9
 




 宗方は十六歳だった。だが犬神の血を引く宗方の見た目は、十歳になるかならないかの子供だった。
 厳しい父の教えのもと、犬上家の血筋の因果も知らされていた。自分の成長速度の異常さも、この広い屋敷の外には多くの人が住んでいるということも。
 犬上家には、条約があった。山の麓にある梔村との不可侵条約が結ばれているのだと、何度も何度も教えられた。
 一つ、犬上家は梔村との関わりを禁ず。一つ、山から下りるべからず。
 広い自宅だけ。それが宗方の『世界』全てだった。
「宗方」
 庭で、夏の訪れの度に見る蛍を縁側で見ていたとき、赤子の産声が聞こえ、父が宗方を呼んだ。手招きをされるままに近づき、そっと襖を開ける。
 普段からあまり顔を合わせない母――姉が布団に寝そべり、その近くで赤ん坊が泣いていた。
 見慣れぬ赤子を凝視していると、父がゆっくりと持ち上げた赤子を宗方に抱かせた。
「お前の弟。頼正だ」
 小さい体のどこから出しているのか疑いたくなるほどうるさい大音量の泣き声に慌てながら、宗方は訊ねる。
「お、弟?」
「そうだ」
「・・・・・父さんは、女子って」
「それは仮定の話だ。生まれるまでどっちかわからん」
 宗方の実年齢が十二を超えたとき、父が熱心に言う言葉があった。
 『犬上家の血を残すために、もし妹が生まれたら二人が大きくなったとき子をつくれ。』
 近親相姦がまたこの国では異常だと言うことを宗方は知っていた。しかし実際、“条約”がある犬上家はそれが行われていた。目を手で隠しながら髪を乱して産後の疲れに息を乱している女性は、母であり姉だ。父も姉を産むために、自分の妹と契った。姉を産んで叔母は亡くなり、姉が犬上家で唯一の女性となった。
 揺すっても泣きやまない頼正に、母であるはずの女性は怒鳴る。
「出て行って! その子も連れて出て行け!」
 母乳を与えなければならないのでは? 宗方が口を滑らせる前に、父が頼正を抱きかかえて宗方に言った。
「お前は、先に寝てなさい。明日また話をしよう」
 そう言って宗方を追い出し、襖を閉めた。だが、宗方は驚いたままその場に立ちすくんでいた。女性の反応に驚いたのではない。父が微笑んでいたことに驚いていたのだ。
 泣き続ける赤子を抱いた父が、微笑んでいた。
 厳しい父が、微笑んでいた。女子を望んでいて、しかし結果は男子だった。それでも父は。
(・・・笑ってた)
 ああ、祝福されている。
 狭い宗方の世界に、祝福を受けた人間が生まれたのだ。
 

