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 久しぶりの自由。その祝いをするのに、食事を求めるのは当然だ。
 犬神は高らかに吼えながら、欲の疼くままにしばし考える。
 先ほど少しだけ飲んだ血はなんと甘く喉を潤されたことか。かの生き物の悲鳴はなんと心地よいのか。柔らかそうな肉も、きっとこの腹を満たす。
 腹が減った。腹が減ってしょうがない。
 ずっとずっと飢えていた。極限まで匂いだけ嗅がせておいて、結局食えずじまい。もう待てない。待つつもりもない。
 餌はいくらでも目の前にある。今ここであの一匹を食べるより、まとめて巣へ行った方がいいのかもしれない。
 そんな残酷な犬神の考えなど知る由もなく、鐘を鳴らした男は丁寧に育てた野菜を投げ捨て、逃げ出した。それを見て、食欲ではない本能が犬神の中に生まれる。

――――逃げている動物を。背を向けた生き物を、追って喉元を食い破れ。
 本能に従わぬ理由はない。犬神は男を追った。もともと数十メートルしかなかった距離は、ほんの一瞬で縮まった。
「・・・・ひぃ!!!」
 振り向いた男が喉を引きつらせたように悲鳴を上げる。相手に恐怖を与えることすら、犬神には楽しみだ。
 人を丸飲みできそうなほど大きな口を開けた途端、犬神は動きを止めた。食べたそうに喉を鳴らしてよだれを零しているが、押さえつけられたように犬神はその場から動かない。男は尻餅をついていたが、慌ててこの隙に逃げていく。
 再び小さくなる背を見て犬神の脚が前へ出たが、思いとどまるように身を伏せた。そのままじりじりと重力がかかったように腹を地面につけている。
 犬神の中で、二つの心の戦いが起きていた。
 邪魔をするもう一つの心が煩わしく、犬神は空腹に加え怒りを大きくしていく。せめぎ合うその鬱陶しさに、ついに犬神は咆吼を上げた。先ほどの九尾の狐と言い、どうして自分の食事を邪魔するのか、と犬神は怒っていた。
 パンッと何か弾くような音を立てて、実際弾かれたように犬神は走り出した。
 今ならまだ先ほど逃げた人間(エサ)にも追いつく。何でも良い、腹が減っているのだ。

