は懐かしさを感じる。鳥の鳴き声を聞き、風を肌で感じる。
「・・・・・・・頼正。右手側の奥で、何かわからんが獣がいるぞ」
ちょっとだけ戻った風の力を利用して、八千夜はそう報告した。頼正は頷いて右側にそっと進んでいく。
「・・・! みっけ」
だいぶ離れた所から鹿を見つけた。角はない、牝鹿だ。冬ごもりに備えて、木の皮を剥いでいる。
頼正は辺りを観察して言った。
「一匹か・・・・・八千夜くん。鹿の後ろの葉を風で鳴らしてくれる? そしたら右手側崖と川だからこっちに逃げてくると思うから」
「わかった」
指示通り、八千夜は大きく音を立てて葉を風で揺すった。驚いた牝鹿は、慌てて走る。頼正の狙い通り、こっちに向かって。
「一、二、三!」
頼正は合図を出しながら、八千夜と一緒に輪を作った縄を向かってきた鹿の首にかけ、輪の先の紐を足にももつれさせた。臆病な牝鹿は甲高く鳴いて倒れる。
頼正は暴れるが逃げられない牝鹿を見て満足そうに頷く。
「よし! 活きが良い」
じっと頼正が牝鹿を見た。すると牝鹿はびくついて暴れるのを止めた。食べられるとわかっているのかもしれない。
少々可哀想な気がしないでもなかったが、八千夜は弱肉強食と呟いて終わった。無駄に殺生をするわけではないのだから、きれい事を言ってもしょうがない。
「帰るか?」
八千夜がそう言ったときだった。
ばさばさばさっと羽ばたく音を立てて、頼正と八千夜の周りに黒い羽が舞い落ちる。八千夜は空を見上げた。
いつの間にか数十羽にも及ぶ鴉の群れが、頼正と八千夜を囲むように木の枝に止まって二人を見ていた。カァカァと何羽かが鳴き叫ぶなか、聞き取れる声が聞こえた。
「ウラギリ者! テングノセカイノハミダシ者!」
紛れてなかなか場所を特定できなかった八千夜はきょろきょろと辺りを探す。
「『ハシラ』ノクセニ、ヤマノイキモノヲコロスノカ!」
「八千夜くん!」
頼正が一点を指さした。指された鴉の口から、かろうじて聞き取れる人語が出ていた。
「ハグレ、ハグレ! ウラギリ者ハ出テイケ!」
他の鴉たちも、同意を示すかのように荒く鳴き始める。八千夜は口を閉ざして鴉を見ていた。
「ヤマノイキモノヲ食ラウ下劣ナケダモノト、ウラギリ者ダッ」
鴉たちはにじり寄るかのように輪を縮めて近寄ってくる。そして、誰が合図を出すのか知れないが一斉に八千夜たちに飛びかかった。
突如、黙っていた八千夜の目が力を持って鴉を睨み付けた。
「鴉共! 儂の盟友をも侮辱することは許さんぞ!」
微弱ながら、力が少しある八千夜は手を大きく振った。神通力が飛びかかった鴉を見えぬ壁で叩き付けるかの如く払い、鴉は悲鳴を上げて宙に舞う。数羽地面に叩き付けられたものもいたが、八千夜は気にしなかった。
「天に舞うものならひれ伏せ! 儂を金剛天狗と知っての愚行か!?」
「ダマレ! キサマハモウ、ワレラノナカマデハナイ!」
多くの鴉に囲まれるというのは、意外と威圧感を受ける。鴉たちの敵意むき出しの眼光と罵声のような鳴き声がさらにそう感じさせるのだろうか。
頼正は壮観とも言えるその光景を、絶句したまま見ていたが頭の中に流れたのは全く関係ないことだった。一番近くにいる漆黒の鴉を見て、頼正は思う。
(美味しそうだな・・・・)
いわば鶏肉と同じだ。引き締まった野生の鳥は、犬神の食料だ。
頼正の近くで猛獣の気配を感じた鴉は、距離を取るため羽ばたいた。
「チュウコクハ、シタゾ! 『ハグレ』ニシタガウモノハ、モウイナイ!!」
集まったときとは違い、ばさばさと盛大に音と風を立てて鴉たちは飛び上がった。
「・・・・・・!」
吹き荒れる砂埃から顔を手で庇って、八千夜は忌々しげに上を見上げた。見上げた空からは、黒い羽が落ちる。天狗の頃、八千夜も持っていた漆黒の翼を思い出して、八千夜は鴉が言った『はぐれ』という言葉を反復した。