 頼正の世話は、おもに宗方がしていた。十六になったときに、大体の基礎的な学業は終えていたし、父は梔村との関係にかまけ忙しく、母である女性は姿を見せなかった。
 泣き始めた頼正を抱きながら、宗方は早足に縁側を歩く。
(菫(すみれ)さんがいないと・・・)
 母であり、姉である女性をどう呼べばいいのかわからなかった宗方は、名前で「菫さん」と呼んでいた。
 広い犬上家。最奥の一室の前で、宗方は声をかけた。
「菫さん! 頼正がお腹空かせてる!」
 宗方の声も頼正の泣き声も聞こえているだろうに、中から返事はない。中から気配はする、つまり居るのに返事はない。
 本で読んだ。子供にも母体にも、生まれたばかりは母乳を与える方が良いのだと。
 しかしいくら呼んでも応答はない。頼正の泣き声ばかりが大きくなる。
「菫さん!」
「宗方」
 必至になってきた宗方の声を遮り、いつの間にか後ろにいた父が宗方の頭に手を乗せた。
「山羊の乳があるから、人肌に温めて頼正に飲ませてやれ」
 宗方が少し俯くと、悟ったように父が苦笑した。
「・・・・菫は産後で疲れているんだ。前に教えただろう?」
 珍しく優しくそう言われ、宗方は小さく答えた。
「・・・・マタニティ、ブルー」
 出産直後の母親にみられる抑鬱や情緒不安定な状態を『マタニティブルー』という。
「そうだ。ほら、頼正が可哀想だ」
 父はそう言うが、宗方は信じていなかった。出産の前だって妊娠の前だって、菫はいつも宗方を嫌っていた。姿を見せることはなかった。
 父の言葉に従って水場に向かいながら、宗方は頼正をあやす。
「泣きやめ頼正。もうちょっとだけ待ってくれ」
 声をかけるが、頼正は腹を空かせて泣いている。
 菫は恨み辛みを宗方にぶつけたことがあった。犬上家存続のために、父と思っていた男に孕まされたと意味もわからなかった頃の宗方にぶつけたことがあった。
――――まだ私は、十二歳の子供だった!
 叫んだ菫の声は掠れていて、でも泣いていた。髪を掴まれても、怒鳴られても、宗方はその叫びを聞いているしかできなかった。
 この家はおかしい。
 母乳ではない、山羊の乳をほ乳瓶で飲む赤ん坊の頼正を見ながら宗方はそう思った。
 何故そうまでして子孫を残そうとするのか。
(・・・みんな、哀しいなら)
 ここから出られないなら。疎まれ、悲しみを生むだけなら。
(犬上家なんて滅べばいいんだ・・・・)
 母に一度も抱かれていない頼正を見て、特にそう思った。祝福を受けて良いはずの頼正の扱いが、納得できなかった。
 腹が満たされ、眠りについた頼正の寝顔を見て、少しだけ笑う。
「・・・・・・俺たちは何年生きるかな頼正」
 かつては二百年生きたとされる犬上家でも、近親相姦が行われるようになってから短命になっている。短命と言っても成長の仕方に変わりはなく、宗方は十六とは思えない自分の華奢な腕を見てため息をついた。
「ごめんください」
 玄関に近い水場にいた宗方は、確かに呼びかける声を聞いた。父でも菫でもない、誰かの声を。ぱたぱたと玄関に駆けていくと、おしとやかに前に手を添えた女性が微笑んで玄関に立っていた。宗方が見る、初めての人だった。
 女性は宗方を見て微笑む。
「こんにちは、御当主はご在宅かしら」
「誰・・・?」
 優しそうな笑顔は、宗方を安堵させた。菫からも父からも、このような笑顔はあまり見られない。
 女性は応えた。
「私は霞織よ、如月霞織(きさらぎかおり)。お父様に『梔(くちなし)からの使者が来た』とお伝え下さい」
 長く美しい髪を持った霞織は、細く白い手を自分の胸に当てて言った。
 宗方と言えば。
「・・・・・・・・・・」
 初めて見る家族以外の人間と、優しそうな笑顔を見て、ただただ目を丸くした。
 驚きながら。
(・・・・・・・良い匂い)
 心地よさげに、目を細める。霞織から漂う花の甘い香り。
 それが『クチナシ』という花から生まれる匂いだと知るのは、もっと後のことである。
 

     * * *
 

 それから霞織は何度か犬上家を訪問した。そのうちにどうやら菫の世話係らしいと気付いた。
 産後調子の悪い菫と頼正の身の回りの世話をして、帰っていく。年齢は宗方より少し上だろうか。それでも二十歳には及ばないだろう。
 もっとも見た目は十ほどの差があるが。
「霞織!」
「あら宗方さん。どうしました?」
 のんびりと、庭を歩いていた霞織を見つけ、宗方は駆けて近寄った。頼正はいま昼寝をしている。
「父さんを見ていないか?」
「御当主なら、菫さんの部屋にいらっしゃいますよ。いかがされました?」
 一瞬詰まって、宗方は小声で返した。
「いや・・・・たいしたことじゃないが」
「私でよければ、お手伝いしますよ」
 しばらく宗方は黙っていたが、霞織は微笑んで宗方が言い出すのを待っている。宗方は顔を背けて言いにくそうに言った。
「・・・・・・・・・・・その、取って貰いたい書物があるんだが、崩れそうで」
「ああ、はい。わかりました」
 にこにこと霞織が笑うので、宗方は少し顔を赤くした。十歳程度の体つきでは、身長もたかが知れている。つまり手を伸ばしても届かないのだ。しかも、その床には踏み場を置くだけの余裕もない。
 霞織の腰の辺りまでしか身長がない宗方は眉にしわを寄せた。
(・・・普通の成長なら、きっと霞織より背が高いのに)
 なんだか悔しかった。
「宗方さん、眉間にしわを寄せると跡になりますよ」
 子供をあやすように宗方の眉間に触れてしわを解す霞織に、宗方はさらに照れて慌てた。
「見た目は子供だが、俺は十六だ!」
「そうですね、立派な殿方に失礼致しました。ではご案内頂けますか?」
「・・・・・・・・・・」
 このように、落ち着き払ったまま笑顔を崩さない霞織に、何度か宗方は閉口させられたものだった。
 だが、確実に。そんな毎日に『楽しさ』を覚えていたのだ。
 