―――――食いたい。

 犬神の行動は再び邪魔される。
「見つけた!」
 目印の狐火を追ってきて犬神に追いついた春日は、土の上を滑るように犬神の前に立ち塞がる。そっと八千夜を地面に下ろして、その体を包む光が増した。
「行かせねぇぜ。頼正を返せ」
 ぐるぐると喉を鳴らして、犬神は春日を睨んだ。
『・・・・・どうして邪魔をする・・・! 生き物を食うなんて当然のことだろう、弱きものは強者に食われる定めだろう・・・!』
 犬神の、地の底から上がってくるような低い声が春日と八千夜の耳に届いた。耳で聞いていると言うよりは、頭に直接入ってくるような声だ。
 八千夜は返事に詰まった。弱肉強食、そう割り切って自分たちも鹿を捉えていたのだから。犬神の欲求は、生き物として当然のことだ。
 だが悩む八千夜を余所に、春日は一歩前に出て当然のように言った。
「関係ない。俺はお前なんかより頼正が大事だ」
 春日の瞳も、犬神を睨み付けて細められた。掲げた手には脅すように火の玉が生まれる。美しい顔だけに、笑顔が消えたその時は薄ら怖い。
「炭になりたくなかったら、さっさと失せろ!」
 『仙狐』の称号をもつ九尾の狐。九尾の狐が行ったとされる伝承の数々は、実際起こせる力量があるからこそ信じられてきたのだ。
 彼は、狐の最高峰に立つものだ。
 しかし、その権威も狐の中でのみ通じることだ。異種間に置いて、その名声は聞けども立ち塞がるなら敵だ。
 犬神は、欲と怒りを連ねて春日に飛びかかった。
『狐が出しゃばるな!』
 守りより攻めの方が強い。引くより押す方が強い。それでなくとも怒りで力が勝っている犬神。弾かれるのはどちらか、明白だった。
 そして春日は心の奥でどこか本気になれなかった。今の異形を見ても、あれは頼正だ。
 舌打ちして、春日は犬神の一撃を避けて火の結界を張る。直接攻撃することは躊躇われたが、火の壁で行動を制限した。
 獣は火を嫌う。犬神も例外ではない。
 だが。しつこいようだが犬神は怒っていたのだ。
『邪魔をするな!!!』
 犬神は目の前に塞がる炎の壁を恐れ引かず、強行に飛び込んだ。
「なんだと!?」
 九尾の火は、ただの火ではない。九尾の意志によって自在に操られ、その温度も高く、簡単に消え失せることもない。
 だがその炎を。
『―――どけェっ!!!!!』
 犬神は自身が放つ咆吼と共に、大気を奮わせながら九尾の狐の炎を振り払ったのだ。
 それで力を使ったようにはとても見えず、体制すら崩さずに犬神は春日にその体をぶつけた。
 反射的に腕で防いだが、春日は勢いよくはじき飛ばされる。盛大な音を立てて、茂みに叩き付けられた。
「春日!」
 八千夜の声が響くが、応答はない。はらはらと春日が吹き飛ばされた茂みから砂埃が舞い、葉が舞い落ちた。
 犬神の目は、はじき飛んだ春日から八千夜に移る。八千夜の手首の傷と腹をかすめた怪我が完治して服だけ裂けていたので犬神はふと首を傾げた。だが、それもどうでもいいことだ。
 美味な血が零れていないだけ幸運とも言えるのだから。
 犬神が、確かにその獣の口を笑みに形づくった。白刃の牙が覗く。
 八千夜には春日ほどの力はない。
 だが
「・・・鴉たちには嫌われたが、風たちは儂に力を貸してくれるのだな」
 ならば『時間稼ぎ』くらいはできるかもしれない。
 八千夜はまだ少し火傷の跡が残る手で拳を作る。魅縒り石を取り込んだときに出来た火傷だ。取り戻した魅縒り石はあまりに少なく、あまりに弱い。自分の中に流れる風が、以前と比べ十分の一にも満たないと判っている。