はぐれとは、あやかしの中では冒涜の言葉だ。あやかしの中で最下位の者たちや、禁を犯した者たちがそう呼ばれることが多い。
(はぐれには・・・違いないな)
鴉を配下と思えたのは過去の話だと痛感した。
頼正は静かになった足元を見ると、縄だけが残されていた。先ほどの騒ぎに乗じて鹿は逃げたようだ。もともときつく縛っていたわけではないのであっさりと諦め、頼正はため息をついた。首をまわして一応形だけ逃げた鹿を探していると、八千夜の手首で目がとまった。
「・・・・ッ、八千夜くん・・・!」
慌てたように頼正が呼び、八千夜は見上げていた顔を頼正に向けた。
「手、怪我してるよっ!」
見ると、鴉たちをはじき飛ばす前に爪や嘴で傷つけられていたらしい。あれだけの数の鴉を完全に振り払うには力が及ばなかった。流れるように手首付近で出来た傷から指先の方へ血が落ちる。
それを見た頼正の瞳孔が細くなる。目を開いて、鉄の匂いをその良すぎる鼻で感じた。
心臓が、大きく一度鼓動する。
「・・・・・嫌われたか」
腕の痛みと流れる血を見て、「もともとあまり好かれていないが」と続けて八千夜は肩をすくめた。そんな八千夜の手首を、頼正はつかみ取った。
そして、八千夜がその意味を訊く前に、頼正は行動に出た。
「・・・・・・・・・・ッ!?」
その喉を潤すように、頼正は八千夜の血を舐め始めた。うっとりと目を細めて、美味しそうに血を舐める。何度も血が滲む傷口を舐めて、指先に伝った血まで全て舐め取る。獣のような仕草だった。
驚いて絶句している八千夜にも構わず、頼正は舌を伸ばした。そして血が流れなくなると、その傷をこじ開けるように噛みついた。
「うあっ!」
身を離して八千夜は頼正から離れた。そして再び血があふれだした傷口を押さえ、頼正を驚愕の目で見つめる。
頼正は、にやっと笑うだけだった。口の周りについた血を舌で舐め、その目を八千夜に向ける。それはいつもの黒く優しい瞳ではなかった。ほんのりと色素が落ちたように赤めいて、獣のように細い瞳孔がある。
「頼正・・・!?」
ざわざわと八千夜の中の風が騒いだ。びりびりと、敵意を感じて空気が揺れる。
例えるなら、獣の眼だ。腹を空かせ、獲物を見つけた残酷な肉食獣。
頼正は、空腹を感じていた。目の前にいる八千夜の瞳は驚愕により開かれ、慌てたそぶりだったが、興味が湧かない。溢れそうな欲で、体を動かしたくて堪らない。
甘い蜜のようだった。鉄臭い血の味に、全身の毛が逆立つようだった。久しぶりに食べる生肉は、きっと美味しいに違いない。
「・・・・・・・・・・っ!!!」
頼正は覚醒したときのように目を開いた。八千夜に向けられたその瞳はもう黒色に戻っている。
何だ今の感覚は。頼正は一瞬意識が飛んだ自分に理由もわからない不安に駆られ、首を振る。
八千夜が声をかけようと近づきかけた。それを頼正が制した。
「待って・・・・! なんか、変だ・・・・っ」
「頼正・・・・・」
「なんて言うか、その・・・・っ、体の奥でなんか・・・・・・疼くみたいに・・・!」
頼正は自分の体を抱いてうずくまる。八千夜は近づくことも出来ずにただ手を伸ばした。
「頼正!」
「待って八千夜くん! 近づかないで!」
頼正に向かって伸ばした八千夜の手から血が流れ落ち、地面にぶつかって赤いしぶきが飛んだ。一瞬で終わるはずのその出来事がことさらゆっくりに見え、頼正の瞳は丸く開かれる。
八千夜が見るうちに、頼正の瞳は一瞬で深紅に染まった。
眼だけではない。頼正の体に変化が現れた。勢いよく体を丸めた頼正の背は数倍に膨れあがり、鼻は高く、耳はとがっていく。口は大きく裂け、手足も徐々に大きくなり黒い毛がざわざわと体中に広がった。
八千夜はやり場に困った手を下ろすことも忘れ、その過程を見ていた。頼正は―――いや頼正が変態した獣は、熊以上の大きさで、黒い体毛を奮わせ、赤い眼を開く。大きな口からは鋭い犬歯がはみ出していびつに並び、赤い舌が覗く。