 
 
 夕刻、宗方に「また明日」と声をかけて帰路についていた霞織は、長い階段の中腹で座り込んでいる少年を見つけた。少年は、霞織を見つけてぱっと笑う。
「カオリ!」
「誠(せい)ちゃん。迎えに来てくれたの?」
 『誠ちゃん』と呼ばれた少年―――倉木誠一(くらきせいいち)は、霞織に近づいてその顔を見上げた。
「大丈夫? 犬神たちに、なにもされていない?」
「大丈夫よ。犬上家の人たちは優しいわ」
 顔を振って、誠一は霞織に抱きついた。
「でも村のみんなは言ってるよ! 犬神のもとに訪れるのは危険だって! 食べられるかもしれないって・・・!」
 霞織はしゃがんで、誠一と視線を合わす。頭を撫でてやりながら笑いかける。
「心配要らないわ。私はただ、身の回りのお世話をしているだけよ」
「でも」
「ありがとう誠ちゃん、心配してくれて。でもね」
 霞織は哀しそうに微笑む。
「・・・・・・犬上家の人たちだって、人間よ。生きていて、感情があるわ。泣くし、怒るし、笑う。そして、一人になるのは哀しいのよ?」
 誠一の黒い髪を梳いてやりながら、霞織は立ち上がって帰ろうと促す。
「あなたが私を必要としてくれるように、彼らにも私は必要なの。それはわかってね」
「・・・・・・・・・・うん」
 でも幼い誠一は、素直に頷いてもどこか不安で、ちょっと嫉妬もあった。手をつないで一緒に村に向かいながら、誠一は胸の内でもやもやしたものを感じた。
 霞織が取られたようで、ちょっとだけやきもちを感じていた。
 