 八千夜は犬神から目を逸らさずに周囲の風に呼びかける。
 春日が言った。「頼正を返せ」と。犬神をここで逃がしたら、頼正は遠のくのだろうか。
 詳しいことはまだ判っていないが、犬神を逃してはならない。
(風たちよ。出来る限りの力を貸せ!)
「疾風(しっぷう)の如く!」
 八千夜を中心に、突風が吹き上げる。細かく飛ぶ石つぶてに不快感を感じながら、犬神は喉の奥をならした。風により視界が制限され、圧を受けている。雑音も入り交じり、聴覚も不快。匂いをたどろうにも、風が匂いを飛ばす。
 途端位置を特定できなくなった犬神は、きょろきょろと首をまわした。
 吹き荒れる風の中心で、八千夜は素早く印を結ぶ。
 忠実で純粋な風たちに、細かく詳しい多くの命令を出したら力は分散され弱まってしまう。だから八千夜は、ただ心の内を無心にし、一つの言葉だけを念じた。
(渦巻け・・・!)
 犬神を包んで、ひたすら竜巻を起こせ。
『・・・・・・・!』
 犬神は顔を上げた。たかが風だと思っていたが、息苦しくなったことに嫌でも気付く。
『天狗・・・? いや、そんな匂いはしない・・・・・・!』
 犬神は、爪を地面に立てて身構えた。そして一足に飛ぶ。風の渦を抜ける際、風圧で切り傷がついたが犬神に怯んだ様子はない。
 犬神は考える。人間はもっと無力だ。前にいる人間はただの人間ではないらしい。だが、この程度の風が、犬神である自分を阻む壁になどなりはしない。
 左右にジグザグに飛び跳ね、犬神は後ろから八千夜に襲いかかった。しかし八千夜は背を向けたまま風に違う命令を出す。
 途端吹き上げる砂嵐が犬神の目に飛び込んだ。ぎゃんっと声を上げて、犬神は後ろに一歩下がった。
『おのれ・・・・!!』
 身をかがめて牙を剥いた瞬間、犬神は何かに気付いて身をよじって跳んだ。一瞬前に犬神がいた場所に連続して太い槍のようなものが地面に突き刺さる。それを辿ると春日がゆらりと立っていた。
「いい加減にしろよテメェ・・・」
「春日! 無事だったか」
 八千夜の言葉も聞こえていないのか、春日は攻撃の時に突き刺さった尾を引き抜き、服と髪に付いた砂を簡単に払った。そして、牙を見せて叫ぶ。
「この犬、コロス!」
 少なくとも冗談に見えない春日の本気の目を見て、八千夜は呆れたように引きつりながら思った。
(そうだった・・・・・)
 八千夜は頭を抱えたくなった。
 九尾の狐である春日は、自分が地に伏せらされる状態をその高い誇りが許さない。特に、最高位の九尾である春日は。
「死んで後悔しやがれこの下衆犬が!」
「待たんか春日! 犬神を殺してはいかんだろっ」
 怒りの炎を携えた春日を止めようとするも、八千夜の方を見ずに春日は静かに、しかしきっぱりと言った。
「退いてろ八千夜。巻き込みかねねぇぞ」
「頼正はどうするんだ。熱くなりすぎだ馬鹿者!」
 八千夜が怒鳴ったとき、犬神が襲いかかった。八千夜は身構えたが、それより先に春日がその木のように太い尾で犬神を横から叩き付けた。叩き付けられた犬神を見ながら、春日は呟いた。
「安心しろ、簡単には殺さない」
「どこに安心できうる要素があるのだ!?」
 いつもがどんなに温厚でも所詮は狐。獲物はじわじわいたぶって遊んでから食うのだ。
 犬神は本性を垣間見せた九尾の狐に気圧される様子もなく、対峙した。
 八千夜は一歩下がった。もはや、手に負えるレベルでは無くなった。村人達は近くにいないし、自分が避難した方が良さそうだ。