獣の咆吼が響いた。
犬神の、歓喜に極まる咆吼だ。空気が揺れ、葉が飛び散った。山に棲む生き物たちも、犬神を懼れ慌てて離れていく。
八千夜は、突如現れた黒い獣を見ていることしかできなかった。
「!!!?」
春日とともに杯を交わしていた宗方は、突然猪口を落として立ち上がった。縁側に座っていた二人。呆然と鳥が羽ばたいた方を見つめる宗方を、春日は怪訝な顔で見る。
「どうした?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・頼正・・・」
「え?」
宗方の顔が、少しだけ歪められた。
「頼正!」
「ッ! おい!」
舌打ちして走り出した宗方の背に声をかけるが聞こえていないと知ると、春日もその後を追った。
宗方は、その良く聞こえる耳で確かに聞いた。かつて聞いたことがある哀しい犬神の咆吼を。
――――兄となったのだから、お前が守ってやれ。
『お前が。』
父に言われたから、ではない。自分で誓ったことだ。
宗方の中にある犬神の血が、共鳴するように騒ぐ。出たいのか、と宗方が胸の内に問えば、肯定するように血が熱くなった。
広い犬上家の中でも、奥の位置に据えられた蔵に向かう。先日八千夜を閉じこめたところだ。埃っぽいことになど気にかけていられない。勢いよく戸を開け放つと、宗方は蔵の一番奥へと向かう。春日もそのあとについていこうとする。
それを宗方が止めた。
「待て、一緒にいる八千夜が危ないかもしれねぇ。お前はそっちに行け」
振り返ってそう言った宗方。扉のところでとどまった春日は、その整った眉を顰める。
「何が起きたんだ、八千夜が危険なら共にいる頼正も・・・・・・」
言いかけて、春日は気付いた。
「まさか犬神が!?」
春日に背を向けたまま、宗方は拳を強く握る。
「俺はここで『あるもの』を手にしたらすぐに追いかける。お前は、八千夜を助けてやれ」
時間がない。宗方は言わなかったが、緊迫した空気は的確に春日にそう伝える。
「・・・・説明が足らねぇが、今はその通りにした方が良さそうだな」
「すまん。頼む」
いつも威圧的にものを言う宗方が口にした『頼む』と言う言葉。春日は苦笑した。
「任せておけ」
不器用な男だと思う。その難儀な性格も、犬神使いとして苦労した末のことだろうと思うと苦笑するしかなかった。
春日は仙狐(せんこ)・九尾の名を廃らせぬままに、生み出した炎の中に包まれるように姿を消した。
宗方は春日が姿を消したのを横目で確認して、奥に向かった。所狭しと様々な物――がらくた含む――をかき分け、一番奥に置いてある大きな木箱をどけた。その下に現れたのは、床に備えられた地下への扉だ。さび付いた重い鉄の扉を開けると埃が舞った。下に続く階段の奥は、光もなく真っ暗だが、犬神の眼には関係ない。微かに入る蔵の外からの光で十分だ。
腐りかけた木の階段が危うげに音を立てるので、なるべく静かに足を乗せた。そんなに深くないが広い地下室は、じめじめとしたカビくさい空気が流れていた。慎重に、だが早足に進む。ここに入るのは久しぶりだが、宗方の歩みに迷いや戸惑いはなかった。
地下室の、さらに奥にある部屋の一角を見上げた。そこにあるのは、本来陽の当たるところにあるべき神棚と、その下に丁寧に重ねられたえんじ色の布の上に安置されている動物の頭蓋骨だ。
宗方はその骨を掴みあげた。持ち上げて、頭蓋骨の中にある透明な珠(たま)を眼窩の窪みから取った。指の爪ほどの大きさであるその珠を指先で摘んで、その透明な珠を透かしてのぞき込むため外に出る。
犬上家に代々伝わる犬神の神棚。陽に当て、奉るべき神棚のその扱いは罰当たり以外の何物でもない。だが、あの犬神は表裏一体を連ねる『裏』のものなので、闇に置かれている。
―――頼正に、その闇を背負わせた。