     * * *
 

 しばらく、霞織が来ない日が続いた。これまでは毎日のように来ていたのに、もう半年ほど姿を見ていない。
 宗方は十九歳になった。頼正は三つになったが、犬上家特有の成長の遅さが現れ、まだ歩き始めたばかりだ。
 いつものように宗方が頼正の世話をしていた。成長が遅いと言っても、もう癇癪を起こして夜泣きすることも減ったし、落ち着くのは落ち着いていた。
 昼寝をしている頼正の隣で本を読んでいた宗方は、突如開いた障子の方を向き、目を丸くした。
 寝崩れ乱れた裾のまま、髪も櫛を通した様子はなくぼさぼさで、しかし目だけはまっすぐに寝ている頼正を見下ろし、蒼い顔で菫が立っていたのだ。
「菫、さん?」
 しおりを挟むことも忘れて本を閉じ、宗方は投げるように本を机に置いて声をかけた。しかし菫の視線は頼正に注がれたままで。眠っている頼正を、何も言わずに抱き上げた。
「・・・・・・・借りるわ、これ」
 菫は宗方に向けて一言漏らし、頼正を抱いたまま部屋を出て行く。慌てて宗方は閉じられた障子を開け、菫に言う。
「ちょっと待って! どこに!?」
「・・・・・・自分の子をどうしようが、私の勝手でしょ」
 宗方も菫の子供なのだが、本人にその認識は薄いらしい。前を向いたまま一度も振り返らずに歩を進める菫に、宗方はちょっと声を大きくしていった。
「父さんは? 父さんの許可は取ったのか!?」
 ぴたり、と菫の足が止まる。少しだけ振り返って、宗方を睨んだ。
「・・・あなたは嫌い。あの人と、同じ事を言うもの」
 そう言って、再び歩き始める。宗方が追おうかどうか考えていると、後ろから父が現れた。
「待て、菫!」
 父の呼び声にも反応せずに、菫は縁側の角を曲がる。舌打ちして、父は宗方に言った。
「私が後を追おう。お前はここにいなさい」
「・・・・菫さんは、その」
「今は、話す時じゃない」
 冷たいその一言は、宗方を動けなくする。父の言葉は絶対で、動くなと言われれば動くことは出来ない。
 大人しく頷く宗方の肩を叩いて、父は表情を崩さずに呟いた。
「お前は私の跡取りだ。・・・“表”のな」
「え?」
「私の部屋に『犬神之書 光闇対極図項』という本がある。読んでおけ」
 父は身を翻し、菫の後を追った。残された宗方は父の言葉を繰り返して呟く。
「・・・・犬神之書、光闇対極図項・・・・・・・?」
 書物は昔からたくさん読んできたが、その題には聞き覚えすらない。父の部屋にあると言うことは門外不出の禁書なのだろう。
(・・・・・・だが何故、いま読書の許可を出したんだ?)
 内心首をひねるが答えは出ない。宗方はさっそく父の部屋へと向かった。
 あまり入ることのない父の部屋にしまわれていた禁書。古く重いその本をそっと開き、宗方は読み始めた。
『犬神使い。犬神憑き。犬神の血を引く我が一族。その血が途絶えるまで犬神は受け継がれ、血が滅べば犬神は失せる。一族の起源より憑く犬神、その名は黒太郎(くろたろう)。残虐非道な振る舞いと性質は人にも受け継がれ、血と肉を求めて夜な夜な喰らう。それを止めるは白き犬神、名を白刃(しらは)。黒太郎を戒める対の存在として新たに血族が生んだ犬神である。以来祀られるは白き犬神。黒き犬神は暗い狭所にその神棚を置く。表を飾る白き犬。裏を支える黒き犬。その実害は―――――』
 宗方は、古文で書かれた文をそれなりに意訳しながら早い速度で読んでいく。
『召喚型か共存型。長寿と怪力。犬上家の人間につきまとう因果はおもにそれら。永い命を授かり、強き力を受け継いで、犬神は生き続ける。人とあやかしの狭間で』
(狭間・・・・)
 人でも、あやかしでも無いと言うことか? それとも、どちらでもあると言うことか。
 そして。
(召喚型・・・)
 過去に何度も父に習った、犬神の繰り方のことだろう。血を媒介にして犬神を喚び寄せる、異界をつなぐ法。
 しかし共存型とはなんだ? 名前だけは聞いたことがあるが、詳しくない宗方は文字を追う。
『変身とは違う、あくまで“共存”する外法。身体負担が大きく誰もがなれるわけではない。犬神に選ばれたものが、極稀にそれを担う・・・・・・過去の実例は一人のみ・・・・・』
 後は文字が掠れていた。目をこらしても読めそうにない。宗方は心の内で舌打ちして本を閉じた。
 しかしこれを読めと父は言った。意味がないはずがない。
 そう思った宗方が再び本を開き読み返そうとしたとき、鋭い『音』が宗方の耳を突いた。
「うあっ!?」
 反射的に耳をふさぎ、外を見る。
 宗方が知らない山の梺から、人の叫びが聞こえる。父が言っていた言葉によると、犬上家の下にはその加護を求める村が築かれているのだという。
 犬上家の加護。名の通り、梔村は『犬神の籠』だ。荒々しい犬神を抑える籠として、世に出さぬために梔村は存在する。
 宗方は見たことがないが、恐らくその梔村から。悲鳴が聞こえる。
「・・・・・・・・っ」
 父には「ここにいろ」と言われた。だが、不協和音を奏でる耳障りな悲鳴を無視することは出来ない。
 後でしこたま怒られる気がするが、やむを得まい。
 宗方は初めて家を飛び出した。
 それが、後々哀しい結果を生んだ。
 