「・・・・・・・・・・・・おいおい、勝手に何やってやがるキツネ」

 八千夜の心中を悟ったように、タイミング良く宗方が現れた。山を下りてきたのだろう、裸足の脚に土と擦り傷がついていた。
 尖った耳を傾けて、春日は睨むようにその眼を向けた。笑顔が消えたその顔は、どことなく作り物めいて見える。
「・・・・・宗方か。何か文句があるか」
「大ありだ。俺が頼むと言ったのは、犬神の始末じゃねぇよ」
 すたすたと前に出てきて、宗方は春日を見た。犬神は、新来者に警戒して攻撃する様子はない。
「力があるから守ってやれって言ったんだ。巻き込んでどうする」
「・・・・・・・・」
 春日の隣に立つと、宗方は犬神を見た。痛ましげに眉を下げたが、それも一瞬のことだ。
「・・・人を食ったか?」
「なに・・・・?」
「どうなんだ。犬神は人を食ったか?」
 八千夜は戸惑ったように答えた。
「儂の血を、舐めた。食われかけたが春日に救われた。村人に犠牲はない」
「・・・・・・・・・・・そうか」
 宗方は、そう言ってさらに一歩前に出た。犬神が威嚇するように牙を剥く。身構えて伏せた犬神を見て、春日が後ろから宗方を止めようとした。それを宗方は手で制する。
 宗方は黙ったまま、懐から短刀を取り出した。守り刀の一種と見えるそれを見て、春日はついに口を出した。
「おい!」
 今はもう、いつものように落ち着いた春日である。八千夜はそれに安堵のため息をつく。
「何のつもりだ宗方? そんな小刀で・・・・・・」
 宗方はその問いに答えず、短刀を自分の手首に当てた。
「なっ」
 そして一気に、自分の手首を切り裂いた。迸る赤い血を見て、犬神の鼻が動く。
「馬鹿野郎! 一体・・・・・!」
 慌てた春日の声も無視して、宗方はぼたぼたと地面に血を零す。宗方のすぐ前には、瞬く間に血だまりが出来ていた。
『・・・・・この匂いは』
 犬神の目が細まった。チラリと宗方は痛みと出血で汗を浮かべた顔を向けた。
 脈拍に合わせて零れる血で出来た血だまり。しゃがんで、宗方は手の平を血だまりにつけた。
(・・・・・・・・・・・・・頼正)
 一度目を閉じて、宗方は口の中で言葉を紡ぎ始める。
『! させるか!』
 宗方の意図に気付き飛びかかろうとした犬神は、その前足が届くより先に風と炎に邪魔された。宗方の後方から、八千夜と春日が掌を向けていた。
 宗方は、少し浮かせた手を血だまりに勢いよく突っ込み、俯いていた顔を上げた。
 目の前にいる犬神と対となる、従順な犬神よ。喚び声に応えろ。
 犬神を睨み付ける宗方の瞳が、瞳孔から深紅に染まる。
「・・・・・参れ、白刃(しらは)!!!」
 名を呼んだ途端、血だまりが光った。
 ここでないどこかで、眠っていた犬の瞳が開かれた。