そしてそれは自分の力ではどうしようも出来ないことだった。だからこそ宗方は悔しく、頼正を守ると誓ったのだ。珠を握りしめ、耳を澄ます。微かに聞こえる動物たちの息づかいと逃げ出す音。それらから、位置を特定する。
勢いよく決断するように顔を上げ、宗方は山の奥へと向かった。
* * *
黒い獣は、低く唸って牙を剥いたまま八千夜に一歩近づいた。それと同じように一歩さがるが、八千夜は決して目を逸らさなかった。背を向けたら確実に襲いかかってくると直感していた。
頼正が変貌した犬神。巨大な黒犬となったこれを、はたして『頼正』と呼んでいいのか八千夜は一瞬思案したが、か細く声に出した。
「・・・・・よ・・・りまさ・・・・?」
三角に尖った獣の耳がぴくりと揺れた。だがそれだけだ。
赤い眼が動き、八千夜を捉えると犬神は大気を奮わせて吼えた。八千夜の背筋に冷たい電撃のようなものが駆け上る。
八千夜の心臓は痛いくらい高鳴り、背や脇は嫌な汗が浮かんだ。八千夜は気付いていたのだ。力の差に。自分が何をしてもこの目の前の犬神には敵わないとわかっていた。
今が人間であると言うことを差し引いても、答えは変わらないように思えた。恐怖と緊張が八千夜を取り巻く。
――――逃げろ。
どこか頭の端でそう思うが、きっと逃げ切ることも出来ないだろう。微かに足が震えたのは気のせいではない。
たった数秒のことだが、犬神に見つめられているだけでもう何時間も経ったみたいに疲労する。
しかしそれよりも、八千夜はいまだに信じられなかった。
先ほどまで隣にいた頼正の姿はない。代わりにいるのは赤い眼をした巨大な黒犬だ。変わっていく瞬間を、瞬きすることも忘れて見ていた。それでもまだ信じられない。
今も目の前で、びりびりと空気を奮わせているのは獣。この場にいるのは獣だけだ。
ならば。
八千夜は不安を感じて、眉根を下げて少しだけ目を伏せる。
―――――ならば頼正は一体どこに?
犬神が牙を剥いて八千夜に飛びかかった。はっと八千夜は風を舞い上がらせながら横に飛び退いた。一瞬遅れて、風により風圧を受けて威力をそがれた犬神の牙が、後ろに立っていた木を噛み砕く。めきめきと音を立てて折れたその木を見て血の気を引かせながら、八千夜は目を開いた。
風の力を使っても、犬神は一瞬しか後れを取らせなかったあげく、その牙と顎は岩でも砕きそうだ。噛みつかれでもしたら、確実に持って行かれる。
鋭い爪を剥いて、犬神は再び飛びかかった。その体の大きさからは予想もつかない早い動きに、八千夜の反射神経はまるでついていかなかった。ぎりぎり視力はついていくことが出来るが、それでも動きまでは差がありすぎる。
前足での切り裂くような突きをかすり、八千夜は折れた木とは別の木に叩き付けられた。
「・・・・・・・ッ!!!」
声も出ないその内臓への、かすっただけとは思えない圧力に視線がぶれた。震動で落ちていく葉が、犬神の動きに比べあまりにも遅い。
八千夜が一瞬失った視覚を取り戻したときにはすでに、目の前に犬神の口があった。
八千夜は反射的に目を閉じた。それしか出来なかった。恐怖も焦燥も感じる暇など無い。
だが衝撃はやってこない。
「・・・・・・?」
詰まった息を咳き込んで吐き出しながら、八千夜はゆっくり目を開いた。
そして今度はあまりのまぶしさに八千夜は眼を細めた。鼻をくすぐるようなほど近くに、金の尾が揺れている。
「大丈夫か、八千夜・・・・・!」
輝く金の髪からのぞく三角の獣の耳。後ろ姿だが、姿は人に近い。九つに割れた裕福な金の尾をもつ春日が、八千夜と犬神の間に入って犬神を押さえていた。苦しそうに歯を噛み締めながら、力負けせぬよう一時も力を緩めることなく犬神を押す。だが犬神の力も相当のもので、じりじりとその力の交錯は硬直していた。
九尾・春日は最も力を出せる本来の姿で、八千夜に背を向け犬神の頭と口を両手で押さえていた。
「春日・・・!」
「っ! 動けるか八千夜・・・!」