     * * *
 

 菫は、寝着のまま階段を下りていた。やつれた体とこけた頬。生気が感じられないその姿は病人のようだった。はだけた胸元の近くで、静かに眠る頼正を抱いている。
―――ここは監獄だ。
 菫は、ゆっくり歩みながらそう思う。父も、弟であり息子である宗方も、監獄に入る自分をさらに縛る鎖と枷だ。
 これ以上、重りは要らない。自由になりたい。
 頼正を少し見て、菫は投げ捨てそうになる衝動を抑えた。
(また、男だった・・・・! また・・・)
 無表情の菫の顔から、涙だけがはらはらと落ちた。
(跡取りを残せる女を産むまで、わたしは囚われ続ける・・・・!)
 そんなのは嫌だ!
 菫の感情が、高まった。どくんと血潮がみなぎる。
 突然頼正は泣き出した。菫は舌打ちし、歩を早めた。
(この子はまだ、重りになっていない。取引の材料にもなる・・・!)
―――わたしはここから出たいのです。犬神の血から解放されたいのです。
 それは誰に言っていたのか、菫自身にもわからない。
―――わたしは自分のために生きたい。ここから出て、恋というものもしてみたい。一生囚われて、呪われた跡継ぎを生むだけしか価値がないなんて、命がないのと同じだ。
―――助けてください。たすけて・・・。
 菫は近づいてきた梔村を見て一度足を止めた。伸ばしっぱなしの髪が風で舞う。薄い服の裾がばたばたとなびく。まだ続く階段の中腹で菫は呟く。
「・・・・・・霞織が来ないから悪いのよ」
 頼正の泣き声が、菫の苛立ちを大きくする。
「うるさい! 黙りなさいよっ」
 平手で頼正の頬を叩き、菫は再び歩き始める。衝撃に驚いた頼正は、唸って涙を零し続けたが声を上げることはなくなった。
「約束したのに・・・」
『あなたが望むなら、私は毎日でもここに来ます。お世話をします。あなたを助けます。そのために私が居るのです。』
 菫の中で霞織の言葉は、半年姿を見なかっただけで薄れかけていた。
 霞織は生け贄だった。でも、父が手伝いをしてほしいと言ったから生け贄ではなくなった。そして手伝いをして貰った。霞織は菫の支えになってくれた。だから信じた。
 でも裏切られた。
 生け贄は、犬上家から逃げた。
(わたしは逃げることさえ叶わないのに)
 菫の瞳は、体中の水分を出してしまうかのように涙を零し続けた。その雫が、殴られ赤くなった頼正の頬に数滴落ちる。
―――『犬神の籠』は、邪悪の新芽を摘む代わりにわたしを逃がしてくれるだろうか。
 それこそが、菫にとって唯一の提案法だったのだ。
 
 
 