     * * *







「女子供優先に避難しろ! 慌てるな、だが急げ!」
 そう叫びながら、田村伸雄は自分自身も焦っているのだと判っていた。それと同時に、誰も落ち着けるわけがないとも思った。
 誰もが十八年前の出来事を覚えている。あの犬神を前にして、自分たちがどれだけ無力な存在かと言うことも。逃げろと誘導するのに、中には自宅でただ祈るだけの者もいた。
 梔村の人口は総計五六人だ。避難すると言っても、村人は必ず助かるわけじゃない。自然災害の対処なら対策を立てて様々なことを定めておけば助かる確率は上がるが、犬神相手にはそれはもはや関係ない。
 完全なる力量の差。人間が敵う相手ではない。
 梔村で定められている邑上家、田村家、倉木家をはじめとする犬上家と歴史を共にした梔村の代表達は、警鐘を鳴らした男の尋常ではない焦り方と状況の説明で、犬神の覚醒を確信した。もとより誰も、あの警鐘を疑ってはいないのだ。悪戯にあれを鳴らせるほど記憶の薄い者はいない。ただ、信じたくはなかった。
 村の中に立つ慰霊碑に、誰もが目を向ける。
「・・・・・・・・・・」
 倉木誠一は、目撃者の情報を頭の中で整理しながら犬神が来るとされる方向を見る。
(・・・・・・・変だな)
 犬神が来る気配がない。
「田村さん」
 荷物を持ち出そうとする村人を窘めて急かさせている田村を呼びかけ、倉木は冷静に言う。
「俺が様子を見てきます。みんなを避難させて下さい」
 田村が何か言う前に、倉木は走り出す。犬神家襲撃事件の責任を問われた倉木達だったが、緊急事態となった今は相変わらず頼れる村の重役だった。
 危険なことだと判っている。それでも恐怖を感じて思いとどまらなかったのは、もうすでに失うものがないからだ。
 如月霞織は、犬神に食い殺された。黒い犬の牙が霞織の胸を貫き、滴った血が下にいた倉木に降りかかり、呆然としていたことを覚えている。
 霞織は、霞織だったものは、肉の塊で倉木の目の前に戻された。微かに動く赤い塊に、幼い倉木は泣き叫ぶことも恐怖を覚えることも忘れた。
 本当は。自分がそうなるはずだった。
 襲われかけた倉木を、霞織が庇った。衝撃で真っ白になった倉木の髪が霞織の血で赤く染まっていった。
 霞織は、倉木を守った。
 走りながら、倉木は考えた。
(霞織は何故・・・)
 あのとき自分を守ってくれたのか。絶対的な力の差を目の前にして、覚悟したように倉木の頭を抱え込んだ。
 身を抉られても悲鳴を呑み込み、霞織は倉木を守ったのだ。
 その現実に、心に浮かぶものは犬神に対する怒りだけだ。犬神が来るというのなら、いっそ好都合だと倉木は思った。
 光石を無くして風を操る力はもう無いが、犬神に一矢報いたい。霞織のために、村のために。そして自分のために。
 倉木は出来る限りの速度で走った。