「無理をするな! 春日!」
呼んだ途端、犬神が頭を振って春日の力を薙いだ。一瞬だけ均衡を崩した春日の、ほとんどのものが隙とは思わぬような隙をついて、犬神は強靱な脚で地面を蹴り、山を駆け下りていった。その蹴った地面は抉れ、爪の跡が残っていた。
「ちぃ! 山を下りる気か!」
らしくもなく春日は乱暴に言葉を吐いた。しかしすぐ八千夜に駆け寄った。春日が声をかけるより先に、八千夜が叫んだ。内臓が軋んで声が掠れた。
「構わぬ、儂を置いて追え! この下には村があるのだ!」
春日は素早く八千夜に自分の尾を巻き付けると、その深い蒼の目を瞼で覆い、青い炎を手の平に浮かべた。
「その蒼き狐火の連鎖の元、赤眼黒色の毛並みをもつ獣を追知らせ!」
炎を自在に操る九尾の狐の妖力により形成される冷たい炎は、拳を作ると辺りに飛び散るように霧散した。
「追いながら癒せば問題ねぇだろ!? 行くぜ八千夜! 舌ぁ噛むなよっ」
尾で八千夜を引き寄せ、春日は点々と続く狐火を追いかけた。打ち付けたときに頭も打ったらしく、八千夜はつらそうに眉根を寄せる。舌を噛まないように気をつけながら途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「駄目だ・・・春日・・・・・! 犬神の、方が・・・・・・・・早いっ、それに・・・・・・・・・!」
犬神の爪がかすったときに付いた傷から、春日の気が流れ込んでくるのがわかる。春日が自分の気を分けて治癒力を高めてくれているのだ。
「力を、使いすぎだ・・・・・! 儂を、置いていけ!」
息を微かに乱しながら、春日は前を見つめて言った。
「黙れよ」
たたたたんっと素早く地を駆け、春日は振り向かないまま尻尾で揺らさないように持ち上げられている八千夜の言葉を遮った。
「頼正も宗方も、お前も、・・・友だちだ! 助けて何が悪い!」
「・・・・・!」
思わず八千夜は春日の後ろ姿を見つめた。しかしそれ以上の言葉はない。
星桜之雪を使った。そのことで八千夜は春日に殺されるだろうと思っていた。少なくとも軽蔑されるだろうと、友も何もかもを失う覚悟で星桜之雪に願った。つまりそれは、八千夜の方から友を裏切ったも同じだったのに。
再び『友』と、呼んでくれるのか。
「・・・・・・」
ぎゅっと腹に巻き付いた尾を握りしめ、八千夜はもう何を言うのも止めた。
今はただ、犬神を追いかけなければ。
* * *
冬に向けて野菜を収穫し、雪に埋もれているあいだが長いこの地は地面も凍るので、今から念入りに土を掘り返して耕しておく。梔村での生活はほとんどが村内だけですませてしまうので、男も流れる汗を拭って大八車に乗せた野菜を運んでいく。その途中に、先の犬厄での教訓を活かして作られた警鐘を見て、男は毎日思うのだ。
(・・・この警鐘を使う日が来ませんように)
火事や知らせの鐘とは音が違う。『犬厄用』の鐘は、高音で村中に響き渡る。
毎日の習慣で荷車を止めて警鐘の隣にある地蔵に手を合わせて祈りを捧げ、男はふと草の擦れる音を聞き、顔を上げた。
「・・・・・・・・・・・・っ!!!?」
そして赤い瞳を見つける。野兎のような可愛らしい目ではない。間違えるはずがない、あの赤は。
男は悲鳴を呑み込んで、震える脚を叱咤して、急いで警鐘台に登る。そして、備えられているトンカチを慌てる心を必至に宥めながら奪うように取った。そして力一杯振りかぶる。
備え付けられて初めて、梔村で犬厄用の高音警鐘が長々と響いた。
微かでもその音を聞いた村人達はざわめき、過去の恐怖に恐慌状態となっていく。
鳴らした男を除いて最も近くでそれを聞いていた犬神は、警戒音である警鐘の音を聞いて、がさがさと草藪から出てくる。
空腹を満たす、弱く美味い獲物がたくさんいると判っているのだ。
よだれを垂らしながら、犬神はその赤い舌でぺろりと口の端を舐めた。