 現梔村の村長である邑上利盛(むらかみりせい)の父であり、当時梔村の村長だった邑上良盛(よしもり)は、突如現れた犬神家直結の息女の提案をただ驚いていた。
 とりあえず村人たちの好奇の視線を逃れるために自宅に通し、話し出すのを待った。ともに席に着いた次期村長候補の利盛は、茶を配りながら菫の姿を見た。
 病に冒されていたような風貌で、生気もなく、愚図る赤子をその胸に抱いていた。
「粗茶ですが」
「・・・・・・・・・・・・・・・ありがとう」
 か細い声を返すが、茶に手をつける様子はなかった。礼を言ったのを口火に、俯きながらぼそぼそと話し始める。
 少なくとも菫は緊張していた。犬上家以外の人間を見るのが初めてだったのだ。
「わたしは、お願いを・・・しにきました」
「犬上家のご息女様が・・・・・我々に、ですか?」
 こくん、と菫は頷く。
「・・・・・・・わ、わたしを・・・・・自由にして下さい。犬上家から解放して下さい」
 籠を開けて下さい。
 菫の目は、泣き腫れて少し赤くなっていた。顔色が悪い中、そこだけ血が通っているようだった。
 声は震えていた。
「あなた方が、犬神を懼れていると知っています。そのための籠だと知っています。でもわたしは犬神を持ちません。跡取りでもありません。・・・・普通の、人としての生活が欲しいのです」
「・・・・・・・・・・・我々は、賛同しかねます。その意志に反する犬神の力は、もはや畏怖でしかないのですから」
「だから取引をお願いします」
「取引?」
 良盛と菫の会話を聞きながら、利盛は菫に抱かれている子供に目をやった。
「わたしたち犬上家は、他家との交わりを禁じられました。しかし祖父や父は、血を絶やさぬために身のうちで子供を残しました。わたしの父と母は、血の繋がった兄妹と聞いております」
 少なからず驚いている二人の顔に、菫は少しだけ泣きそうな顔をした。だがもう涙は出ない。
「しかし母は亡くなり、わたしは十三になる前に父との間に子を成しました。ご存じの通り、宗方です。わたしは幼少期の成長が早かったので、本来の人と同等の成長を遂げました。―――最も今現在の老化は人より遅いようですが―――そして父は、今度は宗方が子を残せるように、少なくとも女児がもう一人欲しかった。そのために生まれたのがこの子です。父の意にそぐわぬ男子でしたが」
 ゆっくりと説明する菫の言葉だが、良盛と利盛が理解するためにはことさら早く聞こえた。
「・・・・・・・いくつに見えますか? この子はこれでももう三つになるのです。成長の遅さは犬神の特徴・・・・・・この子は間違いなく犬神憑きです」
「その情報が、取引だと?」
「いいえ。わたしはきっと、再び女子を産むまで父に囚われたままでしょう。子をつくるまで『籠』は開かないでしょう。・・・・・・あなた方が恐れる犬神の子を貴方達に差し上げます。幽閉するも殺すもお任せします。だからわたしを、籠の外に出して下さい」
 それは懇願だった。良盛と利盛は息を呑む。
 だが、まだ戸惑い悩んでいる風だった。菫は続けざまに問う。
「霞織は、どうして来ないのですか? 父に脅されて、彼女を犬上家の生け贄としたのでしょう・・・・?」
 男子であった新生児。このままでは子孫が途絶えることを危惧した父が、籠の一人を手元に置こうとした。宗方自身は知らないが、宗方の許嫁という皮を被った生け贄として、梔村から女を出させたのだ。
 勝手な言い分だが、菫は彼女の存在が有り難かった。彼女がいれば菫はこれ以上、父との間に子をつくらなくてすむ。もしくはこの先にあった、宗方に抱かれる可能性もほぼないものとなる。
 それなのに。
「・・・・・・・霞織は、どこにいるのですか?」
 彼女は悪くない。望まれぬ婚儀を迫られている彼女の気持ちは理解できる。
 それでも。
「・・・・・・・・・・・」
 無言の村長を見て、菫は決定打を与えたと内心ほくそ笑んだ。モラルなんて最初から無い。
「この子をあげる。犬神が出ないうちに殺せばいい。だからわたしを外に逃がして・・・・」
 もう他がどうなろうと知ったことではない。
 菫は頼正を机の上に載せた。利盛は、頼正と良盛と菫の顔を交互に見て、嫌悪を顔に出した。
(・・・・・・自分の子供で、弟だろう・・・!?)
 でも菫は言った。感情もなく淡々と、『殺せばいい』と。代わりに自分を逃がしてくれと。
 利盛は顔を背けて思う。あまりの利己欲の醜さに反吐が出そうだ。
 良盛は利盛のように感情を見せずに、その高齢からは窺えぬほど凛々しく光をもった目で菫を射た。頭を振る。
「お引き取りを。犬上家当主の許可無しに、籠を開けることは出来ません」
 菫は、動きを止めた。良盛は続ける。
「少なくとも、他者の命と引き替えに己が利を得ようとする心を悪しきものとわたしは思います。・・・・・・・お引き取りを」
 ぎりっと歯を噛みしめて、苦渋の顔をつくる菫。もう零れないと思っていた涙を再び目に浮かべ、怒鳴った。利盛はその剣幕に少しだけ目を開いた。
「どうして! 全ての人間が父の言葉を絶対なものとするんだ! わたしの願いは、そんなに高い望みなのか!?」
 菫は狂乱して立ち上がり、懐から小刀を出した。
「この、犬神を殺せばすむ話なんだ!」
―――犬神なんか滅べ。わたしを捕らえる鎖となる前に、壊してしまえ。これ以上の重荷は耐えられない。わたしが、潰される。
 菫が両手で小刀を握り、机の上の頼正に向かって振りかぶった。良盛が動くより先に、利盛が立ち上がって手を伸ばした。
「止めろッ!」
「ああああぁぁぁぁあああぁぁっ!!!」
 涙の雫を零し、菫は腕を振り下ろした。防ごうと前に伸ばした利盛の手を切りつけ、血が流れる。軌道がずれた小刀は、頼正の顔のすぐ横を通り机に突き刺さった。
 だが、代わりに利盛の血が頼正の顔に飛んだ。温かく、赤い血の臭いを頼正が感じるより先に。
 カッと開かれた赤子の頼正の瞳孔は、一瞬で赤く染まった。
 
 
 

     * * *
 
 
 