     * * *






 宗方の血だまりが白く光った。そしてその中から犬の鼻先がゆっくり出てくる。
 犬上家の血が結ぶ異界の門をくぐって、白い犬神が現れようとしている。宗方の手首からどくどくと流れる血によって異界の門は広がっていく。
 犬神の大きな頭が出た。血だまりは、白刃(しらは)と呼ばれた犬神の体に合わせて広がる。
 美しい毛並み。閉じられていた瞳は目覚めのようにゆっくりと開かれ、黒い犬神と同じ深紅の瞳を持つ白い獣が現れた。黒い犬神に比べ清楚な顔つきをした白刃が、最後にふわりと軽そうな尻尾を光る血だまりから抜き取ると、光は消えて赤い血の海に戻った。
 その神秘的な光景に見惚れていた八千夜と春日だったが、八千夜が先に我に返り、膝をついたままの宗方を見た。
 だらりと手をついたまま、肩で息をしている。駆けて横から顔をのぞき込むと血の気が引いて真っ青だった。
「宗方! 止血しろ!」
「・・・・・・いいから」
 宗方は、白刃と共に目の前の黒犬を見た。黒犬は特に、白刃を見ている。
 見つめ合うように向かい合う二匹の犬神を見て、春日が呟いた。
「対極図・・・・」
 八千夜が振り返った。春日は無感動な顔をしていた。八千夜は、彼がこのような顔をする時を知っていた。かつて戦や人を見て、そんな顔をしていた。悲しみや苦しみを、あえて受け入れて、納得はしないが理解している顔だった。
「決して相容れぬ、対局する完全体。しかし裏表の繋がりがあり、離れることはない」
 宗方が立ち上がった。それに寄り添うように白刃は宗方の脇に立つ。馬よりも大きな体躯と、強靱な爪。しかし、宗方に顔をこすりつけるその姿はじゃれる犬そのものだ。
 白刃の頭を撫で、宗方は小さな声で命令した。
「・・・・御前の対極である黒犬の、首を取れ」
 白刃の声が、応じた。黒犬ほど掠れていない、低い声。
『承知』
 白刃は俊敏に黒犬に襲いかかった。空腹と怒りで凶暴な黒犬に、負けない動きだった。黒犬は退くことを忘れたかのように応戦した。
 まれに見る妖怪大戦さながらの様子をうかがいながらも、八千夜は宗方に尋ねた。
「どうなっている・・・・頼正は」
 言葉は途切れた。宗方が叫んだからだ。
「白刃!」
 呼び声に応えるように、白刃は動きをより早めて黒犬の喉に噛みついた。
『ギァア゛ア゛ァァァアアッ!!!』
 黒犬が血を飛ばして叫んだ。それでも白刃は噛みついたまま離れない。その白い毛が赤く染まろうとも。
 黒犬は暴れ、白刃の顔を引っ掻いた。四本の鋭い傷が斜めに、白刃の顔の右半分に大きくできる。
『ぎゃんっ』
 一瞬弱まった力を、黒犬は見逃さなかった。渾身の力を込めて白刃を振り払い、黒犬は身を翻した。血を滴らせながら、山の中へと逃げ込んだ。
「白刃! 追え!」
 白刃は言われる前から黒犬の後を追って駆けだしていた。黒犬に続くように、同じく山の中に姿を消す。目の上を通って顔の右半分の傷から滴る血が地面で弾け、跡が残った。
 犬神達が姿を消し、その場は宗方の荒い息だけが聞こえていた。
「・・・くそっ」
 宗方は血が流れる手首を押さえて毒づいた。春日が、黙ったまま近づきその手を握る。
「無茶をする」
「ほっとけよ」
 血の気が引いた顔で、宗方は眉を顰めて言った。だが春日は握る力を強めると、目を閉じて口の中で言霊をつくる。抵抗はしないで、宗方はばつが悪そうに言った。
「・・・・・しばらくは、大丈夫だ。白刃が追っているから黒い犬神も深手を負うだろう」
 ぴりぴりとした、傷が塞がる感覚をむず痒く思いながら、宗方はその場にあぐらを掻いて座った。
 春日は傷全てを癒すのではなく、止血だけして後は手を離した。
 宗方は地面を見ている。ちょっと見ていなかっただけなのに、疲労しているのか目の下に隈があるように見えた。顔色が悪いせいかもしれない。
 突然、ごほごほと宗方は咳き込んだ。その背をさすってやりながら、八千夜は遠くで足音を聞き振り返る。走ってくる人影があった。
 地面についた傷跡と飛び散った血を見て、走ってきた倉木が足を止めた。
「・・・・貴様ら! なんだこの有様は! 犬神は・・・・っ」
 過去の惨劇を嫌でも思い出す。顔面蒼白な宗方と、元天狗の子供。そして、神々しいほどに美しく輝く、白面金毛の九尾の狐。でも犬神の姿はない。
 噛みつくように叫んだ倉木に、息を切らしながら宗方が言った。
「出来る限りはする。・・・・・村長に会わせろ」
 息を整える暇もなく再び立ち上がろうとする宗方を春日が押さえた。倉木に向かい合って、春日が少し固い口調で話す。
「俺たちも同行する。異形を恐れるならば人に化けるが、危害を加えるつもりは毛頭無い。信じてくれ」
 俺たちと言って、春日は八千夜を指した。八千夜は足下がふらつく宗方を支えながら、気まずげに倉木を見ていた。
 しばらく悩むように口を閉ざしていた倉木だが、目を閉じて頷いた。
「わかった。だが協定を結んだわけではない。・・・・・事の顛末(てんまつ)によっては、犬神と共にお前らも殺す」
「そうか。うん、それでいい」
 倉木は微笑む春日をチラリと見てから、白い髪を振って背を向けた。
「・・・・・・もう一匹の、犬はどうした」
 頼正を聞いているその質問に答えられるのは宗方だけだったが、宗方は答えなかった。
「・・・あとで、話す」
 とだけ呟き、一行は歩み始めた。





     * * * * *





 山の中で、白刃の追跡を振り払おうと黒犬はかけ続けていた。どれだけ逃げようとも、血を流す自分は絶対に追跡を撒くことはできないし、血が流れていなくとも対極である白刃に場所が判らぬはずがない。
 だが命令がなければ動かない白刃のことだ。直接攻撃をしてくることは、こちらから動かない限りない。
 黒犬は、崖下の窪みを見つけ休むために身を丸めた。力が足らない。・・・食いたい。
 いきなり黒犬は体の奥で苦痛を感じた。体の中で心臓や内臓器官を掴まれたような激痛に悶えた。
『・・・・・・・まだ馴染まない気か・・・ッ!』
 痛みをむりやり押さえつけ、黒犬は白刃が来るまでの間を休息に利用しようと目を閉じた。
 腹が減ったのなら、山の生き物を食えばいい。何も人間にこだわる必要はない。
 しかし黒犬は人間を食おうとしていた。理由は簡単だ。人間を恨んでいる。

―――人間は、全て食い殺す・・・!

 自分の中に在る『人間』も、その例外ではない。






     * * * * *






 宗方は途中、失血と疲労が原因で意識を失った。宗方を背負う春日と八千夜が倉木を先頭に梔村に入ったとき、村人の避難は完了しており、邑上村長と田村、そして数少ない男達が武器とも言えない農具を持って待機していた。
 倉木から簡単な説明を受けた邑上はすぐさま指示を出し、邑上、田村、倉木は話を聞くために村役場に集まった。
 八千夜は、控えめに宗方を起こした。すぐに意識を取り戻した宗方は、頭を振って覚醒しようとしたが逆に気分が悪くなりすぐ手で押さえた。裂いた手ぬぐいを巻き付けた傷が残る手首は、血こそ止まっているが痛々しい。
 ふらつく頭を回転させ、目の前に座っている見慣れた三人に眉根を寄せた。
 邑上は見るからに体調を崩している宗方を気にかける様子も無く急かすように言った。
「何が起きたのか説明して貰おう」
「・・・・・・・・」
 宗方が口を開くより先に、春日が言う。
「待て。誰もが口を閉ざしているようだが、十八年前に何が起きたのか。そこから話してくれないか」
「犬神が迫っているのに、そんな暇があるかっ」
 田村の怒鳴り声に、宗方は応える。
「いや、白刃に後を追わせた。しばらく時間はある。・・・・外で見張ってる連中も早く逃げさせろ」

 食われるぞ。

 宗方がそう続けると、村人達の代表は一瞬動きを止めた。咳払いをして、邑上が切り出す。
「・・・・・・そこの派手な若造たちは、――訊くまでもないが――誰からの言葉で過去を知りたいと思うんだ?」
 間髪入れず、春日と八千夜は応えた。
「「宗方」」
 邑上は予想通りの応えに一度頷き、立ち上がる。
「残虐非道な犬神の悪行を、自ら語るもまた苦しきことだろう。よかろう、我々は村人の指示を出すために席を外す」
「村長! こいつ自身に話させるなんて、どこで話がねじれるかわからないですよ!」
 田村の叫びに、邑上は落ち着いたまま言った。
「・・・どれだけ忌み嫌おうが、私はこの犬神使いの中にも罪業の念が残っていると思うぞ」
 そう言った邑上の脳裏には、過去の宗方の姿が映る。歳のとり方が遅い犬神の血を引く宗方は、まもなく二十歳になるというのに子供のままの姿で。必至に頭を下げて頼んできた。何度も何度も。
『お願い、します・・・・!』
 畏怖と嫌悪と侮蔑の視線を受けながら。頭を下げ続けていた子供。
 何かを思い出している邑上の様子と違い、倉木はただ床を見つめていた。
 歩き出した邑上の背に、田村が再び声をかける。
「邑上村長!」
「・・・・行くぞ」
 倉木は黙ったまま後に続く。渋っていた田村も舌打ちして村役場を出て行った。外から指示を飛ばす邑上と田村の声が聞こえて、宗方はやっと吐き出すように呟いた。
「・・・・・・・・何から、話せばいいのか。俺はその、あれだ。話すの苦手だから、イライラすんなよ」
 肩の力を抜き、大きく息を吐いた宗方の様子に、八千夜は正座、春日はあぐらを掻いて、まっすぐ目を向けた。
「かまわぬ」
「ゆっくりでも良い。真実を話してくれ」
 二人は、気になってしょうがないのだ。
 ここに。今ここに、頼正がいない理由がわからないのだから。
 宗方は手当てされた自分の手首を見た。そして痛んだ胸を手で押さえてから、思い出すように目を伏せた。
「十八年前の、さらに三年前。そこから話す・・・・・・・・」
 つまり、二十一年前。
 珍しいことに。その場を思い出した宗方は目を細めて少しだけ不器用に微笑んだ。
「二十一年前。村八分の状態が続き、俺にとっては何もかも不変だった毎日で」
 その時、庭にいた宗方はそこで赤子の産声を聞いた。今でも鮮明に思い出せる。
 元気な赤子の笑顔と。それに伴う祝福を。
「・・・頼正が生まれたんだ」