 宗方は走っていた。初めて出た犬上の敷地の外に好奇心が生まれるより先に、不安と不吉な予感が渦巻いていた。
 玄関からまっすぐ階段を下りると村がある。そう教わったはずなのに、見える村は半壊していた。遠目でも“赤”が見えた。家に屋根に地面に、“赤”が飛び散っているのが見えた。そこから聞こえる叫びは、聞き間違いなどでは決してない。
 そして獣の遠吠えが聞こえた。びりびりと聴覚を突くような叫び。宗方は背筋が凍るような悪寒に耳をふさいで耐えたが、近くの森からは小動物の鳴き声と鳥が羽ばたく音がした。『恐怖』の波紋が目に見えるようだった。
 森から鹿が、熊が、兎が、栗鼠が、狸が。空には数種の鳥たちが。地中ではもぐらやミミズ、虫たちが。生き物が逃げていく。
「!?」
 ばっと宗方は右側を振り向いた。そこに生き物の気配がした。
 優れた聴覚に全神経を使い、宗方は茂みを凝視した。その内、鼻を突くほどに血の臭いがむせ返る。
 次第に草を踏み分ける音がした。そして姿を現したのは、しばらく姿を見ていなかった霞織だった。
「霞織!」
「宗方、さん・・・・・お久しぶりです」
 よろよろと頼りなく歩く霞織に駆け寄って、宗方は訊ねた。
「何だ!? 何が起きてるんだ? 何が起きたっ!?」
「・・・・・わかりません、ただ逃げろと言われ・・・・・知り合いの子供を連れ、他の方々と山に入ったのですが・・・・・・・・その方達は、こう言っていました」
―――――『犬神』と。
 その単語を聞いた途端、宗方は衝撃で目を開いた。霞織の言葉は、なお続けられた。
「梔村に、菫さんが来たと聞き・・・・・私も向かう途中だったのですが」
「菫さんが、村に来てたのか・・・・?」
 宗方は一度口の中に溜まった唾を飲みこんだ。嫌な予感が、大きくなっていく。
「子供は・・・・・・?」
 宗方の中で、警報が鳴る。聞いて良いのか、と自問する。
「・・・菫さんは、赤ん坊を抱いていたか?」
(頼正は・・・・・・?)
 霞織は首を横に振った。わからないという意思表示を受け取り、宗方は答えを得なかったことに安堵と不安の両方を感じ、微妙な揺れを心に残した。
 そしていきなり、そう遠くないところで断末魔と思しき叫びを、複数聞いた。二人は体を跳ねさせて同じ方向―――森の方を見た。宗方は服の端を握る霞織の手が震えているのに気付き、霞織の前に出た。
 その途端に。
「・・・・・・・ッ!!!!??」
 悪寒、と言うよりも一気に世界が氷点下まで下がった気がした。凍ったように動けなくなるほどに、強烈な予感。本能がたった一言を告げている。
―――――逃げろ。
 腕をちぎれるくらい振って、脚を動かなくなるまで回して、息が出来なくなっても、心臓が破裂しそうになっても、とにかく逃げろ。
 生き物なら誰もが感じる本能を、疑う術など誰も持ちはしない。その威圧を受けただけで全身から汗が流れ、喉が渇く。
 本当に、蛇に睨まれた蛙とは、こういうことだ。
 動く術がない。瞬く余裕など無い。一瞬宗方は背中にいる霞織の存在すら忘れかけた。
 重力が増した。そんな気さえする。
 空気が波打った。びりびりと揺れながら耳をつんざくその獣の叫びでやっと宗方は金縛りを解いた。まだ震えている霞織の手を握り、宗方は力強く立ち上がる。
「・・・獣の王が、啼いてる。俺は行かないと」
 ぎゅっと宗方の手を握る霞織の手が震えながら、躊躇ったようにゆるめられた。
「・・・・す、いませ・・・・・わ、私も・・・・・・・」
 冷や汗を流して、確かに恐怖にさらされているのに、霞織は宗方のために少しだけ微笑もうとした。だが宗方は遮るように言った。
「無理をするな。・・・・・一緒に行ってやれなくて、ごめん」
 自分に出来ることはないと悟ると、霞織は座り込んだまま途切れ途切れに言った。
「・・・・・・・・・・いえ・・・・・・お気を、つけて・・・・・」
 手を離すと、霞織は空いた両手で自分の肩を抱いた。宗方が一度迷った顔をすると、今度こそ霞織は上手く微笑んだ。
「大丈夫・・・・」
「・・・・・霞織も、出来るだけ遠くに行くんだ。村人達にあったら、ここに霞織が居ると伝えるから」
 宗方も少しだけ力づけるように微笑んで、重い一歩を進めた。血の臭いに向かって。
 一歩を踏み出すと、突然駆けることが出来るようになった。宗方は、恐怖に呑まれないように気を張りつめ、森の中へと駆けて向かった。
 聞こえる叫びは複数ある。宗方が茂みを飛び出ると、逃げまどう女子供がいた。
「そこにいる連中! こっちから山の反対へ回れ! 途中、霞織という女と合流しろ、急げ!」
 叫びながら、宗方は入れ違うように逆走する。分けもわからぬ恐怖にパニック状態となっている村人達は、素直にその通りに行動した。
 片手で子供の手を引いてもう一方で赤ん坊を抱き、必死に駆ける母親を見て宗方は胸に鉛でも持っているような気分になった。
 血生臭さが強くなってきて宗方は手で鼻を覆う。そして突然足を止めた。
「・・・っ!」
 数人の死体があった。見るだけでは何人かわからない。原形を留めている者の方が少ないのが現状なのだ。
 蹌踉けかけたので一歩踏み出すと、ぴちゃっと血だまりを踏んだ。血と、内臓をまき散らした無惨な死体達は、点々と道になっていた。
 森を荒らして、村の方からさらに先ほどの女子供が逃げたのは逆の方向へと向かっている。
 黙祷や弔いなど考える余裕もなく、宗方はそれを追った。獣の爪跡が、木や地面を切り裂いている。
 そう遠くない場所で、見慣れた人物が木にもたれて座っていた。目を瞑り、血を流しているが、微かに胸が動いている。
「父さん!」
 宗方が声をかけると、父は鈍い動きで顔を上げた。が、途端顔を顰める。
「くっ・・・・・取り逃がした・・・!」
「犬神を・・・白刃(しらは)を出したわけじゃ、ないんですか・・・・・?」
「白刃ではない・・・・・・・・・・・・ごほっ」
 血を吐いた父の背を起こすのを手伝い、宗方は訊ねて良いのかどうか悩んだ。だが父は訊かずとも話し始める。
「か、は・・・ぁ・・・ッ・・・、良く聞け宗方。菫が、頼正を結界の外に出したから・・・・・・・・頼正が暴走している」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・え?」
 右目を潰されたらしい父の顔は、半分血だらけだった。いつもの隙を見せない父とはかけ離れた弱々しい姿だった。でも父は、こんな状況でも威厳があり良く響く声で言った。
「赤子のアイツには・・・・! まだ理性も知識も力も、何もないから・・・・・・制御すら出来ないんだ・・・・」
「どういう・・・・・・・・?」
 うすうすは、わかっていた。でも宗方は訊ねた。
 訊ねたが、その答えは聞きたくない。
 そんな矛盾した宗方の思いとは裏腹に、父は負傷している脇腹を押さえながら続けた。
「・・・・・頼正は、――良く聞け宗方――・・・・・・・・頼正は」
 父の言葉は間違えようがなくはっきりとしていて、口の動きも目で追っていた。
「頼正は、・・・・・・・『共有型』だ・・・・・っ!」
 それでも、信じられなくて宗方は首を振った。
「・・・・・共有型は・・・・過去に実例はほぼ皆無で・・・俺たちみたいな純血を保ってない者には出ないって言ってたじゃないか!」
 信じたくないとありありとわかる宗方の肩を掴み、父は言う。
「だが現に・・・。宗方、繰(く)り方は・・・前に教えたな?」
「・・・・・ああ」
 血を媒介に、異界の門を開く術(すべ)。犬上家の正当後継者が引き継ぐ、召喚法だ。
 父は、片目で宗方を見た。
「宗方、頼正を止めろ。人としての意識は無いが・・・まだ赤子のあいつなら、止められるだろう・・・・・・」
 また咽せて血を飛ばす父を見て、宗方は弱々しく言った。
「父さんを、助けてからだ・・・・」
「駄目だ。犬神は腹を空かせて人を襲っている。・・・・・被害が大きくなる・・・・」
 犬神家の存続のために努力してきた父は、自嘲気味に口の端を上げた。
「・・・・・・・それに、どうせ私は助からん」
 どくどくと流れる血が雄弁にそれを語っていた。
 ぎりっと歯を噛み、宗方は俯いた。それもわかっていてなお、父は宗方に厳しかった。
「それより。・・・・・出来れば、殺すんだ」
 呟きの意味がわからず、宗方は顔を上げた。父は一つとなった目を閉じていた。
「人の味を知った獣は、人食いを続ける・・・・・・・頼正を捕らえて、・・・・・殺すんだ宗方」
 突如、その意味が理解できずに宗方は呆然と父を見つめる。
「それがお前の役目だ・・・・・第十二代目の、犬神家当主として」
 
―――――狂った犬神の始末をつけろ。
 
 下った命令の残酷さに、宗方は苦しそうに父を見つめた。